浦上玉堂 うらかみ・ぎょくどう

延享2年(1745年)〜文政3年9月4日(1820年10月10日)


玉堂琴士の号は、中国伝来の琴の銘からつけたもので、画とともに七弦琴も得意とした。
備前国岡山藩支藩新田(鴨方)藩士として37歳の時に大目付にまで進むが、寛政6年(1794年)旅先で二子を連れて脱藩。
以後、琴を背負って各地を放浪し、晩年は京都に住んだ。
画は独学だったらしく、画作は脱藩後、特に60歳、70歳代に集中する。
内面の揺れをそのまま筆墨に託す表現は、南画史上にも類を見ない個性的な世界を作っている。


浦上玉堂春琴廟所


浦上玉堂春琴廟所
(京都市・本能寺)

右:浦上玉堂の墓
左:