平成18年4月8日
天文6年2月6日(1537年3月17日)〜慶長3年8月18日(1598年9月18日)
滋賀県長浜市・JR長浜駅前でお会いしました。
尾張国愛智郡中村生まれ。
百姓・弥右衛門の子。
尾張を出て、松下之綱に仕えた後、織田信長に仕える。
はじめは木下藤吉郎と名乗る。
信長入京後は京都の民政に当たり、天正元年(1573年)、北近江の長浜城主となる。
この頃から羽柴姓を用いる。
天正4年(1577年)10月から中国攻めに従事。
天正10年(1582年)6月、本能寺の変に接し、毛利輝元と急ぎ和睦して、山崎の戦で明智光秀を倒す。
天正11年(1583年)4月、柴田勝家を賤ヶ岳しずがたけの戦で破り、信長の後継者の地位を固め、大坂城を本拠地とした。
天正12年(1584年)、小牧・長久手の戦を経て徳川家康を臣従させる。
天正13年(1585年)、関白に、翌年には太政大臣となり、豊臣姓を受ける。
天正18年(1590年)、四国・九州に続き関東・奥羽を服従させ、全国を統一。
文禄元年(1592年)からは「征明」を意図して朝鮮に出兵(文禄・慶長の役)したが、朝鮮水軍の抵抗に苦戦するなか、慶長3年(1598年)8月に死去する。62歳。
秀吉公と石田三成公・出会いの像 (滋賀県長浜市・JR長浜駅前) 昭和56年9月吉日 寄贈 長浜金融協議会 制作者 山口良定 (平成18年4月8日) |
秀吉公と石田三成公 出会いの像
長浜城主の羽柴秀吉公は、鷹狩の途中に観音寺(米原市朝日町)へ立ち寄りました。
汗をかいた様子の秀吉公を見た寺小姓の佐吉少年は、大きな茶碗にぬるいお茶をなみなみと持ってきました。
秀吉公がもう一杯頼むと、少年は先ほどよりも少し熱いお茶を、茶碗に半分ほど差し出しました。
そこで秀吉公は、さらに一杯所望したところ、今度は小さな茶碗に熱いお茶を入れて出しました。
秀吉公は、茶の入れ方ひとつにも気を配る佐吉少年を気に入り、召し抱えました。
この少年が後の石田三成公で、この話は「三献の茶」として、今も語り継がれています。
三成公は、ここから5キロメートル東の長浜市石田町の土豪の子として生まれ、今も出生地辺りには官名にちなんだ治部という小字が残っています。
また観音寺には、茶の水を汲んだと伝わる井戸が残されています。
昭和59年(1984)
(説明板より)
平成18年4月8日
滋賀県長浜市・長浜城でお会いしました。
関白太政大臣 豊臣秀吉之像 (滋賀県長浜市・長浜城天守閣跡) 京都 三和梵鐘株式会社 謹鋳 社長 山本日淳 工場長 小椋義一 山田正次 (平成18年4月8日) |
趣意書
剛勇大胆天下統一ノ勇将博愛仁慈殖産興業ニ意ヲ用ヒシ名君豊太閤去リテ正ニ三百七十三年其ノ広大深遠ナル精神ハ曽テ長浜城主トシテ永久ニ長浜市民ノ心ヲ感動セシメテ止マズ今茲ニ古松聳エル城跡ヲ相思豊公ノ像ヲ建テ以テ其ノ偉大ナル無限ノ恩徳ヲ謝セントス
昭和46年3月吉日
寄贈 長浜市 平井繁治郎
(銘板より)
【人間学大博士】
徳富蘇峰は豊臣秀吉を人間学大博士と称しましたが、あの戦国時代の中にあって、彼ほど武力を使用せず、心理的に敵を味方に引き込む戦略を実践した武将はいなかったといえます。
石川数正といえば松平家重代の宿老の家柄で、家康にとって最も忠実かつ有為の参謀総長でした。
この数正が天正13年(1585年)、にわかに妻子を伴って城下を抜け出し、秀吉の許に走ってしまいました。
彼は先に賎ケ岳の戦勝祝賀使節として秀吉の許に使いし、小牧の役(1584年)には講和成立後に家康の子、秀康について大坂に使いをやられている間に秀吉に魅せられた模様です。
当時はどこでも適陣営内の「交を伐つ」工作が常套手段であったので、大坂方でも「石川は豊臣に内通している」という謀略宣伝をしていたことは確かで、そのため石川は三河武士の間に居づらくなったのでしょうが、秀吉が石川を買収した跡のないことは多くの歴史学者が証明しています。
