二式複座戦闘機・屠龍

(キー45改)


【二式複座戦闘機「屠龍とりゅう」】

昭和12年(1937年)から陸軍の開発指示に従い、川崎は双発複座の戦闘機の試作を開始したが、エンジンの不調や異常振動が解決されず開発中止となった。
陸軍は昭和15年に改めて再開発を指示。
川崎は設計を全面的に変更した試作機を製作したところ、この機がドイツのメッサーシュミットBf-109との模擬空中戦で互角の性能を発揮したため、二式複座戦闘機として制式採用となった。
本機は戦争末期には対B29攻撃で活躍した。

(参考:『歴史読本』 2012年8月号)

(平成29年4月4日 追記)


屠龍のエンジン 屠龍のエンジン

正面から見たエンジン



正面から見たエンジン






(平成17年2月6日)
横から見たエンジン 横から見たエンジン

空冷複列星形14気筒ですが、三菱ハ102なのか三菱ハ112-Ⅱなのかは知りません。

離昇出力:1080馬力×2基
最高時速:540km/高度6,000m

 後から見たエンジン

展示されているエンジン


茨城県東茨城郡大洗町沖の太平洋で漁船の網にかかって引揚げられました。
エンジンは茨城県ひたちなか市・水戸つばさの塔公園に展示されています。
ここは陸軍水戸飛行場跡地です。


(平成17年2月6日)

二式複座戦闘機「屠龍」甲型(キー45改)データ
全備重量 5.5トン
エンジン 三菱ハ102空冷複列星型14気筒×2基(離昇出力1080馬力×2)
最大速度 540km/時/高度6,000m
上昇力 高度5,000mまで7分
実用上昇限度 1万m
航続距離 2,000km(落下式燃料タンクなし)
武装 20mm機関砲×1(弾数50発、予備50発)
12.7mm機関砲×2(弾数各250発)
7.92mm九八式旋回機関銃×1(弾倉15個、計1,050発)
100kg爆弾×2
乗員 2名

屠龍の生産機数:各型合計1,690機

二式複座戦闘機の各型の武装

甲型
機首=ホ103機関砲(12.7ミリ)2門
胴体下=ホ3機関砲(20ミリ)1門
後席=九八式7.92ミリ旋回機関銃

乙型
機首=ホ103機関砲(12.7ミリ)2門
胴体下=九四式戦車砲(37ミリ)1門
後席=九八式7.92ミリ旋回機関銃

丙型
機首=ホ203機関砲(37ミリ)1門
胴体下=ホ3機関砲(20ミリ)1門
後席=九八式7.92ミリ旋回機関銃

(参考文献:渡辺洋二著「双発戦闘機屠龍」)


歴史

昭和 9年 1934年 フランスとドイツで大型双発多座戦闘機の構想が生れる
昭和11年 1936年 フランス・ドイツで双発多座戦闘機初飛行
昭和12年 1937年 オランダ・アメリカで双発多座戦闘機初飛行
12月、航空本部より川崎航空機に対して双発複座戦闘機(キー45)開発の命が下る
昭和13年 1938年 イギリス・イタリアで双発多座戦闘機の開発が始まる
12月、キー45試作機完成
昭和14年 1939年 1月、ドイツ空軍双発多座戦闘機(Bf110)部隊配備開始
2月、キー45の2号機完成
5月、キー45の3号機完成
昭和15年 1940年 中島ハ20乙エンジンの不調によりキー45の開発に失敗
4月、中島ハ25エンジンに換装して開発続行
10月、中島ハ25から三菱ハ102エンジンに換装したキー45改の開発開始
(キー45改は設計主務者土井武夫技師による新設計機)
昭和16年 1941年 1月、飛行実験部、キー45(ハ25エンジン)の飛行テスト開始
夏、飛行第87戦隊にキー45が1機実戦配備されるが胴体着陸で修理不能となる
9月、キー45改試作1号機完成
昭和17年 1942年 2月、キー45改が二式複座戦闘機(二式複戦)として制式採用となる
昭和18年 1943年 1月、九四式戦車砲(37ミリ砲)搭載の二式複戦1号機完成
従来の機体の甲型に対し乙型の符号が付く
(6月までに甲型20機が航空工廠で改修され、乙型として各部隊に送られる)
3月、ホ203機関砲(37ミリ機関砲)搭載機の開発開始
5月、ホ203機関砲搭載試作1号機完成(二式複戦丙型)
(10月までに65機が航空工廠で甲型から丙型へ改修される)
9月、ホ5機関砲(20ミリ)の斜め上向き装備機の開発開始
9月、ホ401機関砲(57ミリ)のテスト用機1機完成
12月、斜め上向き機関砲装備試作1号機完成
昭和19年 1944年 1月、二式複戦に機載用邀撃レーダー(機上電波標定機)タキ2号を搭載してテスト
3月、二式複戦の後継機キー102乙(襲撃機型)試作1号機完成
6月、二式複戦の後継機キー102甲(高高度戦闘機型)試作1号機完成
8月、タキ2号搭載の応急改造二式複戦10機が航空工廠で作られる
8月、キー102甲の向上型キー108試作1号機完成
昭和20年 1945年 3月、キー108実戦用機キー108改1号機完成

