堤康次郎像 平成17年4月9日

堤康次郎 つつみ・やすじろう

明治22年(1889年)3月7日~昭和39年(1964年)4月26日

滋賀県大津市・市立歴史博物館の下でお会いしました。


滋賀県出身。
早稲田大学卒。
さまざまな事業を試みるが失敗を重ねる。
大正9年(1920)箱根土地(国土開発の前身)を設立する一方、鉄道事業にも乗り出し、土地開発・観光・ホテル・流通・レジャーなどの都市型第三次産業を展開する西武コンツェルンを築いた。
大正13年(1924)には衆議院議員に初当選(民政党)。
以来13回にわたって当選し、第2次世界大戦後の昭和28年(1953)には衆議院議長に就任した。


堤康次郎先生之像



堤康次郎先生之像
(滋賀県大津市・市立歴史博物館)




(平成17年4月9日)

大津市名誉市民
堤康次郎先生之像


先生は、明治22年3月、滋賀県秦荘町に生まれ、早稲田大学在学時から政治家をめざしつつ経済界に進出し活躍。
大正13年には衆議院議員に初当選し、以後13回当選、昭和28年・29年には衆議院議長を務め国家の発展に尽力され、また「社会への奉仕」という経営哲学をもって一代にして西武グループを築かれた。
亦、大津市では米軍キャンプ地返還や膳所刑務所移転等、今日の大津の基盤づくりに大きく貢献し、昭和33年には大津市初の名誉市民の称号を受賞された。
市制百周年を迎えた本年、先生の御功績に感謝し顕彰すべく広く市民の御厚志を得て此処に銅像を建立する。

平成10年12月吉日
堤康次郎先生顕彰事業推進委員会

(副碑より)


【堤康次郎】

21歳のとき先祖伝来の田畑を売り払い大枚5000円を持って上京。
将来、政治家を目指すために早稲田大学政経学部に入学。
雄弁部と柔道部に入る。
弁論大会で一等になり大隈重信、永井柳太郎に目をかけられる。
その間、学生の身ながら、大隈の政治機関誌『新日本』を発行、株で儲けたり、三等郵便局を経営したりして商才を発揮した。
大正13年以来、滋賀県から衆議院に出馬し、当選13回。
昭和28年5月から29年12月まで衆議院議長を務める。

【英雄色を好む 怪物・堤康次郎】

康次郎が正式に入籍した正妻は3人。
西沢コト、川崎文、青山操である。
子の他に一般に知られている女性として、岩崎ソノと石塚恒子という“日陰の女”がいる。

西沢コトは、康次郎と同郷の滋賀の人で、堤家と縁戚にあたる家の出だという。
長女・淑子を産んだが、康次郎が上京する前に別れている。
淑子は、義明(康次郎の5番目の子)が引き継ぐまで西武鉄道の社長をしていた小島正治郎に嫁いでいる。

次の女性となったのが岩崎ソノ。
長男・清の母である。
彼女は康次郎が上京して早稲田大学に通うかたわら、株で儲け、その金で三等郵便局の経営に乗り出したときの事務員。
康次郎、23歳のときである。
その2年後、長男・清が生まれるが、このとき康次郎は、すでに早稲田の総長・大隈重信の紹介で、日本女子大を卒業し、ジャーナリストになっていた川崎文と交際していた。
後に、長男・清は、嫡子であるので西武王国継承者になるはずだったが、康次郎の怒りに触れて廃嫡となったという。(元・近江鉄道社長)

川崎文の父の名は風祭兼次郎という。
母方の養女に出て姓が変わったが、一族には東大出の学者や医師が多く、インテリの家系である。
康次郎が文と正式に結婚したのは大正4年。
それ以来、昭和29年まで文は戸籍上の正妻だった。
川崎文が康次郎の最初の土地事業。軽井沢開発(大正7年)の資金を調達したという。
土地買収の資金となった3万円もの大金は、文が実家に泣きついて用立てたり、“卒業総代”にもらった記念の時計や結婚指輪などを質に入れて作ったものだといわれている。
いわば、現代版“山内一豊の妻”といったところだが、康次郎はその文をないがしろに扱ったという。
その理由は、文に子供ができなく、インテリ女性であったため性に淡白だったからといわれている。
だが、いま一つの理由は康次郎から性病を移され、片足が不自由になったからだともいわれている。
当時、康次郎は軽井沢の開発で成功すると、翌大正8年、箱根開発に着手し、続いて箱根土地株式会社を設立。
これが後の国土計画(現・コクド)の前身である。
大正12年、35歳の時には、駿豆鉄道を買収して経営にあたり、日の出の勢いで事業を発展させていく。
男盛りとくれば、女遊びも尋常なものではなかったのだろう。
康次郎は花柳病に感染し、それが文にも伝染したという。
文が不運だったのは、手術の結果、正座することも出来ず、歩く時でも足を引きずるようになり、公式の場に出て行かなくなったことだった。

