成務天皇18年?(148年?)~仲哀天皇9年2月6日(200年3月8日)
記紀系譜上の第14代天皇。
足仲彦たらしなかつひこ天皇と称する。
日本武尊やまとたけるのみことの第二子。
成務天皇に跡継ぎがいなかったため即位。
神功皇后と共に熊襲くまそ征伐に向かったが、この時に皇后に憑依ひょういした神の言葉を無視したため、その怒りにふれ死去。
皇后との間に応神天皇をもうける。
以上は『古事記』『日本書紀』に記述されている話だが、実在性に乏しい。(実在性の低い天皇の一人)
恵我長野西えがのながののにし陵に葬られたとされ、大阪府藤井寺市の「岡ミサンザイ古墳」が陵墓と指定されている。
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「蚕種渡来之地」碑 (山口県下関市・忌宮神社) (平成23年9月14日) |
「蚕種渡来之地」記念碑
いまから約1800年のむかし中国より秦しんの始皇11世の子孫功満王こまおうが来朝帰化しここ豊浦宮とようらのみやにご滞在の仲哀天皇に蚕種(カイコの卵)を献上したのが、わが国養蚕の始まりと伝えられる。
生糸の輸出の最も盛んであった昭和8年に養蚕関係者によってこの碑が建立された。
(説明板より)
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鬼石 (山口県下関市・忌宮神社) (平成23年9月14日) |
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鬼石 (山口県下関市・忌宮神社) (平成23年9月14日) |
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宿祢すくねの銀杏 (山口県下関市・忌宮神社) (平成23年9月14日) |
宿祢すくねの銀杏いちょう
当社の御祭神仲哀天皇、神功皇后、応神天皇に伝えた大臣武内宿祢たけのうちすくねが植えたと伝えられる古木でその子孫が繁茂している。
銀杏は「生きた化石」ともいわれるほどに地球上で最も古くよりみられる植物で武内宿祢の長寿伝説と結びついている。
(説明板より)
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忌宮神社 (山口県下関市長府宮の内町1-18) (平成23年9月14日) |
長門国二ノ宮
旧国幣社
忌宮いみのみや神社 由来
忌宮神社は、第14代仲哀天皇が九州の熊襲くまそを平定のため御西下、この地に皇居豊浦宮とよらのみやを興して7年間政治まつりごとを行われた旧址で、天皇が筑紫の香椎かしいで崩御せられたのち御神霊を鎮祭す。
その後聖武天皇の御代に神功皇后じんぐうこうごうを奉斎ほうさいして忌宮と称し、さらに応神おうじん天皇をお祀りして豊明宮とよあけのみやと称す三殿別立さんでんべつりゅうの古社(延喜えんぎ式内社)であったが、中世における火災の際中殿ちゅうでん忌宮に合祀して一殿いちでんとなり、忌宮をもって総称するようになった。
忌いみとは斎いみと同義語で、特に清浄にして神霊を奉斎する意味である。
現在の社殿は明治10年の造営で、昭和56年に改修す。
古来、文武ぶんぶの神として歴朝れきちょうの尊崇そんすう武将の崇敬篤く、安産の神として庶民の信仰を受け、長門の国二ノ宮として広く親しまれている。
(※ 以下略)
(説明板より)
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忌宮神社 (山口県下関市長府宮の内町1-18) (平成23年9月14日) |
忌宮神社(長府宮の宮町)
仲哀天皇 神功皇后 応神天皇を祭神とする式内社(平安初期の律令施行細則の延喜式神名帳に記載されている古社)
この地は 仲哀天皇が熊襲討伐のため7年間にわたり仮の皇居とされた豊浦宮跡といわれ宮に附属して斎宮を建て神祇を祭られたのが忌宮の起こりと伝えられる
また仲哀天皇が崩御されその御遺体をここより南方の土肥山に仮埋葬(殯斂)神霊を鎮祭し豊浦宮と称した
のち聖武天皇の神亀5年筑前国橿日宮から神功皇后の神霊を勧請して忌宮と称し さらに応神天皇を祀り豊明宮と称した三殿別立の古社であったが中世における火災で豊浦宮 豊明宮が焼失 忌宮に合祀し一殿となったという
数度の兵乱や火災により社殿の焼失をみたが大内・毛利両氏の崇敬篤くその都度社殿の造営改築が行われた。
現在の社殿は明治10年6月に造営されたものを改修したものである。
平成5年3月 長府観光協会
(説明碑・碑文より)
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