上杉謙信像 平成20年10月27日

上杉謙信 うえすぎ・けんしん

享禄3年1月21日(1530年2月18日)〜天正6年3月13日(1578年4月19日)

長野県長野市・八幡原史跡公園八幡社でお会いしました。


長尾為景の子。
初名景虎、ついで上杉政虎、上杉輝虎、入道して謙信。
武田・後北条両氏などと戦い、戦国武将を代表する一人だが、その勢力範囲はほぼ越後一国にとどまった。
天文17年(1548年)家督となり、2年後、守護上杉定実の死去により名実共に越後国主となる。
武田信玄の信濃北部への進出に対抗。
天文22年(1553年)信濃に出動し、以後しばしば武田勢力と戦った(=川中島の戦)。
北条氏康に関東を追われた関東管領上杉憲政を擁して関東に進出、氏康の本拠相模国小田原城(現・神奈川県小田原市)を攻めたが、攻略できなかった。
この時、憲政から上杉姓と関東管領職を継承、以後ほぼ毎年関東に出動したが、成果を残せなかった。
武田・後北条両氏の敵対により、永禄12年(1569年)後北条氏と同盟したが、短期間で破れた。
北陸方面では天正元年(1573年)越中を制圧、更に能登・加賀に進攻、織田信長軍と戦った。


八幡原本陣はちまんばらほんじん再現

ここ八幡原史跡公園は、永禄4年(1561年)の第4次川中島の戦いで、武田信玄の本陣がおかれた場所とされています。
信玄は、高坂昌信こうさかまさのぶ(春日虎綱かすがとらつな)率いる別動隊を、上杉謙信が籠こもる妻女山に向かわせ、別動隊に背後を突かれて追われてくる上杉軍を挟み撃ちにするため、この八幡原に本陣を敷いて待ち構えていました。
後世、啄木鳥きつつき戦法と呼ばれるこの作戦は、大河ドラマ「風林火山」の主人公・山本勘助の発案であったとされています。
しかし、信玄の動きを見抜いた謙信は、夜陰やいんに紛まぎれていち早く妻女山を下ったため、9月10日の朝、信玄の本隊は別動隊の到着を待たずに上杉軍との先端を開きます。
激戦のさなか、謙信が信玄の本陣に攻め込み、信玄に向かって三太刀みたち斬りつけ、信玄は床几しょうぎにすわったまま軍配でそれを受けたとされる「信玄・謙信一騎討ち」の伝説もこの戦いで生まれました。

(説明板より)

三太刀七太刀の跡




三太刀七太刀みたちななたち之跡






(平成20年10月27日)

三太刀七太刀みたちななたち之跡

永禄4年(1561)9月10日、ここ八幡原はちまんばらを中心に上杉、武田両軍3万余の壮絶な死闘が展開された。
上杉謙信は紺糸縅こんいとおどしの鎧よろいに萌黄もえぎ緞子どんすの胴方衣どうかたぎぬ、金の星兜かぶとに立烏帽子たてえぼし白妙しろたえの練絹ねりぎぬで行人包ぎょうにんつつみ、長光ながみつの太刀を抜き放ち、名馬放生ほうしょうに跨り戦況の進展に注目、乱戦で武田本陣が手薄になったのをみ、旗本数騎をつれ信玄の本営を強襲した。
この時の武田信玄は諏訪法性ほっしょうの兜、黒糸縅の鎧の上に緋の法衣、軍配を右手にもち、この地で崩れかかる諸隊を激励指揮していた。
この信玄めがけて謙信は只一騎、隼の如く駆け寄りざま、馬上より流星一閃、信玄は軍配で受けたが、続く二の太刀で腕を、三の太刀で肩に傷を負った。
後にこの軍配を調べたところ刀の跡が7ヶ所もあったといわれ、もの一騎討ちの跡を世に三太刀七太刀の跡という。

長野市

(説明板より)

逆槐




逆槐さかさえんじゅ






(平成20年10月27日)

逆槐さかさえんじゅ

山本勘助等の進言による「キツツキ戦法」の採用を決定した武田信玄は、永禄4年(1561)9月9日夜、ここ八幡原に上杉軍挟撃の陣地を構えた際、この場所に土塁を積みかさね、矢来を組み、盾をめぐらして本陣をおいた。
このとき土塁の土どめに自生の槐の杭を根を上にして打ち込んだのが芽を出し、その後約4百年を経てこの巨木に成長したものと伝えられる。
周囲に低い土塁のあとが見えるのは、信玄本陣を示す桝形ますがた陣形跡である。

長野市

(説明板より)