秀吉としては、先方から逃げ出してきた敵将ですから、捨扶持すてぶちを与えておくぐらいでよさそうですのに、自分を頼ってきた者だとして、間もなく貫禄相応に信州松本8万石を与えています。
賎ケ岳の戦い(1583年)の直前、長浜6万石の城主柴田勝豊(勝家の養子)が秀吉に降りました。
勝豊は当時病気だったので、秀吉は当代随一の名医曲直瀬正慶まなせしょうけいを京都から迎えてやり、京都に行って病を養わせました。
それだけなら戦時の調略といえますが、勝豊の死後、彼の家老徳山寿昌らを秀吉がこよなく優遇しているところに、彼の真心が出ています。
(参考:太田文雄 著 『日本人は戦略・情報に疎いのか』 芙蓉書房出版 2008年第1刷発行
(令和元年11月9日 追記)
【兵糧攻めの名人】
秀吉は、三木みき城攻めと鳥取城攻めの二度、この戦法を用い、共に大成功を収めている。
三木城は播磨はりま国にあり、時の城主・別所長治べっしょながはるは中国の覇者・毛利氏に属していた。
一方、秀吉は織田信長から中国経略を当面の任務とする西国管領かんれいに任じられ、毛利王国侵略の手始めとして、天正6年(1578年)三木城に攻め寄せる。
だが、三木城の要害ぶりを見て、秀吉は性急に攻略することは不可能と判断し、信長の許可も得た上で作戦を兵糧攻めへと機敏に切り替え、三木城を包囲した。
三木城の守兵7〜8千に対し、秀吉方は約2万。
三木城は毛利方に救援を依頼し、毛利方では三木城への補給路を開こうと懸命に兵を動かすが、秀吉はそのたびごとに先手をとって毛利方の動きを封じ、ついに毛利方を断念させた。
かくて、三木城は、2年近く持ちこたえたものの、城内の食糧の欠乏は、いかんともしがたく、秀吉の軍門に下らざるを得なかった。
鳥取城攻めも、この三木城攻めと同じく、秀吉の中国平定戦の一環として行われた戦いである。
秀吉は、鳥取城を攻めるにあたり、前もって周辺地域の米を高値で買い占めさせておき、また海上に兵船300艘を浮かべるなどして海陸から毛利方の補給線を完全に遮断したので、落城寸前の鳥取城内では、死者の肉を食らうという地獄絵図まで繰り広げられた。
秀吉は後年「三木の旱ほし殺し、鳥取の渇うえ殺し」と称して自慢の種にしていたという。
(参考:百瀬明治 著 『日本名城秘話』 徳間文庫 1995年1月初刷)
(令和2年7月25日 追記)
【水攻め】
秀吉の備中高松城の水攻めは史上名高い。
備中高松城は今の岡山市の西方に築かれた平城で、周りは深田、その南西に足守あしもり川が流れるという自然の要害に立地していた。
要するに、大軍を動かして押し寄せる攻め口がないのである。
そこで、秀吉は、その自然の要害を逆手に取り、城外に堤防を築いて足守川の水を流し込み、備中高松城を水中に孤立させた。
こうなると、城内の兵は出撃する道を閉ざされたも同然で、また、毛利の援軍も水に阻まれて城内への補給はもちろん、連絡さえままならなくなる。
そのため、備中高松城は水中に孤立し、日毎に食糧の欠乏をきたし、毛利方は城を援たすけるため、自分の方から和議を申し出なければならない羽目となった。
(参考:百瀬明治 著 『日本名城秘話』 徳間文庫 1995年1月初刷)
(令和2年7月25日 追記)
豊国神社 (滋賀県長浜市南呉服町2−4) 御祭神 豊臣秀吉公 加藤虎之助清正公 八重事代主命えびす宮 木村長門守重成公 (平成18年4月8日) |
由緒
太閤さんは、天正2年(1574)の春から長浜城の建築と商家の町並み造りに着手されました。
その後、約10年のあいだ長浜町に善政を施され、大阪や京都に移住されてからも長浜町民との交流は絶える事なく続いていました。
この現われが天正19年に公布された『三百石の地租税免除』の朱印状で、幕末まで大きな恩典になりました。
太閤さんが、慶長3年(1598)8月18日に伏見城で逝去されますと、長浜町民は京都の豊国廟にならって逸早く豊國神社を建立しました。
ところが徳川幕府の政権下では、太閤さんを神格化することは許されず、豊國神社は京都と共に取り壊されました。
