東京都戦没者霊苑

(東京都文京区春日1−14−4)


霊苑 平成18年3月11日

由来文

東京都戦没者霊苑は昭和6年の満州事変から日中戦争を経て、昭和20年(1945年)8月の太平洋戦争終結までの東京都関係戦没者約16万人の霊をまつる。
敷地は、昭和15年に忠霊塔建設予定地に選ばれた小石川陸軍工科学校跡地である。
昭和35年、ここに東京都戦没者霊苑が建設されたが、それは歳月の中に老朽した。
また、年々齢を加える遺族が、安全に慰霊祭に参加するための配慮も必要となった。
そこで戦没者の慰霊と平和への願いを新たに、このたび全面改修を行い、昭和63年(1988年)3月に完成した。
設計は、建築家相田武文、碑文は、芸術院会員、文化勲章受章者山本健吉、碑名の揮毫は東京都知事鈴木俊一による。
私たち都民はこの霊苑につどい、霊前にぬかずき、改めて戦争とは何であったかを深く考えたい。
戦没者の御霊にお願い申し上げる。
お声を風に託して、戦争の実態を私たちに語り聞かせていただきたい。
そして私たちが強い意志と英知をもって、平和を守るという至上の命題にとり組めるよう、お導きいただきたい。
霊苑が戦没者の御霊と私たちの心の通い路になることを願って、ここに謹んでその由来を記す。

角田房子

(碑文より)

鎮魂の碑




『鎮魂』の碑





(平成18年3月11日)

碑文

あの苦しい戦いのあと、四十有余年、私たちは身近に一発の銃声と聞かず、過ごして来ました。
あの日々のことはあたかも一睡の悪夢のように、遠く悲しく谺して来ます。
だが、忘れることができましょうか。
かつて東京都の同朋たちの十六萬にも及ぶ人々が、陸に海に空に散華されたことを。
あなた方のその悲しい「死」がなかったら、私たちの今日の「生」もないことを。
そして後から生れて来る者たちの「いのち」のさきわいのために、私たちは何時までもあなた方の前に祈り続けることでしょう。
この奥津城どころは、私たちのこの祈りと誓いの場です。
同時に、すべての都民の心の憩いの苑でもありましょう。
この慰霊、招魂の丘に、御こころ永遠に安かれと、茲にこれが辞を作る。

山本健吉

休憩所




休憩所(遺品展示室)






(平成18年3月11日)

当霊苑は、さきの大戦で尊い犠牲となった東京都関係戦没者をおなぐさめするとともに、平和を願う都民の強い決意を表すために建設されたものです。
この休憩所は、来苑された方の休息や遺族等皆様の会議の場としてご利用いただけるよう設けられたものです。
また、2階の遺品展示室には、さきの大戦にて戦没された方々がのこされた手紙・千人針・鉄兜などの遺品等を、ご遺族からお預かりして展示しております。
開苑(休憩所利用時間)時間および休苑日は、下記のとおりです。

開苑時間
平日 午前9時〜午後8時
日曜日・土曜日及び国民の祝日 午前9時〜午後5時

休苑日
1月1日〜1月3日・12月29〜12月31日

観覧は自由、入苑料は無料です。自由にお入りください。

(説明板より)

2階展示室




2階・遺品展示室






(平成18年3月11日)
2階展示室




2階・遺品展示室






(平成18年3月11日)
2階展示室




2階・遺品展示室






(平成18年3月11日)
遺品


遺品

(フィリピン・レイテ島)

レイテ島の旅日記をご参照ください。




(平成18年3月11日)

遺品

フィリピン、レイテ島 玉砕日本兵の鉄かぶと

去る5月、フィリピン方面戦跡巡拝団のうちセブ・レイテ班が、玉砕の島レイテ島リモン峠附近より持帰った遺品である。
当時、カリガラ湾方面より上陸し来った米軍を日本軍第1師団(殆んど東京)は寡兵よくリモン峠附近において迎撃し、殆んど玉砕するにいたった。
この鉄かぶとは、オルモックに通ずるリモン街道約77km地点の右側約150mの高地山頂の西側、第1師団原口大隊の守備陣地単独壕附近において発見されたものである。
ここに謹んで英霊のご冥福を祈り遺品として保存するものである。

昭和48年5月
フィリピン方面戦跡巡拝団
団長 本多 誠
副団長 冨岡 重一

(遺品・説明文より)


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