桝形陣形跡
執念の石




執念の石






(平成20年10月27日)

執念の石

武田・上杉両軍3万余の死闘を展開した川中島合戦の最中、作戦の失敗から緒戦の劣勢を余儀なくされ、身辺が手薄となった武田信玄めがけて切り込む上杉謙信の鋭い切っ先に、あわや信玄も八幡原の露と消えようとした間一髪、武田軍の中間頭原大隅はらおおすみが、傍かたわらにあった信玄の持槍、青貝の長柄を取って馬上の謙信をめがけて、ひと槍突きだした。
苛立った槍は鎧の肩の上にそれ、残念なりと返す槍で謙信の鎧の肩を斜右上から力いっぱい打下したが、またも外れて馬の三頭さんずをしたたか打ったので、馬は驚き跳ね上がってその場を狂奔きょうほんし去ったため、信玄は危く虎口を免れることができた。
一方謙信を取り逃がし、無念やるかたない原大隅は、傍にあったこの石を槍で突き通したといわれる。

長野市

(説明板より)

首塚




首塚






(平成20年10月27日)

首塚

この塚は以前は屍塚かばねつかと呼ばれ、1561(永禄4)年9月10日の戦いの後、武田方の海津城主高坂弾正こうさかだんじょうが激戦場となったこの辺り一帯の戦死者(6千余人)の遺体を敵味方の別なく集め、手厚く葬った塚の一つである。
これを知った上杉謙信は大変感激し、後に塩不足に悩む武田氏に対し、「われ信玄と戦うもそれは弓矢であり、魚塩にあらず」と直ちに塩を送り、この恩に報いたといわれている。
このことが乱世に咲いた美学と褒め称えられ、「敵に塩を送る」という言葉が生まれたといわれている。
ここから東南へ約180mのところにも同じく大きな首塚がある。
昔はこの付近にいくつもの首塚があったが、現存する大きな塚はこの二つだけであり、小さな塚は各所に点在している。

長野市

(説明板より)

 (説明板より)

八幡社



八幡社
(長野県長野市小島田町・八幡原史跡公園)





(平成20年10月27日)
八幡社



八幡社
(長野県長野市小島田町・八幡原史跡公園)





(平成20年10月27日)

川中島古戦場八幡原

川中島合戦は今から4百年前、天文22年より永禄4年に至る13年の永きに亘って行はれたが、後世広く伝えられている川中島合戦は永禄4年の戦いを指している。
この戦は越後の雄将上杉謙信、甲斐の智将武田信玄がこゝ川中島に雌雄を決せんと武田勢は八幡原に、上杉勢は妻女山に陣をとり、両軍併せて3万3千余、9月10日未明の霧深い中で信玄の「鶴翼かくよく」の配備と謙信の「車懸くるまがかり」の攻撃で双方死斗を盡し、こゝ八幡原は大修羅場と化した。
その中にあって、謙信は只一騎愛刀「小豆長光」を振りかざし武田の本陣に切り込み不意を突かれた信玄は軍配で謙信の太刀を受けたという有名な「三太刀、七太刀」も此の処である。
時に信玄41才、謙信32才であった。
この戦で死傷者7千を数え史上最大の激戦で両将の決戦場こゝ八幡原に現存する土盛りの跡は、武田本陣桝形陣地で当時の一部を物語っている。
両将の戦術は幾多の戦術研究の指針とし現代戦にも多く応用されたと聞く。
武田の居城海津城は東南4粁の松代に、また頼山陽の「鞭声粛々夜渡河」で有名な雨宮渡は東側を流れる千曲川の上流約6粁の地点である。

(説明板より)

 (案内板より)

