津軽為信 平成21年11月2日

津軽為信 つがる・ためのぶ

天文19年1月1日(1550年1月18日)〜慶長12年12月5日(1608年1月22日)

青森県弘前市・弘前文化センターでお会いしました。


陸奥国弘前藩初代藩主。
はじめ南部右京亮を自称。
南部氏から自立後、津軽右京亮、右京大夫。
元亀2年(1571年)の石川城攻略以来、大光寺城・浪岡城などを攻め落として津軽地方を統一。
天正18年(1590年)に上洛し、翌年までに津軽郡の所領を豊臣秀吉に安堵される。
文禄元年(1592年)、秀吉の朝鮮出兵の際、肥前国名護屋に出陣。
関ヶ原の戦いでは徳川方に属した。
近衛家に接近し、藤原姓となる。


藩祖・津軽為信公



「藩祖 津軽為信公」像

(青森県弘前市・弘前文化センター)





(平成21年11月2日)
藩祖・津軽為信公

「藩祖 津軽為信公」像

(青森県弘前市・弘前文化センター)

制作者
  古川武治
  古川武彦
平成16年5月吉日建立
銅像建立協議会

(平成21年11月2日)

藩祖 津軽為信公

戦国乱世に南部氏支配の津軽地方の独立果たし、豊臣秀吉から津軽地方の領有を認められるとともに、公家筆頭の近衛家から家紋に牡丹紋の使用を許された。
高岡(のちの弘前)に町割りや築城を計画したが、京都において客死。

[天正19年(1550)〜慶長12年(1607)]

(銘板より)

 平成21年11月2日

青森県弘前市・弘前市立観光館でお会いしました。

藩祖 津軽為信公像



藩祖 津軽為信公(石膏像)
(弘前市・弘前市立観光館)





(平成21年11月2日)
藩祖 津軽為信公像



藩祖 津軽為信公(石膏像)
(弘前市・弘前市立観光館)





(平成21年11月2日)

藩祖 津軽為信 (石膏像)

高さ 3.65m
幅  1.6m(刀から鎧の肩まで)
奥行 1.7m(前方の刀〜後方の刀まで)

※ 寸法・デザイン共に弘前文化センター前の銅像と同じ

【作者紹介】 古川武治こがわたけじ(1918〜2004) 彫刻家 弘前市出身

市内に残る主な作品
  市民中央広場 「りんごの乙女の像」
  墓地公園 「天女像」
  運動公園 「初代若乃花銅像」
  JR弘前駅 「りんごの風」

津軽為信(1550〜1607)とは?
津軽藩の初代藩主。
1571〜1588にかけて津軽地方を統一。
1590年には、豊臣秀吉により津軽郡の支配を認められ、津軽氏と称した。
1603年には、徳川幕府の成立とともに津軽領有を安堵され、津軽藩の礎を築いた。

為信公銅像 再建の経緯
1909(明治42)年   弘前公園本丸に建立(山崎朝雲ちょううん 作)
1944(昭和19)年   太平洋戦争における金属回収により、秋田県小坂銅山へ送られる
2000(平成12)年   銅像再建を願う弘前市民有志が「藩祖津軽為信公銅像設立協議会」を設立
2004(平成16)年4月 新たな銅像(古川武治・武彦 作)を弘前文化センター前に設置
2005(平成17)年5月 現在の銅像の石膏像を弘前市立観光館に展示

(説明板より)

弘前市立観光館



弘前市立観光館
(青森県弘前市大字下白銀2−1・追手門広場内)





(平成21年11月2日)

【大浦(津軽)為信】

大浦(のちに津軽)為信の出自は定かではない。
津軽の豪商・大浦守信もりのぶ(大浦城主・為則ためのりの弟)の次男ともいい、南部氏の支族で下久慈しもくじ城(岩手県久慈市)の城主だった南部治義はるよしの次男ともいう。
いずれにせよ、永禄10年(1567年)、大浦為則の婿養子になって家督を継いだことだけは確かなようである。

元亀2年(1571年)5月5日、津軽郡代の石川(南部)高信の石川城(青森県弘前市)を電撃的に強襲して高信を自害に追い込む。
攻城の準備は周到で、かつ謀略に満ちたものだったといわれている。
同日、矛先を転じて和徳わつとく城を急襲し、小山内満安おさない・みつやす一族を討ち滅ぼした。
この時、為信は22歳。
天正2年(1574年)には南部氏の拠点のひとつだった大光寺だいこうじ城を攻めるが失敗。
翌年の1月1日に再攻撃をし、城代・滝本重行たきもと・しげゆきの放逐に成功する。
天正6年(1578年)7月21日、浪岡なみおか城を襲い北畠顕村きたばたけ・あきむらを自害させた。
天正13年(1585年)3月には外ヶ浜そとがはまに出兵。
油川あぶらかわ城、横内よこうち城などの諸城を落として一帯を制圧。
同年5月、千徳政武せんとく・まさたけの田舎館いなかだて城を攻略し、ここに南部氏の勢力を一掃し、ついに津軽の覇権を掌中にした。

