鳥取城 とっとりじょう

鳥取県鳥取市


鳥取城 平成16年11月18日

史跡
鳥取城跡附太閤ヶ平

鳥取城は、戦国時代中頃(天文年間)に、久松山の自然地形を利用した山城として築かれたことにはじまる。
以後、因幡地方の政治拠点となり、近世においては因幡・伯耆二国の支配拠点の城として長い間存続した。
このため、鳥取城跡には、中世の山城的遺構と近世城郭遺構が併存しており、日本城郭史上でも類例の少ない城跡である。
このことから、学術的・歴史的にも貴重な城跡として昭和32年に国の史跡に指定された。
鳥取城の築城時期については諸説があるが、この城が因幡支配の拠点の本城となったのは武田高信の時期であり、後に山名豊国がここに移った。
この頃の鳥取城の主要城郭は、山上ノ丸とそこから西方に延びる急峻な尾根を中心に設けられており、現在も斜面を削平した平坦な遺構が数多く残っている。
関ヶ原の戦の後に、鳥取城主に任ぜられた池田長吉によって、鳥取城は本格的な近世城郭として大改造がおこなわれた。
これに伴って山下ノ丸が大きく拡張整備され、現在みられるような城跡の基礎が出来上がった。
その後、池田光政を経て寛永9年(1632)、岡山から池田光仲が入城して以後、鳥取池田家の因幡・伯耆両国支配(32万石)の居城となった。
明治維新後、城郭は陸軍省の所管となり、明治12年にはすべての建物が撤去された。
なお、鳥取城は戦国時代末期織田氏と毛利氏の対立から羽柴秀吉の攻撃をうけたが、そのときに秀吉が構築した陣跡が樗谿奥の本陣山に残っており、太閤ヶ平として鳥取城跡とあわせて指定されている。

(説明板より)

案内図 (説明板より)

城門



城門






(平成16年11月18日)

城門復旧記

事業内容 復旧工事
着工:昭和50年5月
竣工:昭和50年6月

この門は、鳥取城跡内に残る唯一の城内であって「お城の門」として広く市民に親しまれていたが、長い歳月を経るにつれて、老朽化が甚しく修復の時機に至っていたところ、去る3月20日の強風(風速29.7米)によって倒壊した。
たまたま、社団法人鳥取青年会議所では、6月22日当市に於いて開催される第24回中国地区会員大会の記念事業として、自ら復旧工事を実施され、完成されたものである。
次に工事の概要を記し後資とする。

  1. 倒壊前の型式を基調とした。
  2. 木材は破損老朽が著しいためすべて新調し、松材を主とした。(防虫防湿の加工をなす)
  3. 瓦は新調し(いぶし瓦)金具は従来のものを模造した。

昭和50年6月22日 鳥取市

(門の銘板より)

吉川経家の鳥取籠城と切腹

天正9年(1581)の羽柴秀吉の包囲作戦と吉川経家とによる対陣は、鳥取城の歴史の中で最大の攻防戦であった。(現在残る城跡は、慶長年間の池田長吉造営以後のものであり、経家の在城時の遺構は不明である。)
この戦いは、天下統一をめざして中国地方を征討しようとする織田信長と、これを阻止しようとする中国地方の雄毛利氏との対立の中で、展開された。
織田信長への服属の意を示した鳥取城主山名豊国の方針を不満とした森下道誉・中村春続らの因幡国方衆は、豊国を追放して、毛利氏に鳥取守城のための城将派遣を要請した。
天正9年3月18日、毛利氏の一族で石見国福光城主吉川経安の嫡男経家が城将として鳥取城に入った。
同年7月12日に、信長の派遣した部将羽柴秀吉が鳥取に到着した。
鳥取城背後の東北の山頂(現在の太閤ヶ平)に本陣を置き、前面の袋川沿いに各陣を布いて、2万余の軍勢により兵糧を経つ包囲作戦を展開した。
これを迎え撃つ鳥取城の兵力は、芸州毛利氏よりの加番衆4百と因幡国方衆千余であった。
毛利氏からの援軍・食糧の補給が阻止されて、包囲後3ヶ月過ぎるころには、「籠城兵糧つき、牛馬人等喰ひ候」という状況となった。
ついに10月25日、吉川経家は城兵を助けるために開城し、自身は城中広間で切腹した。
時に35歳であった。
死の前日、10月24日に本家吉川広家にあてた遺言状に、「日本二つの御弓矢境において忰腹に及び候事、末代の名誉たるべく存じ候」と、経家は記している。
織田信長と毛利氏という「日本二つの御弓矢」の正面対決による鳥取城攻防戦での切腹を、大きな名誉と感じていたのである。

平成3年12月
鳥取市教育委員会

(説明板より)

鳥取城跡

三階櫓跡



三階櫓跡(二ノ丸)






(平成16年11月18日)

