躑躅ヶ崎館 つつじがさきやかた

山梨県甲府市古府中町


 平成25年5月13日

国指定史跡
武田氏館跡(躑躅ヶ崎館跡)

指定年月日 昭和13年5月30日
所在地    甲府市古府中町・大手3丁目・屋形3丁目
管理団体   甲府市

「武田氏館」は、「躑躅ヶ崎館」とも呼ばれ、武田信玄の父、信虎が、永正16年(1519)に石和からこの地に、館を移したことから始まります。
その後、信玄・勝頼と、武田家当主の館として使われました。
そして武田家の滅びた後、文禄年間に館の南方に今の甲府城が作られるまでの、約70年にわたり、この館一帯は、領国の政治・経済と文化の中心地として発展しました。
館は、一辺が約2百メートルの正方形の主郭(現武田神社)を中心に、その回りのいくつかの副郭とによって構成された平城形式のものです。
館の回りには、家臣の屋敷が建てられ、南方一帯には格子状に整備された道路に沿って、城下町が開けていました。
この館と城下町は、戦国時代の大名の本拠として、第一級の規模と質を誇るものです。

平成元年3月

文化庁
山梨県教育委員会
甲府市教育委員会

(説明板より)





武田神社
(武田氏館跡内)




(平成25年5月13日)

御祭神 武田晴信命はるのぶのみこと(信玄公)
鎮座地 山梨県甲府市古府中町2,611

由緒
武田晴信公は清和源氏新羅三郎義光公の後裔こうえいで、大永元年(1521)11月3日、武田信虎公の長男として石水寺せきすいじ要害城に生まれました。
幼名を太郎、童名わらべなを勝千代かつちよと名乗り、天文5年(1536)3月の元服に際し、将軍足利義晴よしはるから「晴」の一字を賜り晴信といい、従五位下大膳大夫だいぜんのだいぶに叙されました。
天文10年(1541)信虎公の後継者として、甲斐の国主となり、以後30有余年両国の経営に力を尽くされました。
天正元年(1573)4月12日、天下統一の夢を抱き京に上る途中、信州伊那駒場いなこまんばで病没されました。(行年53歳)
大正4年(1915)大正天皇の即位に際し、晴信公に従三位が追贈され、これを機として山梨県民はその徳を慕い、官民が一致協力して、社殿を造営、大正8年(1919)4月12日、鎮座祭が盛大に齋行されました。

例祭 4月12日(御祭神御命日)

※ ~以下略~

(説明板より)

躑躅ヶ崎跡

躑躅ヶ崎(武田氏居館)跡

この地は武田氏三代(信虎・信玄・勝頼)の居館にして躑躅ヶ崎の西方にあるところから後世この別称を用いたと伝えられる。
屋形一帯の壕塁、縄張りは左図の如き構成でほぼ現存し往時を偲ぶに足る。
居館中心地域については各説あるも一応左図の如き屋形配置が想像される

(説明板より)

武田氏館主郭付近

史跡武田氏館跡大手門周辺ゾーン

武田氏館跡は、戦国大名武田氏三代(信虎・信玄・勝頼)の本拠として築かれた一辺が約200mの正方形をした居館であり、東に位置する躑躅ヶ崎と呼ばれる尾根の麓にあることから、一般には「躑躅ヶ崎館」の呼び名で親しまれている。
武田信虎によって永正16年(1519)に築かれた初期の館は、現在武田神社が鎮座する主郭のみであったと考えられ、堀や土塁の規模も現在の半分程度であったことが発掘調査で明らかになっている。
館の規模が現在のようになったのは、武田領国を中部一帯に拡大した武田信玄の時代と考えられ、西曲輪・味噌曲輪・御隠居曲輪等が増設された。
ここ大手門周辺ゾーンは、戦国時代の館の正面玄関に当たり、武田信玄を始め、多くの武将・文化人が通った道である。(南側の水堀を渡る入口は、大正時代の武田神社創建時に参道として切り開かれた道である)
当地区の整備工事前に実施した発掘調査では、大手門一帯を囲むように設けられた土塁、出入口の石階段などが確認され、主郭に至る土橋の正面からは、大手石塁やうまやとみられる建物跡が検出された。
同時に大手石塁の下層からは、武田氏時代の遺構である三日月堀みかづきぼりと呼ばれる出入口を守る施設が新たに発見されるとともに、家臣や職人の屋敷とみられる区画も確認されたことから、武田氏の時代には城下町が展開していたことが明らかとなった。
当ゾーンにおいては、様々な議論の末、遺構として最上層に残存する土塁・石塁も、館の歴史的な変遷を知る上では重要な施設であると位置づけられたため、武田氏滅亡後に付設された曲輪内の構造をより明確にする方針で整備を行なった。

