豊臣秀次像 平成20年4月14日

豊臣秀次 とよとみ・ひでつぐ

永禄11年(1568年)〜文禄4年7月15日(1595年8月20日)

滋賀県近江八幡市・八幡公園でお会いしました。


父は豊臣秀吉の近臣・三好吉房、母は秀吉の姉・瑞竜院日秀。
三好康長の養子となり、後に秀吉の養子となる。
天正11年(1584年)小牧・長久手の戦で有力武将を失うなどの失態から秀吉より叱責を受けるが、翌年の紀州・四国攻めの功により、近江などで43万石を与えられる。
小田原攻め従軍後は、織田信雄改易後の尾張・北伊勢を領し清須きよすに入る。
天正19年(1591年)秀吉の子・鶴松が夭折したため、関白職を譲られ聚楽第に住した。
朝鮮出兵時には、それに専心する秀吉にかわり、人掃令など国内統治にあたった。
しかし、文禄3年(1593年)秀吉に実子・秀頼が生まれたため秀吉と不和になり、謀反を疑われ高野山に追放のうえ切腹。
妻子・側室も京都三条河原で処刑された。


豊臣秀次卿


従一位左大臣 豊臣秀次卿
(滋賀県近江八幡市宮内町・八幡公園)

昭和54年11月
豊臣秀次卿顕彰会建之



(平成20年4月14日)

豊臣秀次(1568年〜1595年)

永禄11年(1568年)豊臣秀吉の姉の子として生まれる
天正 9年(1581年)羽柴秀吉の養子となり、羽柴秀次と名乗る
天正13年(1585年)18才で近江国43万石を与えられ、八幡山城を築城し、城下町八幡を開く

=秀次の町づくり=
「八幡山下町掟書」
楽市楽座を定め、有力な商人や職人を呼び寄せ、自由商業都市とした
「町割」
碁盤目状の通りをつくり、職種別に住む地域を分けた
また、、下街道(のちの朝鮮人街道)をこの町割に引き込み、陸上交通の要衝とした
「八幡堀」
城の堀としてだけではなく、琵琶湖につながる運河として湖上交通の要衝とした

天正18年(1590年)尾張・北伊勢100万石を与えられ、尾張清州城にうつる 八幡山城には京極高次が入る
天正19年(1591年)秀吉の実子(鶴松)が病死し秀吉が隠居すると、後を次いで豊臣秀次と名乗り関白となる
文禄 2年(1593年)秀吉の実子(秀頼)が生まれる
文禄 4年(1595年)謀反の罪を着せられ高野山に追放、自害を命ぜられる 享年28才

※この銅像は市民から寄贈されたものです

(説明板より)

秀次館の石垣




秀次館の石垣






(平成20年4月14日)

八幡公園案内図 八幡公園案内図

八幡公園案内図
八幡山はちまんやまと八幡公園

八幡山は、市街地の北に位置し、東西約1km、南北約3kmの山地で、標高283.8mです。
鶴が翼を広げて飛ぶさまに似ていることから鶴翼山かくよくさんとも呼ばれ親しまれています。
八幡公園は、その八幡山の南側の麓ふもとに位置しております。
周辺には八幡山城跡、八幡堀、日牟礼ひむれ八幡宮等の史跡や観光施設、公園内には市立図書館も併設されており、歴史的、位置的にも市のシンボルとして、また桜の名所として市民から広く親しまれています。

概要
天正13年(1585年)に羽柴秀次によって、この八幡山(鶴翼山)に八幡山城が築かれました。
八幡山城は山頂の城郭と南山麓の屋敷群に分かれており、赤線()で表した大手道は、秀次館跡の出入り口から家臣屋敷群のほぼ中央を直線的に走っています。
大手道の両側には雛段状の家臣団屋敷群が広がっています。
また、その屋敷群を囲む尾根には、石垣を伴った曲輪と呼ばれる遺構が残っています。
この曲輪と築城時に開削されたと伝わる八幡堀が城の総構えを形成していたと考えられます。
天正18年(1590年)に、秀次が尾張清州に移った後は、京極高次が代わって城主となります。
その5年後、秀次が謀反の疑いをかけられて高野山で自刃させられた文禄4年(1595年)には京都の聚楽第と同様に八幡山城は廃城されました。

(案内図より)

八幡公園

【秀次】

秀次は羽柴秀吉の姉・智ともの長男として、永禄11年(1568)、尾張国海東かいとう郡乙之子おとのこ村(現・愛知県海部あま郡美和みわ町乙之子)で生まれた。
父は乙之子の百姓・弥助やすけであった。
元亀2年(1571)ごろ、小谷おだに城主・浅井長政の家臣・宮部継潤みやべけいじゅんに人質同然の養子となり、次いで、甲斐源氏小笠原氏の流れを汲む三好康長みよしやすながの養子となる。

秀吉は秀次が小牧・長久手の戦いで敗北した時、殺してもよいというくらい叱責している。
そこで秀次は奮起し、秀吉の弟・秀長のフォローもあって、紀州・四国攻めに副将として活躍し、勝利を得る。
この功を認めた秀吉は、次第に秀次に将来を嘱望するようになる。
天正13年(1585)8月、近江の八幡に43万石を与えて、都市の建設をさせる。
秀次は織田信長の安土城下の町人の殆どを八幡に移住させ、特に商人を育成し、商業都市を目指そうとした。
諸役免除の優遇と八幡掘の開削、下水道の整備などは現在の近江八幡市民から感謝されている。

その後、秀次は小田原攻めの論功行賞で23歳にして尾張一国と北伊勢の領主となり、100万石を与えられた。
この間、秀吉は関白・太政大臣に任ぜられ豊臣姓を賜り、豊臣秀吉と名乗るようになる。
同時に豊臣秀長と秀吉の子・鶴松が死ぬ不幸を味わったこともあり、天正19年(1591)12月、秀次を養子にして関白職を譲り、秀吉は太閤たいこうとなる。
この時、秀吉は秀次に訓戒状を与えており、諸将の指導権は依然、秀吉が握っていた。
つまり秀次は、秀吉の許可を受けなければ何も出来ないという立場におかれていたのである。
どこまでも貪欲な叔父に、賢明な秀次は黙って従っていたが、ときには太閤秀吉に反発して関白の権限を揮ふるうようになり、次第に太閤と関白の間に確執が生じるようになる。

文禄2年(1593)8月、秀吉と側室・淀殿との間に拾ひろい(のちの秀頼ひでより)が誕生した。
実子に恵まれなかった秀吉は拾を溺愛し、養子である秀次への疎外感を強めていった。
その狭間に暗躍したのが、秀吉の佞臣ねいしんと陰口を叩かれていた石田三成らである。
もし秀次が事実上の権力者になったならば、三成らはその地位を失うことになる。
そこで三成らは関白秀次の行動を謀反だと太閤秀吉に告げ口をする。
文禄4年(1595)7月、怒った秀吉は秀次から関白職を取上げて、高野山こうやさんで自害させてしまった。
享年28歳。
当時の状況から判断して、これは明らかに冤罪である。

ルイス・フロイスの『日本史』には「秀次は、弱年ながら深く道理と分別を弁わきまえた人で、謙虚であり、短慮性急でなく、物事に慎重で思慮深かった」と書かれている。

(参考:『歴史街道 2011年8月号』)

(平成25年11月11日 追記)


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