謙信のおもかげ

謙信は保守的な性格で、昔かたぎの人だった。
天皇や将軍を尊び、神や仏を信仰したが、これは謙信の性格にもよるがまた長尾家の伝統でもあった。
「筋目」を大切にする謙信にとって、関東管領就任は関東進出の絶好の名目であった。
しかし毎年のように関東に出陣したことは結局謙信を疲れさせ、本国の統一を遅らせることになり、民政の方面へ充分の力を尽くせずに終わった。
謙信の部下はよく謙信に背いた。
その中には越後の豪族で謙信の有力な武将が数多くあった。
関東の諸将などは謙信が来れば降参し、帰ればすぐに背くということを繰り返していた者が多い。
このようなことは、一つには謙信の人柄にもよろうが、またそれだけ彼の支配力が不安定だったということも示している。
謙信が北条氏の子景虎を人質の意味で養子にし、のち北条氏と争うようになってもそのまま景虎を養子として待遇しておいたことなどは、戦国時代には珍しいことである。
謙信は一生独身のままで、結婚しなかった。
これは大変不思議な事で理由はわからない。
謙信はあまり大きな人ではなかった。
背は五尺そこそこ(約150cm前後)だったろうといわれる。
体はあまり丈夫な方ではなかったらしく、しばしば病気をしている。
小田原攻めの後2ヶ月ほど経った頃には胃腸病でかなり苦しんでいる。
49歳で脳溢血で倒れる前も、既に身体はだいぶ衰えていた。
謙信は7歳の時、林泉寺の住持天室光斎について学んだ。
天室光斎はすぐれた禅僧であり、また光斎の跡を継いだ益翁宗謙からも教えを受けた。
謙信は学問が好きだったらしく、ことに王朝文学には憧れを持っていた。
天文22年、上京の時は将軍と歌を詠みかわし、永禄2年の上京の時は近衛種家(前嗣の父)から歌道を学んだ。
また連歌が好きだったらしく、陣中などでも時々連歌の会を開いている。
字もうまく、茶道、能楽、笛、琵琶など趣味も広く、戦国武将としてはかなり教養のある人だったと思われる。

(参考:龍虎発行『川中島古戦場』冊子より)

上杉方の将

長尾越前守政景
政景は長尾の一族で代々南魚沼郡坂戸城主であった。
謙信が上杉家を継いで間もなく、謙信に背いたが、のちに降参して謙信の姉と結婚した。
政景は勇気もあり、政治の方も上手だったので、謙信は深く政景を信頼した。
永禄7年、自分の領内の野尻池で溺死。
謙信が謀殺したという説もある。
謙信の後継ぎになった上杉景勝は、政景の子である。

斎藤下野守朝信
斎藤氏は刈羽郡赤田の領主。
朝信は謙信の配下でも勇将の誉れが高く、世の人が鐘馗しょうきとよんだという。
上杉景勝が武田勝頼と和したのは朝信のはかりごとであったという。

北条高広
高広は刈羽郡北条の領主。
天文23年武田信玄に誘われて謙信に背いたが、まもなく降参して永禄4年上野厩橋(前橋)城将となる。
その後数年、上杉氏のために前橋城を死守していたが、永禄10年、北条氏政の圧力に屈し、北条氏に降った。
永禄12年、上杉・北条両氏が和睦し高広は上杉氏に帰ったが、上杉軍における重臣の地位を失わなかった。
これは謙信が心の広い人であったこともあるが、越後の諸将らが独立性が強く、簡単には滅ぼせないものであったことを示している。

直江景綱(実綱)・直江兼続
景綱は謙信の父・為景以来の重臣として政治や外交のことに当たった。
天正5年に没したのち、後継ぎの信綱は間もなく死んだので、上杉景勝は兼続を信綱の未亡人と結婚させて直江家を継がせた。
兼続はもと樋口といい謙信の近侍であったが、景勝・景虎の相続争いの時、景勝を助けて頭角をあらわし、のち上杉氏第一の実力者となった。
豊臣秀吉に認められ、上杉氏の家来でありながら大名の待遇を受けた。
秀吉の死後、石田三成と結び、景勝を担いで関ヶ原の戦いを起こしたが失敗し、寂しい晩年を送った。

村上源五景国(山浦国清)
信玄に追われて謙信に頼った村上義清の子。
謙信に愛され、越後の名家山浦家を継いで山浦源五国清と称し、特別の重臣として待遇された。
謙信の外交官として徳川家康やその家臣と交渉し功が多かった。
謙信が死んで景勝・景虎の相続争いが起こると景勝を助けて戦った。
景勝は自分の一字を与えて景国と改名させた。
天正10年、川中島が上杉領となると海津城代となり、川中島地方を支配した。
しかし、翌年の3月に免職され、越後に呼び返された。
景国が引き揚げた直後、屋代氏が上杉氏に背いている。
景国はのちに上杉氏を去り、京都で没した。

甘糟近江守景持
越後三島郡飯塚灰毛城主。
永禄4年9月10日、川中島の戦いの時、上杉方の殿軍として、武田軍の夜襲隊を千曲川畔で防いで本軍の戦いを有利にした。
また本軍が後退した時も、最後まで踏み止まって奮戦し、その勇猛を世にうたわれた。