(参考文献:渡辺洋二著「双発戦闘機屠龍」)


【夜間誘導レーダー】

機上にレーダーを積むと重量や体積の上で問題があるため、指揮装置だけを地上に分離しようという案が出た。
敵機の高度、角度を測るレーダーも開発されたので、これと対空見張り用レーダー乙とを組み合わせて、地上に戦闘指揮システムを作る考えが生まれた。
地上にタチ13号レーダーを置いて、まず「屠龍」の位置を知る。
「屠龍」にはタキ15号を積んでいるから、機位を自動的に報告できる仕組みだ。
地上で敵機の位置、方向、高度を作図し、「屠龍」に伝えれば、雲が多くてもB29と遭遇できる。

この誘導システムは陸軍技術研究所の第3科で開発され、昭和19年6月、調布飛行場で実験された。
この時の成果では、およそ150キロまで、上空の「屠龍」の誘導が可能だった。

関東地区を守る第10飛行師団(天翔兵団)の第53戦隊には、「屠龍」が3個中隊あった。
この編隊長機にタキ15号レーダーが付けられ、昭和20年の東京大空襲の際に実用されたが、会敵できなかった。

地上式電探(レーダー)タチ13号に替わり、タキ28号が試作された。
これは「屠龍」数機をひとまとめにして、大量のB29を邀撃させるという画期的な新兵器だったが、活躍しないうちに終戦を迎えた。

(参考:木俣滋郎 著 『幻の秘密兵器』 光人社NF文庫 1998年8月発行)

(平成31年4月19日 追記)


【上向き銃】

昭和17年以降、ラバウル基地がボーイングB17爆撃機の偵察や爆撃を受け始めた。
戦闘機が舞い上がっても歯が立たない。
単座戦闘機の機銃は、機首方向に真直ぐに固定され、斜め後方から下方へ通過して撃つことになっているので、そのわずかな間しか目標が照準器に入らない。
B17やB24リベレーターのように、高速で高空を飛来する敵機には、一度銃撃して下方へ抜けると、もう追いつけない。
回避されて1発も撃てないこともある。

昭和17年11月、空技廠でのB17対策会議で、小園中佐は斜め機銃を提案したが、全員が否定した。
1ヶ月後、大佐として昇進し、第251航空隊司令になった小園は、空技廠に頼み込んで、双発の二式偵察機3機を分けてもらい、九九式20ミリ機銃二連装を斜め上向きに付けてみた。
昭和18年5月12日、B17が2機、ラバウルに飛来した。
二式陸上偵察機2機がこの斜め銃を引っさげて舞い上がり、瞬く間に2機を撃墜した。
これに驚いた航空本部は、3ヶ月後、斜め機銃の採用を決定し、二式陸上偵察機を夜間戦闘機「月光」と改名し、機体の上下に30度の角度で、20ミリ二連装を付け計4門とした。