それ以来、町役人十人衆が太閤さんの御神像を各家庭に隠してお祀りしていましたが、一計を案じて寛政5年(1793)に彦根藩へ『えびす宮』を建立する許可を願い出て一社を建立、太閤さんを裏に隠してお祀りました。
これが『十日戎』の始まりです。
弘化3年(1846)になりますと、太閤さんの恩徳を町民に布撫するために又々一計を練り、豊臣家の一字をとり『豊神社』と書いて『みのり神社』と呼んでいました。
その名残が東の外堀に架かる『みのり橋』です。
明治維新が過ぎ、大正9年(1920)に天下晴れて『豊國神社』と名乗れるようになりますと、太閤さんをお祭りする行事が市民挙げて盛大になりました。
太閤さんの御神霊が不運だった江戸時代に、長浜の先人の発想により前立ち神になって戴いた恵比寿神の祭典も盛大に行っています。
合祀神の木村長門守公は豊臣秀頼公を最後まで守護した人、加藤清正公は太閤さんの腹心の部下であった所以による神々です。
(『豊国神社』のリーフレットより)
平成20年6月17日
大阪府大阪市・大阪城でお会いしました。
豊臣秀吉公 奉納 マルイト 創業70周年記念 木下家 平成18年 名誉宮司 角 正徳 宮司 角 正宣 制作 中村晋也 (平成20年6月17日) |
豊国神社 (平成20年6月17日) |
豊國神社の由来
当豊國神社は「豊臣秀吉公」「豊臣秀頼公」「豊臣秀長卿」を奉祀する神社である。
明治元年、明治天皇が大阪に行幸になった砌、国家の為に大勲労のあった豊太閤を、この大阪の清浄な地に奉祀する様にと仰せ出されたので、種々熟議の結果、明治6年に京都の阿弥院峯墓前を本社として社殿を造営、大阪には別格官幣社豊國神社の別社として中之島字山崎の鼻(現在の中央公会堂の地点)に、明治12年11月に創立されたのである。
大正元年府立図書館の西方の公園内に移転し大正10年に別社から独立して府社に列せられたが、昭和20年終戦と共に社格が廃止されたので、現在宗教法人となって神社本庁所属の神社となる。
昭和10年頃より大阪市の発展に伴い市庁舎増築に必要の為、隣接する当神社の移転の議が起こったが、太平洋戦争に突入した為、移転の件は一時沙汰止みとなった。
その後昭和31年大阪市より神社移転の要望が再開されたので、祭神に縁のある大阪城内を移転地と決定、昭和36年1月中之島より奉遷したのが現在の神域である。
ここ大阪城跡は、かの有名な石山合戦で石山本願寺の宗徒が織田信長の鋭鋒に抗して前後11年の長きに亘り、さすがの信長も朝廷の斡旋により和睦をとり結ぶのやむなきに至ったほどの要害堅固な土地である。
因って後年秀吉が天下を平定し、己が居城を築くにあたりこの石山の地を要所と選び、天正11年に築城を始め、天正15年に築き終えた曽ての名城も、元和元年大阪夏の陣に破れ、僅か2代で32年のはかない存在であったが、御祭神には最も因縁の深い所で、奉祀するのに最適の神域である。
(『参拝のしおり』より)
1537年 | 天文 6年 | 貧しい百姓の子として生れる。 |
1558年 | 永禄 1年 | 織田信長に草履取りとして仕える。 |
1560年 | 永禄 3年 | 桶狭間の戦いに参戦。 |
1561年 | 永禄 4年 | おねと結婚。 |
1562年 | 永禄 5年 | 足軽百人組の頭となる。 |
1566年 | 永禄 9年 | 墨俣城を築く。 |
1570年 | 元亀 1年 | 姉川の戦い。 |
1573年 | 天正 1年 | 浅井・朝倉氏攻略。 浅井氏旧領・江北三郡を与えられる。 |
1574年 | 天正 2年 | 近江長浜城に入る。 |
1575年 | 天正 3年 | 長篠の戦いに参戦。 |
1580年 | 天正 8年 | 播州三木城を落とす。 |
1582年 | 天正10年 | 備中高松城水攻め。 本能寺の変。 明智光秀を討つ。 |
1583年 | 天正11年 | 賤ケ岳の戦い。 柴田勝家を破る。 |
1584年 | 天正12年 | 小牧・長久手の戦い。 |