本庄越前守繁長
岩船郡本庄(村上)の城主で、長尾氏に劣らぬ豪族であった。
永禄11年、信玄に誘われて謙信に背いたが、謙信に城を囲まれて降伏した。

川田長親
近江の人で性格が温厚で思慮が深く、山浦国清とともに外交官として活躍した。
のち越中魚津城将となり、織田の大軍を支えること2ヶ月、遂に城を枕に討死した。

宇佐美駿河守定行
『北越軍記』などに、謙信の軍師として活躍したことが出ているが、実際は定満という名前で謙信の部下の将校の一人にすぎなかったらしい。
『北越軍記』の著者・宇佐美定祐が自分の祖先のことをわざと大々的に書きたてたものであろう。
実際の人物としてはごく平凡な武士であったのを、江戸時代の軍学者が大軍師にでっち上げたものである。

(参考:龍虎発行『川中島古戦場』冊子より)


千曲川



千曲川

川の向かって右側が八幡原(川中島古戦場跡)




(平成20年10月27日)

【年表】

年号 西暦 年齢 出来事 世の中
享禄 3年 1530年  1歳 越後守護代・長尾為景の末子として生まれる。  
天文 5年 1536年  7歳 春日山城下の林泉寺に預けられ、天室光育に学ぶ。  
天文11年 1542年 13歳 父・長尾為景死去。  
天文12年 1543年 14歳 兄・晴景の命で還俗し、景虎と名乗る。
中越・下越平定のため栃尾城に入る。
ポルトガル人、種子島に漂着
鉄砲を伝える
天文13年 1544年 15歳 栃尾城に近隣武将が攻め寄せる。
これを撃退し初陣を飾る。
諸国洪水
天文14年 1545年 16歳 謀反を起こした黒滝城主・黒田秀忠を降伏させる。  
天文15年 1546年 17歳 再び謀反した黒田秀忠を黒滝城に討つ。  
天文17年 1548年 19歳 兄・晴景の養子となり長尾家を相続。  
天文18年 1549年 20歳   ザビエル、鹿児島に来る
キリスト教を伝える 
徳川家康、今川氏の人質となる
天文19年 1550年 21歳 坂戸城主・長尾政景が謙信に反抗して城に立て籠もる。  三好長慶、入京
将軍・足利義輝、近江に走る
天文20年 1551年 22歳 降伏を願い出た長尾政景を赦免。
越後を統一する。
陶晴賢、主人の大内義隆を殺す
天文21年 1552年 23歳 関東管領・上杉憲政が北条氏康の圧迫を受け謙信を頼る。  
天文22年 1553年 24歳 兄・晴景死去。
(第1次・川中島の合戦)
武田信玄に追われた信濃諸将の求めに応じ信濃に出陣。
御奈良天皇に拝謁。
高野山を参詣。
 
天文23年 1554年 25歳 北条城主・北条高広が武田信玄に呼応して謀反を起こす。  
弘治 1年 1555年 26歳 北条城攻撃の陣頭指揮をとり、北条高広を降伏させる。
(第2次・川中島の合戦)
信濃に出陣し武田信玄と200日余にわたり対峙。
厳島の戦い
弘治 2年 1556年 27歳 家中の騒動を受け、出家を決意する。
家臣団の懇請を受けて出家を断念。
謀反を起こした箕冠城主・大熊朝秀を駒坂で破る。
 
弘治 3年 1557年 28歳 (第3次・川中島の合戦)
信濃に出陣し武田信玄と戦う。
永禄 2年 1559年 30歳 上洛して将軍・足利義輝、正親町天皇に拝謁。 大友宗麟、豊後府中を開港 
永禄 3年 1560年 31歳 越中に初出陣。
松倉城主・椎名康胤を助け、富山城主・神保長職を撃破。
関東へ初出陣。
厩橋城に入城し、そのまま越年する。
尾張・桶狭間の戦い
永禄 4年 1561年 32歳 関東諸将11万を糾合し北条氏の本拠・小田原城を包囲。
鶴岡八幡宮にて関東管領就任式を挙行。
上杉家を相続し、「上杉政虎」と称す。
(第4次・川中島の合戦)
川中島に出陣し武田信玄と決戦。信玄の本陣を衝く。
関東出陣。
将軍・足利義輝から一字賜り「上杉輝虎」と称す。
 
永禄 5年 1562年 33歳 館林城を攻略。 京都土一揆
平戸、堺などで鉄砲の鋳造始まる
永禄 6年 1563年 34歳 関東に出陣。
騎西城、小山城、唐沢山城を攻略。
三河一向一揆
永禄 7年 1564年 35歳 (第5次・川中島の合戦)
川中島に出陣し武田信玄と対峙。
 