陸軍でも海軍に1年遅れ、双発戦闘機「屠龍」に、同じような斜め機銃が付けられたが、上方だけだから「上向き銃」と呼ばれた。
「屠龍」は、単座戦闘機との巴ともえ戦(格闘戦)に押されていたが、これで一躍、B29撃墜のホープとなった。
陸軍の高射砲連隊には、九三式照空灯18基が配備され、これが夜間、B29を捕えるや「屠龍」が敵機の下側へもぐりこんで20ミリ機関砲を乱射する。

陸軍では13ミリ以上の機銃を機関砲と呼び、ホ3型、ホ5型の固定式が2種類あった。
ホ5型は「飛燕」や「疾風」の主力砲だったが、「屠龍」のホ3型は、それより銃身が長く命中率が良かった。
初速(弾丸のスピード)は毎秒850メートル、真上に向けて撃つ場合、最大1000メートルまで有効だが、1分間に350発しか撃てなかった。(海軍の20ミリ機銃は1分間に500発)
同じ20ミリ弾でも、「屠龍」の徹甲曳光弾は細長くて425グラムもあり、海軍の「零戦」「月光」の210グラムの倍あまりあった。

(参考:木俣滋郎 著 『幻の秘密兵器』 光人社NF文庫 1998年8月発行)

(平成31年4月19日 追記)


キー45改(二式複戦)が装備された主な部隊

独立飛行第84中隊
昭和17年3月、ハノイ(仏印=ベトナム)に展開していた第25軍直属第21独立飛行隊所属・独立飛行第84中隊(九七式戦闘機を装備する戦闘機隊)に初めてキー45改(二式複戦)が配備された。(9機)
※第21独立飛行隊は独立飛行第82中隊(軽爆・偵察機隊)と独立飛行第84中隊とで構成。
昭和17年5月、広東に移動し、「せ」号航空作戦に参加。(9機~12機)
6月12日、初空戦を経験し撃墜4機(うち不確実1機)、損失2機。
戦死者は、操縦=家入いえいり二郎少尉(少飛1期出身・少候21期)、同乗=本田二一軍曹と操縦=山田操曹長(少飛4期)、同乗=安川主計軍曹の4名。
6月下旬、ハノイのジャラム飛行場に戻る。
7月、第21独立飛行隊は新設の第3航空軍に編入される。
8月、カルカッタ攻撃準備の為、英空軍機との戦闘の研究に入る。(9月下旬、インド進攻作戦が中止となる。)
9月20日、敵編隊の進攻に対し迎撃に出る(6機?)が、3機と5名を失う。
10月15日、2個中隊編成の飛行第21戦隊に改編される。