1585年 | 天正13年 | 富山に入り佐々成政を降伏させる。 関白となり豊臣姓を名乗る。 |
1587年 | 天正15年 | 九州征討。 |
1590年 | 天正18年 | 北条氏を降伏させる。 |
1592年 | 文禄 1年 | 朝鮮出兵。 |
1593年 | 文禄 2年 | 秀頼誕生。 |
1598年 | 慶長 3年 | 伏見城内で没す。 |
(平成18年7月30日追記)
『豊臣秀吉妙顕寺城跡』の碑 (京都市中京区押小路通小川西入北側) (平成19年3月17日) |
豊臣秀吉妙顕寺城跡 (京都市中京区小川通二条下ル古城町) 「古城町」は「妙顕寺城」に因んで付けられた町名だという。 (平成19年3月17日) |
豊臣秀吉妙顕寺城跡
この付近は、豊臣秀吉の妙顕寺城の故地である。
妙顕寺とは、鎌倉後期、日像がはじめて京都に建立した日蓮宗寺院であり、たびたび場所は移ったが、戦国時代にはこの地にあった。
天正11(1583)年9月、豊臣秀吉は寺を小川寺ノ内に移転させて、あとに二条新邸を構築し、天正14年聚楽第を造るまで、京都の政庁とした。
建物の姿は詳しくはわからないが、周囲に堀をめぐらし、天主をあげていたという。
したがって、屋敷というより城と呼ぶにふさわしいといえよう。
平素は前田玄以が居住して京都の政務にあたり、秀吉が上洛すると、ここが宿舎となった。
豊臣秀吉が次第に天下を握ってゆく間の、重要な政治的拠点であった。
現在、城跡はしのぶべくもないが、古城町という町名となって、よすがを伝えている。
京都市
(説明板より)
【朝鮮出兵】
歴史学者は朝鮮出兵という愚かな侵略行為が結果的に豊臣家を滅ぼしたと述べる。
それはその通りなのだが、人間誰でも物事を実行しようと思う時は成功すると思うからやるのである。
日本が世界最大の陸軍国という利点を生かして、中国および朝鮮半島を領土とすることができれば、秀吉は加藤清正、小西行長、石田三成といった子飼いの武将にも百万石級の領土を与えることができる。
貿易圏も拡大するから豊臣家は世界一の大富豪になれる。
そうなれば徳川家康がいかに歯ぎしりしようと、豊臣家の天下を奪うなどということは絶対にできない。
秀吉の目的はそれだったのである。
決して頭がおかしくなったのではない。
どんな独裁者でも、国民の大半が反対する計画を実行するのは不可能である。
国民をそれなりに熱狂されなければ戦争など不可能である。
そして秀吉にとって国民を熱狂させることは簡単であった。
なぜなら戦争は、成功しさえすれば、国も民も潤う大事業だからである。
戦争に勝ち続けることによって、領土は拡大し国家の収入は増える。
足軽は武将に、武将は大名になれる。
商人だって大商人になれる。
だからこそ秀吉の政策を多くの人間が支持した。
戦争も遂行できた。
しかし結果的には失敗に終わった。
(参考:井沢元彦 著 『動乱の日本史〜徳川システム崩壊の真実』 角川文庫 平成28年5月初版発行)
(令和2年3月9日 追記)
【秀吉のフィリピン侵略計画】
初期のスペイン帝国建設者がフィリピンに在って日本征服に食指を動かしていたちょうどそのころ、秀吉その他の大名もまたフィリピン侵略を企てていた。
東洋におけるスペイン帝国主義の台頭に警戒し、南方発展の雄大な望みを抱く秀芳は、まずフィリピンを勢力範囲に入れようと考えた。
そこで1591年(天正19年)末、臣下の誓いと朝貢を求めるスペイン総督あての手紙を持たせて原田喜右衛門をマニラに派遣した。
しかし原田は病気を理由にその任務を甥の原田孫七郎に委任したので、孫七郎はマニラに渡り秀吉の親書を総督ゴメス・ペレス・ダスマリニャスに渡した。
ダスマリニャスは、秀吉の途方もない要求に憤激したが、フィリピンの防備が貧弱なため、やむなく事を外交的に運ぶことにして、ファン・コボ(ドミニコ派修道士)、ロペ・デ・リャノスを中心とした使節団を作り、これに融和的な返事と高価な贈り物を持たせて秀吉のもとに送った。(1592年・天正20年・6月7日マニラ発)