甲府市教育委員会

(説明板より)

大手

武田氏館跡大手

現在地は、戦国時代の武田氏館の正門にあたる大手に位置しています。
大手の発掘調査では、大手門を守備するために築かれた大手石塁が検出されるとともに、その下層からは武田氏の時代に築かれたと考えられる三日月堀などが発見されています。
そのため、大手の整備では武田氏滅亡後に甲斐を支配した豊臣秀吉の家臣によって築かれた大手石塁などを復元整備しました。

大手三日月掘

武田氏滅亡後に築かれた大手石塁と重複する位置から三日月堀と呼ばれる半月形の堀跡が確認されています。
三日月堀は丸馬出まるうまだしと呼ばれる城館の出入口を守る施設の一部として築かれたもので、本来は内側に土塁を伴っていたと思われます。
丸馬出は、武田氏が支配した長野県や静岡県、群馬県北西部などの城郭に数多く存在することから、武田氏が用いた築城技法の一つと考えられています。
図示した大手三日月堀の範囲は、北側を除き部分的な確認調査の成果をもとに全体規模を想定しています。
南側については、大手石塁と重複しているために未調査となっていますが、三日月堀の埋め立てが不十分であったために発生した地盤沈下による石垣の崩落が石塁東面で確認されています。
よって、三日月堀の規模は、全長約30m、堀幅約4m、深さは確認された範囲で約2mでした。
大手石塁の下層に埋もれていたこともあり、古絵図や文献にも記録されず、発掘調査以前はその存在を確認することはできませんでした。
発掘調査の結果、大手三日月堀は、写真①のように堀の中に多数の礫石が投げ込まれた状態で発見されましたので、真上に位置する大手石塁との関係も考慮すると、武田氏から徳川氏・豊臣氏への領主交代によって人為的に埋め戻され、破却されたと考えられます。

大手石塁

武田氏館の正門である大手門を守るために築かれた総石垣の構造物です。
二個所に階段が取り付けられていることから、上部には何らかの建造物が存在したと考えられます。
石垣は自然石を横方向に配置することを意識して積み上げた野面積のづらづみと呼ばれる技法で積まれており、裏側には石垣の安定と排水を意図した無数の栗石くりいしが詰め込まれています。
主に安山岩あんざんがんが使用されていますが、花崗岩かこうがんなども混在することから、近隣で産出する石材が集められたと考えられます。
石材には矢穴などの加工の痕跡はなく、自然石がそのまま使用されているのも特徴の一つです。
このような栗石を有する石積みの技術は、戦国時代の甲斐には存在しなかったものであり、西日本から導入されたと考えられます。
そのため、大手石塁は、武田氏滅亡後に甲斐を治めた徳川氏か豊臣氏配下の大名によって新たに築かれた可能性が高いと考えられます。
発掘調査当初は、石垣東面以外の多くは後世の開発により失われていましたが、古絵図なども参考にして欠損箇所は積み足し、破損・劣化が著しい箇所は解体修理して往時の姿に復元整備しました。

(説明板より)

大手周辺ゾーン 





大手石塁(南側)




(平成25年5月13日)

大手石塁南階段

南階段は近現代に農地の開墾によって大きく破壊されたと考えられますが、発掘調査によって6段まで階段が確認されています。
整備工事では、大手石塁の高さとの関係から、さらに2段の石段を復元いたしました。

(説明板より)






厩跡




(平成25年5月13日)

うまや跡平面表示

武田氏館跡の大手門を守備するために築かれた大手石塁の南側で発掘された建物跡は、地面に柱を埋めて建てられた掘立柱ほったてばしら建物跡である。
建物跡中央に位置する3基の長方形の柱穴からは、柱を据えるための礎板そばんが出土し、これまでの武田氏館跡の調査事例でも類例がなく、上図で明示する柱配置も戦国時代では特殊な間隔が採用されている。
当建物の用途は、その特殊な柱間から江戸初期に成立した、『匠明しょうめい』に記された「厩うまやの建物形式に酷似し、甲州市恵林寺所蔵の「甲州古城勝頼以前図」にも、現在地付近に「御厩」の表記があることと合わせて、外厩と考えられる。
時期的には大手石塁の東端部延長線上に計画的に建てられたと考えられることから、武田氏滅亡後に存在した厩であると推測される。

甲府市教育委員会

(説明板より)





土塁と惣堀





(平成25年5月13日)