飛行第21戦隊
昭和17年10月下旬、カンボジア・プノンペンに移動して錬成に入る。
12月5日、パレンバンへ移動し同地の防空任務につく。
12月15日、パレンバン南方60キロのゲルンバン飛行場へ移動し防空任務と訓練を続ける。
12月25日、訓練のテスト飛行中にきりもみ墜落。(操縦=岡崎公道中尉殉職)
以後、特殊飛行(上昇反転)が厳禁とされる。
12月27日、夜間飛行訓練の石井実中尉機が墜落。(殉職2名)
12月31日、パレンバン飛行場に戻る。
昭和18年2月1日、1中隊(中隊長:神田正喜中尉)8機、スマトラ島北部のマダンの製油所防空の任務につくため同地に移動、2中隊(中隊長:牛島泰ゆたか中尉)はパレンバンの防空を続行。
昭和18年3月、ビルマ・ラングーンの防空を命じられる。(1個中隊派遣命令)
3月8日、第2中隊(中隊長:牛島中尉)、ラングーン郊外のミンガラドン飛行場に進出
以後、ラングーン防衛、アンダマン海の船団掩護を実施
7月、第2中隊、二式複戦丙型数機の配備を受ける。
8月8日、ラングーン防衛を第1中隊と交代し第2中隊はパレンバンに帰還
昭和18年末、12.7ミリ機関砲の斜め上向き装備機(甲型丁装備機)部隊に到着
昭和19年1月、第1中隊、スマトラ島パレンバンに帰還
2月、2個中隊編制から戦隊本部・飛行本部・3個編隊群(1個編隊群は12機)に編制変更する
5月末、第3航空軍・第9飛行師団から対戦闘機戦闘を命じられ、丙型のホ203機関砲を取り外す
6月、夜間戦闘をを重視した訓練を開始
6月27日、第9飛行師団から夜間防空専任を命じられ再度ホ203機関砲を装備する
夏~秋にかけて空戦の機会なく、錬成につとめる
8月末の保有機は48機(うち可動機34機)、操縦者31名
11月、フィリピン戦協力(モロタイ島攻撃)のため、セレベス島マカッサルに進出
3個編隊群を旧編制に戻し、4機を戦隊本部へ、残りを2個中隊にわける
昭和19年11月~昭和20年1月、モロタイ島夜襲を繰り返す
昭和20年1月20日、パレンバンに帰還、戦力回復につとめる
1月24日、英機動部隊に対して邀撃
4月14日、七生翔撃隊(特攻隊)2機がスマトラ中部のパダンに前進するが攻撃の機会なく終わる
以後交戦の機会なし
7月中旬、本土決戦の布石として、一部の隊員と複戦10機を防衛用に残して12機がパレンバンから台湾北部の桃園へ移動
7月20日、桃園に展開中の第3錬成飛行隊を吸収
飛行第21戦隊隊員は実戦用の第2中隊、第3錬成飛行隊隊員は錬成用の第1中隊と区分
第2中隊は台湾夜間防空と沖縄の敵飛行場攻撃訓練を行なう
8月1日、第2中隊は敵機動部隊への特攻待機に入る
8月14日、9日に宣戦布告したソ連に対抗するため中国大陸への移動命令を受領
移動準備中に終戦を迎える

飛行第5戦隊
2番目にキー45改(二式複戦)が配備された部隊で、第17飛行団に所属し千葉県柏飛行場・千葉県松戸飛行場に展開して東京の防空を任務としていた。(3機配備のち6機に増加)
昭和17年4月、ドーリットルによる本土初空襲時に初出撃するが戦果なし。
防空力強化計画により装備機を6機から9機に増加決定。
7月29日、飛行第5戦隊の1機が空中分解事故を起こす。
操縦=白男川しらおがわ肇伍長(少飛6期)、同乗=加藤久士曹長(少飛3期)が墜死する。
9月2日、飛行第5戦隊の1機が柏飛行場で墜落事故を起こす。
操縦=難波武中尉、同乗=森田曹長が殉職
昭和17年末、二式複戦に機種改変完了
昭和18年6月、飛行第7師団へ転入され、南方へ抽出される
7月21日、ジャワ島西部のマランに移動完了(出発時36機中、到着28機)
第1中隊=チモール島ラウテン、第2中隊=アル諸島、第3中隊=チモール島クーパンに展開
10月上旬、ホ203機関砲装備の丙型が到着
10月16日、連絡用の九九式軍偵察機を受領した小松原戦隊長が離着陸訓練中に殉職
11月11日、後任の戦隊長・高田勝重少佐(明野飛行学校教官)が着任
昭和19年1月19日のアンボン島上空での大空戦で活躍(戦果:撃墜7機、うち不確実2機)し第7飛行師団長から賞詞を受ける
3月、中隊編制を持続できず飛行隊編制が導入される(保有機15~16機)
5月25日現在の戦力は、ハルマヘラ島ワシレに7機、ニューギニア西端のエフマン島・サマテ島に11機
5月27日、ビアク島へ上陸した米軍攻撃のため高田戦隊長以下二式複戦丙型4機が50kg爆弾2発を付けて出撃するも全機未帰還となる
6月、ビアク島への攻撃を継続
6月中旬、ブルウ島ナムレアに後退し、セラム島の防空および船団掩護に任じる
6月下旬、新戦隊長として松山武夫少佐が着任し、アンボン島リアンで跳飛爆撃の訓練を行なう
7月中旬、セレベス島メナドのランゴアン飛行場へ移動、保有機は定数56機に対して27機(うち可動機は10機程度)
7月17日、フィリピン・ネグロス島バコロド飛行場へ移動し訓練
その後、中京地区防空のため、二式複戦をバコロド飛行場に残して内地へ帰還
9月初旬、重爆撃機で第一陣が大坂・大正飛行場に到着、二式複戦丙型を受領
9月中旬、愛知県・小牧飛行場に移動
9月25日、戦隊長交代、新任戦隊長:山下美朋少佐
10月17日、名古屋郊外・清洲飛行場へ移動
12月上旬、長谷川実大尉、寺沢幾一郎軍曹が対艦船特攻要員として転出(昭和20年4月沖縄戦で第20振武隊として散華)
12月下旬、4名が戦力増強のため飛行第53戦隊へ転属
昭和20年1月3日、14日、23日のB-29名古屋空襲に邀撃
5月14日の名古屋大空襲(B-29=472機)に対して迎撃し撃墜4機、撃破6機
5月から川崎の新鋭機・五式戦闘機の導入が始まるが、五式戦の不足と夜間攻撃使用の目的のため二式複戦10機以上が残こされる