肥前の名護屋の秀吉のもとに出頭した二人は荘重に迎えられ、信任外交の特権を与えられた。
しかし、秀吉はスペインの返事にはもちろん不満で、前回よりはっきりした趣旨の書面をしたためて自分の権威に服するよう要求することになり、今回は原田喜右衛門自らこの書面を持ってマニラに向かった。
彼は1593年(天正20年)4月に無事マニラに到着し、ただちに秀吉の親書を総督ダスマリニャスに提出した。
機略に富む総督は今回もまた、マニラの政治・宗教界の指導者と相談して、言い抜けの手紙と前回にまさる高価な贈り物を持たせて別の使節団を日本に送ることにした。
1593年5月26日、ペドロ・バウティスタ、バルトローメ・ルイス両修道士およびフランシスコ・デ・サン・ミゲル、ゴンサロ・ガルシア両フランシスコ派在野牧師からなるこの使節団はマニラを出て日本に向かった。
当の総督ダスマリニャスは、その年の10月、ミンダナオ遠征の途次に乗艦の中国人船員の反乱にあって殺され、息子のルイス・ダスマリニャスが総督になったが、彼はさらに多くの修道使節と贈り物を日本に送って秀吉との話し合いを続けた。
ところが、秀吉はそのころ朝鮮征伐に熱中しだして、フィリピンのことは自然の成り行きにまかせるようになった。
そこで使節団に加わった修道士たちは、日本滞在の機を利用して長崎、京都その他の町で熱心に忍耐強く伝道につとめ、多くの信者を獲得し、さらにマニラから多くの宣教師が日本に来て伝道活動を強化していった。
これら宣教師の神の使徒としての活動は、1587年(天正15年)に秀吉の発したキリスト教禁止令に違反するものであったが、幸いに彼らの伝道活動はそのころ許されていた。
ところがここで一つの事態が持ち上がった。
1596年(文禄5年/慶長元年)、メキシコ行きのガレオン船「サン・フェリペ号」が土佐の沖で座礁した。
幸いに乗員は助けられたが、その中の航海士の一人が不用意にも土地の日本人に向かって、スペインは広大な植民地を持っていると自慢げに話した。
これを聞いていた秀吉の家臣・増田長盛が「いったいどのような方法でそのような広大な領土を手に入れたのか」と尋ねた。
おしゃべりな航海士は「それはわけない。まずわが王国はキリスト教宣教師を送って土着民を改宗させる。そうしておけばあとは武力で楽に征服できる」と語った。
これを聞いた増田長盛は時をおかずこの航海士の話を秀吉に報告した。
かねてからキリスト教を危険と感じていた秀吉は、ただちに徹底的な措置をとることとなった。
まず1587年のキリスト教禁止令を復活し、情け容赦なくスペイン宣教師、日本人改宗者を捕えては処刑し、またフィリピン侵略の準備を急がせた。
秀吉の武力侵略の準備を進め出したことを聞いたマニラのスペイン当局は驚き、鋭意マニラの砦を強化し、また在留日本人の武器を取り上げ、あるいは本国送還などの策を講じた。
秀吉のキリスト教弾圧は長崎で26人のキリスト教徒の磔が行われた1597年(慶長2年)2月5日にその頂点に達した。
秀吉はキリスト教を激しく弾圧する一方、1599年(慶長4年)に予定していたフィリピン侵略計画を急がせたが、スペインにとって幸いにも秀吉は1598年(慶長3年)9月6日に病を得て没した。
(参考:グレゴリオ・F・サイデ 著・松橋達良 訳 『フィリピンの歴史』 時事通信社 昭和48年9月初版)
(平成28年12月10日 追記)
正室 |
おね(北政所きたのまんどころ)
永禄4年(1561年)14歳の時に秀吉(25歳)に嫁ぐ。
側室 |
茶々ちゃちゃ(淀殿よどどの)
浅井長政と、お市いちの方(織田信長の妹)との間に生まれた三姉妹の長女。秀頼を生む。
松の方殿
京極高次の妹。
(平成18年8月14日追記)
豊臣家墓所 (和歌山県伊都郡高野町・高野山奥の院) (平成21年4月9日) |
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