永禄10年 1567年 38歳 厩橋城将・北条高広が北条氏康に呼応して謀反を起こす。
信玄と決裂した今川氏真に救援を求められる。
この頃、信玄に塩を送る。
ポルトガル船、長崎に来航
永禄11年 1568年 39歳 本庄城主・本庄繁長が信玄に呼応して謀反を起こす。 織田信長、足利義昭を奉じて入京
永禄12年 1569年 40歳 降伏を願い出た本庄繁長を赦免する。
北条氏康と同盟締結(越相同盟)。
翌年、氏康の七男を養子とする。(上杉景虎)
織田信長、宣教師フロイスを謁見
信長、関所を撤廃する
元亀 1年 1570年 41歳 この頃、法号「謙信」を称す。 近江・姉川の戦い
(信長、浅井長政を破る)
土一揆各地に起こる
元亀 2年 1571年 42歳 越中に出陣。
椎名康胤の富山城など諸城を攻略。
関東にも出陣。
信長、比叡山を焼打ち
元亀 3年 1572年 43歳 北条氏康が上杉家と断交して武田信玄と同盟を結ぶ。
北条氏康を討つため関東に出陣。
利根川を挟んで武田・北条連合軍と対峙。
織田信長と誼を結ぶ。
 
天正 1年 1573年 44歳 武田信玄死去。
越中・加賀で一向一揆を討伐。
室町幕府滅ぶ
浅井・朝倉両氏滅ぶ
信長、伊勢長島の一向一揆を討つ
天正 2年 1574年 45歳 関東に出陣。
金山城、忍城、騎西城などを攻める。
 
天正 3年 1575年 46歳 織田信長に抗戦する本願寺顕如から援助を求められる。 三河・長篠の戦い
(織田軍、鉄砲隊を使用)
(武田勝頼、敗退)
天正 4年 1576年 47歳 足利義昭から上洛と京都回復を求められる。
上洛の兵を挙げ越中を平定し、さらに七尾城を包囲。
信長、安土城に入る
大砲伝来
天正 5年 1577年 48歳 七尾城を攻略。
加賀・手取川で柴田勝家率いる織田軍を撃破する。
秀吉、中国地方に出征
信長、紀伊雑賀一揆を討つ
信長、安土を楽市とする
天正 6年 1578年 49歳 関東出陣令を発した後、春日山城内にて急逝す。 毛利氏、尼子氏を滅ぼす

(参考:『歴史街道 2011年10月号』)
(参考:児玉幸多 編 『日本史年表・地図』 吉川弘文館 2003年第9版)

(平成25年9月30日 追記)


【上杉謙信公家法十六箇条】

謙信が自らを戒めるために定めた家法

一、心に物なき時は広く体泰ゆたかなり
   心に一物いちもつない時は、心が広く、身体が伸びやかになる

二、心に我儘わがままなき時は愛敬あいきょう失はず
   我儘な心を持たなければ、人は慈いつくしみ敬うやまう心を失わない

三、心に欲なき時は義理を行う
   心に欲がなければ、正しい判断に基づき行動できる

四、心に私わたくしなき時は疑ふことなし
   私心がなければ、他人への疑念は起こらない

五、心に驕おごりなき時は人を敬う
   驕り高ぶる心がなければ、人を敬うことができる

六、心に誤りなき時は人を畏おそれず
   心にやましいことがなければ、誰も畏れることはない

七、心に邪見じゃけんなき時は人を育つる
   邪よこしまな心がなければ、周囲は見習い、自然と育つ

八、心に貪むさぼりなき時は人に諂へつらうことなし
   貪欲どんよくな心がなければ、人に諂い、阿おもねることがない

九、心に怒りなき時は言葉和やわらかなり
   怒りがなければ、言葉は和らかである

十、心に堪忍かんにんある時は事を調ととの
   堪え忍べば、物事を順調に進めることができる

十一、心に曇りなき時は心静かなり
     心に曇りがなければ、穏やかでいられる

十二、心に勇いさみある時は悔やむことなし
     勇気を持って実行すれば、後悔することはない

十三、心賤いやしからざる時は願い好まず
     心に賤しさがなければ、無理な願い事をすることもない

十四、心に孝行ある時は忠節厚し
     親孝行の心があれば、主君に忠節を尽くす心も厚い

十五、心に自慢なき時は人の善を知り
     うぬぼれの心がなければ、人の善い点が良くわかる

十六、心に迷いなき時は人を咎とがめず
     心に迷いがなければ、人を咎めることもない

(参考:『歴史街道 2011年10月号』)

(平成25年10月1日 追記)


上杉謙信の墓



上杉謙信の墓
(新潟県上越市・林泉寺)





(平成13年11月17日)



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