飛行第13戦隊
関西・中部管区の第18飛行団所属。大阪府大正飛行場に展開。九七戦装備の戦闘機隊。
昭和17年8月20日、二式複戦3機配備。伝習教育を開始する。
昭和18年3月末、機種改変を完了する。
4月2日、南方転用の正式命令が出る。
4月20日、先発隊として戦隊長秋田熊雄中佐以下20機(うち乙型3機)が大正飛行場を発ちラバウルへ向かう。
訓練不足、整備不良、故障の続出で、5月11日にラバウル南飛行場(ココポ)に到着したのは5~6機のみ。
ラバウルで活動中の第11703部隊を編入する。
6月下旬、後続の全機がラバウルに集結完了。(34機)
新戦隊長・長野綱男少佐着任(元独飛84中隊長)
7月8日、第2中隊・第3中隊がウエワク東飛行場へ進出。
途中、敵と交戦し、横山利夫中尉(操縦)・流田軍曹(同乗)が戦死する。(部隊初の戦死者)
戦隊は主に船団掩護・夜間防空に任じる。
8月17日、B-25(32機)、P-38(85機)の奇襲攻撃を受け、第4航空軍は約130機の保有機が一気に40機となり、戦隊も稼動機が2機になる。
このため内地へ戻った第12飛行団がラバウルに残した一式戦闘機(隼)を自隊用に使用する。
9月23日時点での二式複戦の稼動機は2機、実質一式戦の部隊となる。
11月16日、ウエワク上空で長野戦隊長戦死。
11月末、戦隊は西部ニューギニア・ワクデ島に後退し第7飛行師団に編入される。
12月、二式複戦を再装備して船団護衛の任につくが、1ヶ月ほどで一式戦部隊に戻り、バンダ海周辺の作戦に参加後内地に帰還。
昭和19年末、フィリピン決戦に参加し、四式戦闘機(疾風)の部隊として台湾で終戦を迎える。

飛行第4戦隊
九州・中国・四国管区の第19飛行団所属。山口県小月おづき飛行場に展開。
昭和17年8月頃、二式複戦2機配備。2名が飛行第5戦隊で伝習教育を受ける。
9月~10月、隊内で伝習教育を行なう。
昭和18年7月末、機種改変を完了する。
昭和19年1月、飛行隊編制を導入(飛行隊長:小林公二まさじ大尉)したが、従来の中隊編制を引き継ぎ、第1隊から第3隊までの3個隊に分けていた
装備機は二式複戦甲型、丙型(航空工廠改修の前期型と川崎製の後期型が混在)の合計35機
5月下旬、夜間専任部隊に指定される
6月16日、小倉に侵入したB-29に対して初めての邀撃を行なう(撃墜7機、撃破4機、損失なし)
7月8日、B-29(第20爆撃兵団所属)に対する邀撃に二式複戦18機が参加(各部隊合計53機が出撃)
この邀撃で向後次郎軍曹機(同乗:松崎伍長)が下関市郊外の丘陵地に墜落し戦死(対B-29防空戦で陸海軍を通じて最初の戦死者となる)
10月、小林飛行隊長から今井不二雄大尉に交代
12月下旬、4名が戦力増強のため飛行第53戦隊へ転属
昭和20年3月16日から11日間東京防空の応援のため印旛飛行場に展開
5月、回天隊としてB-29への体当たり攻撃を続け、戦力減少
5月7日、今井飛行隊長戦死