三階櫓跡

この櫓台には、一階八間四方、二階六間四方、三階四間四方の櫓が建てられていた。
元禄5年(1692)に山上ノ丸の天守櫓が焼失したのちは、この櫓が鳥取城を象徴するものとなり、明治12年の解体撤去までその偉容を誇っていた。

平成15年3月
文化庁
鳥取市教育委員会

(説明板より)

鳥取城跡 仁風閣から見た三階櫓跡

二ノ丸跡

鳥取城山下の丸のほぼ中央部に位置するこの二ノ丸は、池田長吉父子、光政・光仲・綱清吉泰等の藩主の居館の場所であった。
南西隅には三階櫓、東南隅には走櫓・菱櫓、北東隅には正門の鉄くろがね御門があった。
中央部広場に残る礎石は、藩主の居館建物の様子を物語っている。

昭和60年9月
文化庁
鳥取市教育委員会

(説明板より)

菱櫓跡



菱櫓跡(二ノ丸)






(平成16年11月18日)

菱櫓跡

菱櫓は平面形が菱形に構築された櫓台の上に建物が建てられ、建物も菱形であった。
櫓台には二層の櫓が建ち一階は四間四方であった。
二ノ丸西南隅の三階櫓と東南隅のこの菱櫓の対比で鳥取城の風格を現わしており、明治維新までその偉容を誇っていた。

平成15年3月
文化庁
鳥取市教育委員会

(説明板より)

天球丸跡


手前:表御門跡
奥:天球丸跡


なにやら復旧工事(?)中のため立ち入り禁止でした。


(平成16年11月18日)

【鳥取城】

久松きゅうしょう山は標高263メートル、鳥取市の北方にある自然の要害だった。
因幡いなば山名氏が築いた城は初め久松城と呼ばれたが、これが鳥取城の前身である。

この当時の久松城(鳥取城)は、完全な山城やまじろであった。
本丸は山頂に置かれ、西の方が大手で、城下町も西向きに開けていたらしい。
山腹には、山を削って曲輪が設けられていたが、このような梯郭ていかく式の場合、どうしても死角ができるものなのに、鳥取城では死角をなくすことに成功しており、山城としては非常に珍しい例という。
また、城壁を高くするために種々の工夫が施されるなど、鳥取城はきわめつきの堅城の一つだった。

豊臣秀吉が信長麾下きかの西国管領かんれいとして、毛利方の上月こうづき城・三木城を次々と屠ほふり、次の目標として鳥取城の攻略に向かったのは、天正8年のことである。
秀吉の本格的な鳥取城攻めは、天正9年7月に始まった。
秀吉は築城の名手であり、攻城戦を最も得意としたので、鳥取城が力攻めのきかない堅城であることが一目でわかった。
そこで秀吉は徹底した兵糧ひょうろう攻め作戦をとる。
この兵糧攻めは、すでにこの年の前半から開始されており、若狭の商人に命じ、鳥取地方の米を数倍の高値で買い占めさせたのである。
吉川経家は5月になって城の兵糧蔵が空っぽなことに気づいたというが、その時には手遅れで、近在から米塩を調達する道は閉ざされていた。

秀吉は、こうして事前に綿密な手を打っておいてから、鳥取城下に兵を進めると、長大で蟻の這い出る隙間もない包囲網を構築する。
包囲網の全長は12キロ、約1キロごとに三層の櫓を建てて兵を置き、約500メートルごとに見張り所を造り、夜は2〜3メートルおきに篝火かがりびを焚かせたという。
また、浜辺には300艘の兵船を浮かべて毛利水軍の来襲に備え、さらに包囲網の外側に町屋まで建て並べ、遊女などを招いて兵士の士気を鼓舞することも忘れなかった。

包囲網も、これほど大掛かりになると、鳥取城が頼りにした毛利軍も、さすがに手を出すことはできなかった。
経家の救援要請に応じて、毛利軍が派兵したこともあったが、鳥取城を間近に望みながら失敗に終わっている。
一方、城内から撃って出ようにも、経家軍は町人・農民を含めて4千、対して秀吉軍は12万の大軍だったので、それもかなわない。
こうして城内に現出したのが、餓鬼地獄でる。

この地獄絵図に終止符が打たれたのは、天正9年10月25日であった。
この日、城将・経家が、部下の将士の助命を条件に降伏をのみ、久松山麓の真教寺で自害して果てたのである。

その後、鳥取城は秀吉の部下の宮部善祥坊みやべぜんしょうぼうに与えられたが、関ヶ原の合戦の後、池田長吉が6万石をもって入城する。
鳥取城が中世的山城から、近世的山城に変容するのは、この長吉が慶長7年(1602年)から9ヵ年を費やして実施した大改修の結果である。
山麓に幅30メートルの濠を設け、二の丸・三の丸・天球てんきゅう丸の備わった現在の遺構に近い規模は、ほぼこの大改修によって整えられたとみてよい。
したがって、戦国期に山城だった特徴は大改修の後も色濃く残り、その意味では、数多い城址のなかでも鳥取城址は貴重な存在となっている。