為信は『孫子』が訓おしえる「兵は詭道きどうなり」を地でいった謀将だが、民政手腕にも秀でていたという。
日常生活では質素倹約を旨とし、飢饉時には救恤米きゅうじゅつまいを配るなどして民心をつかんでいたという。

為信は時勢を読む先見性があり、早くから豊臣秀吉への接近を図った。
天正17年(1589年)に家臣を上洛させて鷹や馬を献上。
小田原の陣に際しては躊躇なく参陣を決断し、小田原へ向かう途上の秀吉に沼津で謁見し、津軽地方の所領安堵状を手に入れた。
津軽姓を名乗るようになるのはこの時からである。
関ヶ原合戦のおりには、奥羽の大名としてただ一人、東軍勢として本戦に参加している。
戦後、鷹岡たかおか(のちの弘前)へ本城を移そうと縄張りも終えたが、築城工事に取り掛かる前の慶長12年(1607年)12月、京都で歿した。

(参考:『歴史街道 2011年7月号』)

(平成25年4月13日追記)


津軽為信霊屋



津軽為信霊屋
(青森県弘前市・革秀寺)





(平成21年11月3日)

重要文化財
津軽為信霊屋
昭和28年11月14日指定

本寺(津軽山革秀寺)は、津軽藩初代藩主津軽為信が自分の禅の師匠である長勝寺8世住職格翁かくおう禅師のために建てた寺と伝えられる。
為信は、慶長12年(1607)に京都で亡くなったが、この遺骨を2代藩主信枚のぶひらが持参し、格翁禅師を導師として葬儀を行い、革秀寺を廟所びょうしょとしている。
この霊屋たまやは、桁行1間梁間1間の平面が正方形の建物である。
柱は円柱、軒は二重繁しげたるき入母屋いりもや造り、妻入りで前面に小さく唐破風からはふをつけている。
内部には四十九院板塔婆を張り付け、後の壁に寄せるように石造塔婆を安置している。
小振りではあるが、彩色豊かな体裁の整った美しい建物である。

管理者 革秀寺
弘前市教育委員会

(説明板より)

本堂




本堂






(平成21年11月3日)

重要文化財
革秀寺本堂
平成5年8月17日指定

津軽山革秀寺は、長勝寺格翁かくおう禅師に師事した津軽藩祖為信ためのぶが、慶長3年(1598)藤崎に造営したのに始まり、間もなく現在地に移築したが、いくばくもなく火災に遭い、その後再建され今日に至ったと伝承されている。
その再建年代は、慶長15(1610)とも慶長17年ともいわれる。
現存する本堂は、正面桁行9間、梁間はりま8間、屋根は一重入母屋造りの茅葺かやぶき平入ひらいりで正面玄関を式台構しきだいがまえとする。
いかにも古雅な外観ではあるが、内部の扉や欄間らんま、木鼻きばな等の彫刻、あるいは、天井などに桃山時代の手法を数多く残している本格的建築物で、当地方における曹洞宗寺院の古い典型を示すものとして極めて貴重である。

管理者 革秀寺
弘前市教育委員会

(説明板より)

革秀寺



革秀寺
(青森県弘前市大字藤代1−4−1)





(平成21年11月3日)

弘前市 史跡
曹洞宗津軽山 革秀寺
住所 弘前市大字藤代字川面116外
面積 18,807.41u

革秀寺は、津軽藩初代藩主為信により津軽家の菩提寺ぼだいじである長勝寺の格翁和尚の隠居寺として、慶長3年(1598)藤崎村(現 藤崎町)に創建され、間もなく現在地に移されたと伝えられています。
為信は、津軽一統後、高岡城(のちの弘前城)の築城を計画しましたが、その完成を見ることなく慶長12年(1607)京都において卒去しました。
二代信牧のぶひらは、亡父の菩提を弔うためここに霊屋を建立し、境内全域を聖域化して庶民だけでなく藩の武士の立ち入りも厳しく制限したといわれています。
境内には、霊屋のほか江戸時代初期に建てられた本堂なども残されており、文化8年(1811)の絵図にも示されている東側の池や霊屋周囲の二重の土塁も現在に引き継がれています。
また本堂西側にある庭は、当地方で最も古い庭園と考えられています。
現代に至るまで初代藩主為信の菩提寺として崇敬された歴史と共に、建造物を含めた境内地の構成を今日までよく保存継承していることから、長勝寺構(国指定史跡)などと共に津軽藩の寺院政策を知るうえで貴重な遺構の一つとなっています。

弘前市教育委員会
管理者 革秀寺

(説明板より)




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