南海派遣「洋」第11703部隊
昭和18年1月、飛行第5戦隊と明野飛行学校の南方進出要員で編成した混成部隊。
隊長は飛行第5戦隊第1中隊長の千葉吉太郎きちたろう大尉。
装備は37ミリ戦車砲搭載の百式司令部偵察機(6機)と37ミリ戦車砲搭載の二式複戦(6機)。
(飛行第5戦隊派遣操縦者)
遠藤義定中尉・百冨貢准尉・古森理雄曹長・門田修軍曹・三輪正興伍長の6名。
(明野飛行学校派遣操縦者)
本田定夫少尉・若山善松少尉・関谷銀治准尉・本山保准尉・池田彦四郎曹長・宮脇万次曹長の6名
整備班を含め総員36名。
昭和18年2月1日、空母「大鷹たいようにて南方へ向かう。
2月7日トラック諸島春島に到着、試験飛行・射撃訓練を行なう。
2月中旬、ラバウル西飛行場へ移動。第12飛行団直属となる。
二式複戦(門田軍曹)と百式司偵(本山准尉)、移動途中で行方不明となる。
3月2日、事故により若山少尉殉職。
4月、宮脇曹長(百式司偵)未帰還・戦死。
4月上旬、第12飛行団司令部と共に東ニューギニアのウエワクに展開する。
5月、飛行第13戦隊先発隊のラバウル到着により解隊、飛行第13戦隊に編入される。

飛行第45戦隊
白城子飛行団所属の部隊
九九式双発軽爆撃機を装備して昭和18年1月からラバウル、ブーツを基地にして、ソロモン方面・ニューギニア戦に参加
昭和18年12月4日、損耗激しいため内地に帰還し、鉾田飛行学校で二式複戦に改変を始める
12月下旬、二式複戦丙型(川崎製の後期型)を受領して未修・伝習教育を開始
昭和19年2月6日、鉾田を出発して東部ニューギニアへ進出(戦隊長:佐内不二生中佐)
2月下旬、ワクデ島に到着し、附近の哨戒と錬成につとめる
3月19日、ハルマヘラ島ミティに移動しメナドを前進基地にして船団掩護の任につく
4月26日、フィリピン・ルソン島のクラークに移動してフィリピン中部からセレベス海に至る船団の援護にあたる
6月、戦隊長が佐内中佐から高橋賢一少佐(鉾田飛行学校付)に変わる
6月20頃、ネグロス島へ移動し跳飛爆撃訓練と船団掩護につく
8月10日の可動機は19機
8月末の可動機は内地に帰還した飛行第5戦隊がバコロド飛行場に残した二式複戦を受領したので26機に回復
9月12日、米第38任務部隊の艦載機の攻撃を受け、パナイ島サンホセ・パラワン島プエルトプリンセサへ退避
9月17日夜、9月15日にモロタイ島に上陸した米軍に対し、100kg爆弾2発を積んで攻撃をかける(なけなしの6機~7機)
10月6日、なけなしの4機をレイテ島ブラウエン南飛行場へ派遣し、哨戒任務にあたらせる
10月19日未明、10月17日朝の米軍のスルアン島上陸によりブラウエン派遣隊はサラビアへ移動
一部の整備員は残留し、その後の地上戦で全滅
10月20日、米軍レイテ島に上陸
この時点での保有機は4~5機だったが、10月24日には可動機1機となる
その後、飛行第27戦隊を指揮下に入れ戦力を保つ(29日に飛行27戦隊はクラークへ帰還)
10月末、サラビア南のシライ飛行場へ移動し、クラークから1~2機づつ送られてくる複戦を使ってレイテ島への攻撃を継続
11月23日現在の保有機9機(うち可動4機)
11月24日、第2次レイテ島総攻撃(各部隊参加機合計47機)に参加(2機)
その後は単発的にレイテ島攻撃を続行
12月25日、可動機がなくなり操縦者のみ輸送機でルソン島クラークの南アンヘレス南飛行場に後退
2~3機の二式複戦で細々と船舶等に対しゲリラ攻撃を行なう
昭和20年1月、米軍のリンガエン湾上陸によりクラークを放棄、ルソン島北部のツゲガラオへ後退
その後、大本営の内地帰還命令により台湾へ脱出
2月10日、茨城県鉾田に集結し二式複戦の後継機・キ102乙に改変して戦力回復につとめる
8月、九州への進出準備中に終戦を迎える

