塚原卜伝   つかはら・ぼくでん

1489年〜1571年2月11日

茨城県鹿嶋市・JR鹿島神宮駅前の公園でお会いしました。


塚原卜伝は鹿島神宮の神官である卜部覚賢うらべのあきかたの家に生まれましたが、その後、塚原城の塚原安幹やすもとの養子となり塚原姓になりました。
卜伝は実父から鹿島中古流刀術を、養父からは天真正伝神道流を学び、鹿島神宮に籠もってこれに工夫を加え、「一の太刀」(ひとつのたち)という剣術を編み出しました。
卜伝は実子に恵まれなかったため、門弟中から後継者を選んで養嗣子としましたが、彦四郎幹秀ひこしろうもとひでという二代目は卜伝の期待に反し、卜伝流は衰退していってしまいました。


塚原卜伝像 銅像はこんな感じで立っているんですけどね。

後にマンションが建っちゃってるので、ちょっとガッカリなんですよね。
塚原卜伝の墓所入口 塚原卜伝の墓の入口

田んぼの中の道をクネクネと走るのですが、途中に案内板がないのでフッと不安になります。
ここには小さな駐車場があります。

お墓入口の説明板

塚原卜伝の墓

塚原卜伝は延徳元年(1489)鹿島神宮の神職卜部吉川家に生まれ、塚原城の城主塚原土佐守安幹の養子となった。
少年時代に鹿島の太刀、香取神道流など習い、剣の達人としての第一歩を踏み出した。
卜伝は生涯三回の廻国修行をし、足利義輝やその弟義昭などにも指導している。
元亀二年(1571)に八十三歳の天寿を全うして没。
その後、甥の吉川晴家に伝えられ、「鹿島新当流」として県の無形文化財に指定されている。

鹿嶋市

塚原卜伝の墓 塚原卜伝の墓

お墓の説明板

塚原卜伝

塚原卜伝は、今から450年前、戦国乱世の時代に活躍した剣豪で鹿島新当流の創始者でもある。
卜伝は延徳元年(1489)2月に鹿島神宮の神官卜部吉川覚賢の次男として生まれ、幼名を朝孝といった。のち、鹿島塚原城主土佐守安幹の婿養子となり新右衛門高幹と改め、実父、養父から剣の教えを受け松本備前守政信についても修行したというが、剣の極意を得るには至らず、17歳の時から30歳前後まで全国を修行し鹿島に帰った。
卜伝は、鹿島神宮に参詣すること千日にして神意を悟り「心を新にして敵に当たる」即ち、無想無我であるを得たという。

鹿嶋市


卜伝は仕合しあいをする時は、いつも事前に相手の刀の使い方や癖を弟子たちに調べさせていたという。
薙刀なぎなたの梶原長門かじわら・ながととの仕合の時は、弟子たちにいつもより長い太刀を使うべきとの進言に対して、「薙刀は柄は長いが刃は短い。そのような短い刃に斬られるのは未熟者ばかりだ。」と言って進言を退けた。
その話は当然、梶原長門の耳に届く。
しかし、仕合の当日、卜伝は普段より長い太刀を用いて、梶原を一刀両断にしたという。
騙まし討ちのようにも思えるが、事前の心理戦の勝利とも言える。

(平成17年3月1日記)


塚原卜伝


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