そこで登場してきたのが青山操である。
後の清二(康次郎の三番目の子・次男?)の母といわれる女性。
操の父・青山芳三は、もともと康次郎の同業者としての友人で、三菱に連なる名家だった。
当時、東京土地という会社を経営していたが、後に倒産し、康次郎の庇護を受けることになる。
一説には、この倒産は康次郎が罠をしかけて分捕ったという話もあるが、真相はわからない。
大正9年ごろのことである。
東京土地を引き受けた康次郎は青山家に足しげく通うようになる。
青山家には美人の四姉妹がいた。
康次郎はまず操の姉妹と親しい間柄となったが、本命はひときわ美人の操だった。
しかし彼女はかたくなに拒み続けた。
会社を乗っ取られ、生ける屍となった父。
女中がわりに使われる母。
愛人となった姉妹。
この悲惨な一家を見て、やむにやまれぬ気持ちから一つの決意をする。
せめて年端のいかない妹の身だけでも守ろうと身を挺して康次郎の“愛人志願”を買って出たという。
これまで清二と邦子(康次郎の4番目の子・次女?)は戸籍上、操の子となっていたが、実は操の姉妹の子供だったという話がある。
関係者によれば、康次郎と操が最初に結ばれたのは大正12年、場所は康次郎の鎌倉の別荘だったという。
青山一族の復讐のために“愛人”になったという話もある。
後に、操の父・青山芳三は割腹自殺という悲惨な最期を遂げたが、すべては康次郎に対する恨みから出たものだといわれている。
当時、康次郎は故郷から総選挙に出て代議士となっていた。
36歳になったばかりの年である。
この年は、事業家としても大泉学園都市、小平学園都市、国立学園都市をそれぞれ開発させ、押しも押されもせえぬ青年実業家となっていたころである。

操に思わぬ強敵が出現する。
石塚恒子である。
彼女も最初は、父親が康次郎の友人という縁から始まった。
父親の名は石塚三郎といい、康次郎とは代議士の同期生だった。
石塚家は新潟市で代々「石塚歯科医院」を営んでいた素封家で、三郎は野口英世と若いころ机を並べた親友。
現在、東京・新宿の大京町に建っている「野口英世記念館」は、石塚が私財を投じて設立したものである。
上京して山脇女子専門学校に通った恒子は、父の事務所で手伝いをしているうちに、康次郎の目にとまり、一方的に求愛され、愛人関係にされたようだ。
当時、このことを知った父親は「堤と刺し違えてやる」とまで激怒した。
しかし、恒子は父親と絶交しながらも康次郎の庇護を受けるようになる。
やがて、恒子には、義明、康弘、猶二という三人兄弟が生まれる。

この恒子親子の登場に、清二を後継者にと画策していた操は脅威を感じたようだ。
当時はまだ操も正妻ではなく、恒子と同じ日陰の身。
いわば操は、正妻の文と闘いながら、もう一方で文と同じ苦しみを味わされていたのである。
かくして康次郎は正妻の文、愛人の操と恒子という3人の女性を操りながら、実業家と政治家の両方を全うしていく。
操が目指すは愛人の座ではなく正妻の座であり、そのためにあらゆる可能性を求めて康次郎に対応していく。
そしてついに、昭和16年、広尾に堤家の大邸宅が完成するとともに、三鷹の別宅にいた操一家(操・清二・邦子)は呼び寄せられ、一方、川崎文は「足が不自由で、接客に不都合」と、別宅に追いやられた。
操と文が入れ替わったのである。
名実ともに夫婦となった操は、文に代わって公式のパーティーなどへも同伴し、やがて康次郎が衆議院議長に就任した昭和29年、正式に入籍した。

正妻となった操の次なる目標は、青山家の血を引く清二を後継者として育てること。
これこそ“復讐”の大目的だった。

時を経て、二代目たちが成長。
操の子・清二と恒子の子・義明は、昭和45年、父・康次郎の七回忌に“分割統治”が決められた。
つまり堤義明が国土開発(現・コクド)を中心とする西武グループの総帥となり、堤清二は西武百貨店を中心とするセゾングループを担当することになった。
このとき、互いのテリトリーは侵蝕しないという紳士協定があったという。
しかし、清二はことごとく義明に挑み、土地開発、ホテル産業にまで進出し“近親憎悪”の関係となる。
正妻と妾の立場で、それぞれの息子を後継者とするべく闘った操と恒子の思いは、逆転する格好で、“愛人の子”・義明の“総帥”で決着がついた。
清二、義明、いずれの母も、時を同じくして昭和59年に亡くなった。

康次郎はいっさいの閨閥も考えず、己の実力で好きなように生きたという点でも“怪物”の名に値する人物だったといえる。

(参考:神一行 著 『閨閥 新特権階級の系譜』 1993年第1刷発行 講談社文庫)

(平成26年7月29日 追記)




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