第3錬成飛行隊
昭和19年4月19日、台湾の台中飛行場で編成
錬成飛行隊とは高等練習機教育を終了した航空士官学校・陸軍士官学校出身以外の将校と下士官の実用機による戦技教育を担当する飛行隊
錬成飛行隊は第1~第28まであったが、二式複戦の教育を行なうのは第3錬成飛行隊のみ
初代飛行隊長:山下義朋大尉(飛行第5戦隊出身)
基幹人員:空中勤務者32名(うち同乗者12名)、整備班約160名
6月19日、初の二式複戦9機を受領
7月下旬、第1期錬成要員83名入隊(甲種幹部候補生7~9期、少年飛行兵13期、乙種予備候補生7期)
この時期の保有機数は二式複戦丙型(後期型)19機、一式双発高等練習機6機
8月、部隊長交代、後任は杉本明少佐(前・第20教育飛行隊長)
10月11日現在の戦力は二式複戦26機(うち実戦可能機13機)
10月12日、台湾沖航空戦に参加
初日の出撃で出撃機11機のうち9機を失う
12月上旬、杉本飛行隊長に替わって長岡良一少佐が着任
昭和20年3月23日、特攻隊(誠第114飛行隊)を編成(14名)
4月1日、誠第114飛行隊は彰化から宮古島へ前進し沖縄の敵艦船に特攻
4月22日、28日、2番目の特攻隊(誠第119飛行隊)10機が敵艦隊に特攻
5月3日から12日、3番目の特攻隊(誠第123飛行隊)4機が敵艦隊に特攻
5月中旬、彰化から桃園に前進(複戦=8機、キ102=2機)
7月20日、桃園に移動してきた飛行第21戦隊に吸収され第3錬成飛行隊は解散となる

飛行第53戦隊
昭和19年3月23日編成、第10飛行師団所属、基地は埼玉県所沢飛行場
戦隊長は児玉正人少佐(重爆撃機出身)
編制は当初から飛行隊編制で、飛行隊隊長は上田秀夫大尉
二式複戦丙型丁装備機(上向き銃装備)が主力を占める
5月27日、小月の飛行第4戦隊とともに夜間専任部隊に指定される
9月、所沢から千葉県・松戸飛行場へ移動し、飛行隊を3個隊に分割
第1飛行隊「まつうら隊」(上田秀夫大尉)、第2飛行隊「こんごう隊」(中村淳一中尉)、第3飛行隊「さざなみ隊」(藤森正義中尉)
10月中旬頃の出動可能機数は25機(うち夜間作戦可能機12機)
11月10日、武装等をはずし軽量化した複戦4機でB-29体当たり隊「千早隊」を編成し、高高度飛行訓練と体当たり訓練を開始
12月5日、体当たり特攻隊が「第3震天隊」と名づけられる
昭和20年1月9日、27日のB-29東京空襲に邀撃
4月、夜間邀撃は戦隊主力が担当、昼間邀撃は震天隊(特攻隊)が担当しBー29を邀撃
4月15日~16日の川崎上空での邀撃で撃墜12機、撃破11機、損害は戦死1名
5月24日、東京空襲(B-29=520機)を迎撃し「さざなみ隊」が3機、「こんごう隊」が4機を撃墜
5月25日、増田利夫少尉が体当たりで散る(学鷲最高記録のB-29撃墜5機)
6月20日、松戸の南10キロの藤ヶ谷飛行場へ移動(可動機30数機)