土塁どるい・惣堀そうぼりの復元

武田氏館跡東側一帯には、北郭きたかくから大手に向かって南北方向に伸びる堀と土塁がある。
堀跡は場所によりいくつかの呼称があるが、現在は総称して惣堀そうぼりと呼ぶ。
惣堀には土塁が設けられており、この一帯の古字名が「高塀たかべいと呼ばれる由縁となったと考えられる。
整備前の発掘調査からは、江戸時代以降の水田開発や宅地化により土塁が徐々に切り崩された形跡が確認でき、わずかに残された痕跡を基に復元整備を行った。
土橋に挟まれた本地点周辺では、切り崩された土塁の盛土が確認されるとともに、土塁基底部の土留めとして用いられた石積みが大手側・惣堀側の両方に確認されたことから、往時の土塁規模を推定することが可能となり、現在のような姿として整備を行った。

甲府市教育委員会

(説明板より)






惣堀北側虎口




(平成25年5月13日)

惣堀北側虎口こぐち(虎口とは城館の出入口のことです)

武田氏館の正面玄関にあたる大手東側一帯には惣堀と土塁で囲まれた曲輪くるわが形成されたことが明らかとなっています。
惣堀には整備前から古道である鍛冶小路かじこうじに面して南北2箇所の土橋が架けられていました。
土橋は、貞享3年(1686)の古府中村絵図(武田神社蔵)に描かれているので、江戸時代前期にはすでに存在していたようです。
発掘調査以前は、鍛冶小路側から土橋をわたると通路は途絶えていましたが(写真①)、調査を進めると、石を配した階段が発見されました。
石階段は全体を粘土混じりの礫石で覆われた状態で発見されているので(写真②)、自然堆積によって埋まったものではなく、曲輪の機能が停止した段階で人為的に封じ込められたと考えられます。
約400年の時を経て姿を現した戦国時代のこの階段は、南北両端が後世の開発等により破壊されていますが、大手東側に築かれた曲輪の虎口と考えられ、その規模は、全長約2.2m、幅約6.2mを計ります。(写真③)
虎口の門につきましては、水路などによる後世の開削が著しく、礎石など門の存在を裏づける痕跡を確認することはできませんでしたが、比較的良好な状態で残されていた階段下の広場では確認されませんでしたので、門は階段上に存在した可能性が高いと考えられます。
整備事業では、戦国時代の石階段保存するために埋設し、その上に同じような形で復元しています。

(説明板より)


【躑躅ヶ崎館】

躑躅ヶ崎館が築造されたのは、永正16年(1519年)で、戦国前期に属する。
昭和13年に史跡名勝の指定を受けた館跡は、往時の地形をよく留めており、広さは東西約284メートル、南北約193メートル、四方にめぐらした堀や内部の土塁などに、面影を偲ぶことができる。
盛時、堀の幅は8~12メートルもあったといい、土塁も高さ3~5メートル。
大手・搦手からめてとも4ヵ所に城戸きどが設けられていた。
内部には館の他に大きな天守台が築かれ、その上には天守ではなく、軍神の毘沙門びしゃもん堂が建っていた。
この天守台は、武田家の莫大な財宝の隠し蔵に当てられていたという。

館の外部には、堀沿いに穴山梅雪あなやまばいせつ・板垣信方(信形)のぶかた・高坂弾正たかさかだんじょう・小山田信茂おやまだのぶしげら、武田家の重臣が屋敷を連ねていた。

躑躅ヶ崎館は単独で機能するものではなかった。
館の背後、標高770メートルの要害山上に、詰つめの城として石水寺せきすいじ城(積翠寺城・要害山城ともいう)が置かれている。
ここには、より小規模な山城や物見櫓台などが点々と配置されており、それらが馬蹄ばてい形に躑躅ヶ崎館をとり囲むことによって、堅固な防御陣を構成する仕組みになっているのである。
躑躅ヶ崎館そのものは、堀一重を巡らしただけの、文字通り館の構えをとっているにすぎない。
往時は御本城と呼びならわされていたらしいが、御本城すなわち本丸の意と受け止めて良いようだ。
外敵の攻勢を躑躅ヶ崎館でくいとめることのできない最悪の事態に、緊急避難して態勢を立て直すべき拠点が、石水寺城だったわけだ。

総じてこのころまでの城というのは、武装を施された居館のようなもので、城郭建築としてみるならば、ずいぶん貧弱で粗末なものであった。
このような“城屋敷”が、いま私たちが「城」という言葉から連想する形態をとるようになったのは戦国末期以降のことである。

(参考:百瀬明治 著 『日本名城秘話』 徳間文庫 1995年1月初刷)

(令和2年7月6日 追記)




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