津城 つじょう

三重県津市丸之内


 平成16年2月7日

津市指定史跡 津城跡

所有者:津市
昭和33年2月28日指定
安土桃山時代

津城は、織田信長の弟信包のぶかねによって築城された。
信包は信長が伊勢へ勢力を伸ばしてきたとき、長野氏の養子に入ったものである。
天正8年(1580)には五層の天守閣が完成し、当時柳山付近が中心であった津の町から町屋や寺院が移され城下町が作られた。
その後、富田氏が城主になり、慶長5年(1600)関ヶ原の戦いのとき西軍の攻撃を受け、城・城下町とも戦火を受けた。
慶長13年(1608)、藤堂高虎とうどう・たかとらが伊予今治いよいまばりから移ってくると、城に大改修を加え城下町を整備した。
本丸を広げ、石垣を高くして北側の石垣に角櫓すみやぐらを築き、堀も整備したが、天守閣は再建されなかった。
津城は典型的な平城で、堀が「回」の字形に二重に巡っている輪郭りんかく式または囲郭いかく式いわれる形の城である。
城下町は、城を中心に北・西・南側に武家屋敷、東側に町屋まちやが置かれた。
町はずれを通っていた伊勢街道を城下に引き入れ、町の発展を図った。
また、堀川を掘り、東側の守りとしたが、物資の運搬にも利用され商業の発展に役立てられた。
さらに堀川の外側には寺院を配置し、万一の場合に備えた。

【東之丸】
現在は商工会議所や公園になっているが、かつては小さなお宮さんがあったといわれている。
【内堀】
本丸、西之丸、東之丸を取り囲んでいたが、順次埋たてられて現在は本丸と西之丸のまわりに少し残っているだけである。
【本丸】
城の中で最も重要なところであるが、現在は洋風庭園になっている。
南西隅の石垣が一段高くなったところに五層の天守閣があった。
また天守台のやや東、石垣が切れたところには埋門があった。
周囲には丑寅うしとら三重櫓やぐらをはじめ5つの櫓があって、多聞たもん櫓でつながっていた。
【西之丸】
現在は日本庭園になっているが、昔は番所や倉庫があった。
南西には玉櫓たまやぐらと二階門があった。
門は入口が鍵かぎの手に曲がり、いわゆる桝型門といわれるものであった。
本丸との境は土橋でつながっていた。
【二之丸】
内堀と外堀に囲まれたところで、重臣の屋敷や藩政の中心機関があった。
また周囲には12の小さな櫓が築かれていた。
幕末には、藩校有造館ゆうぞうかん(現在NTT三重支店になっているところ)がおかれた。
現在西之丸の日本庭園の中に有造館の入徳にゅうとく門が移築されている。
【外堀】
城の内と外を区切る堀で、岩田川から水を取り入れていたため潮の満ち引きで水面が上下した。
北・西・南に門が設けられていた。
現在はすべて埋められている。

(説明板より)


 (説明板より)

模擬三重櫓



復興模擬三重櫓
多聞櫓があった場所に建てられています。
(東之丸跡から撮影)



(平成16年2月7日)

 (説明板より)

本丸跡



本丸跡

公園になっています。




藤堂高虎銅像


藤堂高虎の銅像
(本丸跡)





(平成16年2月7日)

入徳門



入徳門
(西之丸跡)




(平成16年2月7日)

津指定史跡 入徳門

文政3年(1820)、第10代藩主藤堂高兌たかさわは藩士やその子弟を教育するための藩校として有造館を創設した。
その中心である講堂の正門が、この門である。
入徳門の名前は、「大学は諸学徳に入る門なり」という言葉からきているといわれ、徳に入るの門として作法は厳格であった。
明治4年(1871)、有造館は廃校となったが、その後に創設された小学校第一校、師範学校、津中学校、三重女学校兼附属幼稚園、入徳幼稚園の正門として使われた。
昭和20年(1945)の戦災時には奇跡的に類焼は免れた。
戦後は当地にあった県立図書館の正門となるも、昭和42年(1967)の同館移築により、この門のみ残された。
この間、入徳門は何回も場所を移り、昭和46年(1971)現在地に建てられたが老朽化がはげしくなり、昭和61年(1986)より昭和62年(1987)にかけて保存修理工事(解体復原)を実施したものである。

昭和43年1月20日指定
津市教育委員会

(説明板より)


内堀




玉櫓跡の石垣と内堀





(平成16年2月7日)

【関ヶ原の戦い】

永禄年間(1558年〜1570年)に、この地に最初に城を築いたのは、伊勢の有力国人・長野氏の一族である細野藤敦ふじあつである。
永禄12年(1569年)には、織田信長の弟である信包のぶかねが入城し、石垣を普請し、五重の天守も造営された。

関ヶ原合戦当時の城主は富田信高のぶたかで、東軍に与していた。
このため、伏見城を攻め落とした毛利秀元、吉川広家きっかわひろいえ、長宗我部盛親ちょうそかべもりちから、3万の軍勢が津城(安濃津城あのつじょう)に攻め向った。
城主の富田信高は徳川家康の上杉攻めに参戦していたが、急遽城に戻り籠城戦に備えた。
籠城にあたっては伊勢で東軍方についた分部光嘉わけべみつよしも参加。
更に、古田重勝ふるたしげかつは鉄砲隊を向わせたが、それでも津城の兵力はわずか1700に過ぎなかった。
慶長5年(1600年)8月24日に西軍の津城攻めが開始された。
『武功雑記』『烈婦伝』などには、津の町衆や城主信高の夫人も戦ったことが記されている。
しかし、8月26日には高野山の木食上人もくじきしょうにんによる降伏勧告を受け入れ、信高は一身田いしんでんの専修寺で剃髪し、高野山に蟄居した。
戦後は、この籠城により12万石に加増され、慶長13年(1608年)に伊予宇和島城の城主に転じた。

信高の転封により、新たに入城してきたのが藤堂高虎。
慶長16年(1611年)頃から津城の大改修に着手。
本丸が拡張され、石垣の修築、虎口こぐちの変更、さらに外郭そとぐるわなどが構えられた。

(参考:『歴史街道 2012年3月号』)

(平成25年8月29日 追記)




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