屠龍のプラモデル 1/72スケール模型 長谷川製作所

川崎 二式複座戦闘機 屠龍丁型”震天制空隊” (飛行第53戦隊第3震天制空隊)

飛行第27戦隊
昭和19年9月13日、米艦載機の攻撃を受け、ネグロス島サラビアの虎の子の複戦13機が全機炎上喪失する
10月中旬、第3中隊(高橋安夫少佐)のみ二式双襲(=二式複戦)に改変完了しフィリピン・ルソン島北部のツゲガラオと南部のレガスピ―で洋上哨戒にあたる
クラークの第2中隊には複戦1機のみ、第1中隊は改変中のため装備機は旧式の九九式襲撃機
10月24日、台湾から後藤戦隊長自ら複戦4機を持ってきて先任の飛行45戦隊長指揮下に入り活動
10月29日、戦力回復のためクラークに帰還
11月24日、第2次レイテ島総攻撃(各部隊参加機合計47機)に参加(3機)
のちに内地(所沢)へ帰還
昭和20年4月、キ102乙への改変予定が生産急落のため装備機がなく戦隊は解散、一部隊員は飛行第45戦隊へ転属

独立飛行第25中隊
昭和18年10月30日に編成された満洲の関東軍・第2航空軍所属の臨時集成戦闘隊(満洲第800部隊池田隊)が元の部隊
九七式戦闘機装備部隊のため戦力不足、よって昭和19年4月中旬に二式戦闘機”鐘馗”へ改変
昭和19年8月25日、独立飛行第25中隊に改編を完了
隊長:池田忠雄大尉
部隊改編を機に装備機を二式複戦に変更
9月3日、二式複戦丙型4機をもって満州・鞍山で伝習教育を開始
二式複戦を装備した最後の実戦部隊となる
9月8日、B-29の来襲による鞍山防空戦に二式戦3機・二式複戦4機が参加
その後、鞍山北東の遼陽へ移動
二式戦を返納して装備機はほとんどが二式複戦丙型となる
9月26日、B-29の鞍山への来襲に対し、二式複戦15機が出撃
12月、池田隊長負傷のため松本武夫大尉に交代し南満洲の防空任務につく
12月7日、B-29(108機)の奉天爆撃に対し、15機が迎撃
12月中旬、空対空特攻隊(勇武特攻隊)4名を選出
昭和20年1月、特別操縦見習士官(特操)11名が着任
戦闘行動のないまま練成につとめ8月を迎える
8月9日のソ連参戦により、単座化の複戦に50kgタ弾2発を装備して即時待機
8月12日、ソ連機甲部隊攻撃のため12機が錦州に進出、4機が機甲部隊を攻撃
8月15日午前、16機が白城子方面のソ連地上軍を攻撃(未帰還3機)し四平に戻って整備中に終戦を知る

二式複戦による特攻

フィリピンにおける陸軍特攻(昭和19年11月上旬~昭和20年1月下旬)
勤皇隊(鉾田教導飛行団で編成)=山本卓美中尉以下14名、13機が突入
皇魂隊(鉾田教導飛行団で編成)=三浦恭一中尉以下5名、5機が突入
皇華隊(飛行208戦隊・飛行第45戦隊で編成)=池内貞男中尉以下5名が突入
飛行第27戦隊特攻機=平山英三少尉以下2名、2機が突入
これらのほとんどは、操縦者だけが乗り、250kg爆弾2発を以ってオルモック湾やリンガエン湾の敵船舶に体当たり攻撃を敢行した。

沖縄特攻の主力は九州の第6航空軍の75個の「振武隊」
このうち複戦で編成されたのは、振武第24隊(常陸教導飛行師団編成9名=隊長:小沢大蔵中尉)と振武第45隊(鉾田教導飛行師団編成10名=隊長:藤井一中尉)の2個

(参考文献:渡辺洋二著「双発戦闘機屠龍」)


双発戦闘機「屠龍」
渡辺洋二 著 朝日ソノラマ新装版戦記文庫13 1993年第1刷発行 定価880円

屠龍  複座戦闘機



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