(参考:百瀬明治 著 『日本名城秘話』 徳間文庫 1995年1月初刷)

(令和2年7月14日 追記)


【人柱伝説】

城主・池田長吉の侍女に“おさご”という名の美女がいた。
“おさご”は毎日、普請場を訪れて労務者たちに湯茶の接待をした。
そのため労務者たちは競って仕事に励み、工事は他の場所よりずっと捗はかどったが、どうしたわけか、その場所に限って、折角築いた石垣が一夜のうちに崩れるという不祥事が相次いだ・
そのうちに、それは地の神様の祟たたりのせいだという声が高まった。
“おさご”はそういう風評に心を痛め、思い余って長吉に、自分が人柱となり、地の神様の心を和らげることを申し出た。
長吉は一旦、諌止かんししたが、このまま放置して大改修が失敗に終わったなら大変である。
そこで、目をつぶって“おさご”の申し出を受け入れ、彼女を地中深く埋めたところ、果たしてその石垣は二度と崩れることはなく、めでたく改修を完成にこぎつけることができたという。

(参考:百瀬明治 著 『日本名城秘話』 徳間文庫 1995年1月初刷)

(令和2年7月14日 追記)


箕浦家武家門

箕浦みのうら家武家門
(鳥取市尚徳町101−5・県立図書館脇)

鳥取市内に現存する唯一の武家門
市指定保護文化財



(平成16年11月19日)

碑文(説明碑)

この武家門は、もとお堀ばたの南隅にあって2千石の箕浦近江宅の門でした。
昭和11年に大阪の素封家広岡松三郎氏の寄贈によって現位置に移築保存されたものですが、、今日では鳥取が城下町であったことを語る貴重な建物です。


カフェ・ラ・カフェ カフェ・ラ・カフェ
(鳥取市西町3−101−8 鳥取県庁東町分庁舎そば)

ここでお昼を食べました。
マスターの話では、このお店は女性向けカフェとのこと。
男性客の団体などに来られては困るそうです。
お昼は特別にランチをやっているそうな。
定休日:水曜日
(平成16年11月18日)
オムライスランチ


オムライスランチ
イタリアントマトソースオムライスです。
924円なり。
この他にスープ(またはデザート)とコーヒーが付きます。



(平成16年11月18日)

ズワイガニ 浜ゆでズワイガニ

今が旬ということなので、鳥取駅の『シャミネ鳥取』内
マルヨ食品シャミネ鳥取店で買い、宅配便で自宅へ。

食べる直前の最後のお姿です。
今は既に私の胃の中・・・・
とても美味しかったです。絶品!感動!
(平成16年11月)

ズワイガニ

英語名はクイーン・クラブ。
ズワイは漢字で『楚』と書き「すわえ」と読まれていたといいます。
福井県越前町などによれば、「若くて細い真っ直ぐな小枝」を意味しており、この「すわえ」の発音が転じて「ずわい」になったといいます。
同じズワイガニでも福井県など北陸産は「越前ガニ」といい、京都の間人たいざ港で水揚げされると間人、鳥取では松葉と呼ばれます。
『松葉』の由来は諸説ありますが「細長い足が松葉に似ているから」という説が有力とか。
ズワイガニが食べ始められたのは江戸時代の初め頃だそうです。
現在では需要の高まりにより国産では1割程度しか供給できず、ロシアや北朝鮮からの輸入と並行して『紅ズワイ』が捕獲されているそうです。
ズワイガニは水深200〜300メートルに住んでいますが、紅ズワイガニは水深500〜1000メートルに住んでおり、『ズワイ』と『紅ズワイ』は別のカニだとか。
日本海のズワイガニ漁は今月11月6日に解禁され、雄は来年3月の4ヶ月間、雌は1月10日までだそうです。


旧因州池田屋敷表門



旧因州池田屋敷表門(黒門)

(東京都台東区上野公園・東京国立博物館)





(平成20年11月6日)

旧因州池田屋敷表門(黒門)
重要文化財

この門は、もと因州(現在の鳥取県の一部)池田家江戸屋敷の表門で丸の内大名小路(現丸の内3丁目)に建てられていたが、明治25年、芝高輪台町の常宮御殿の表門として移建された。
のちに東宮御所として使用され、さらに高松宮家に引き継がれる。
表門は昭和29年3月、さらにここに移建して修理を加えたものである。
創建年代は明らかでないが、形式と手法からみて、江戸時代末期のものである。
屋根は入母屋造、門の左右に向唐破風造の番所を備えており、大名屋敷表門として最も格式が高い。
昭和26年9月、重要文化財に指定。

(説明板より)




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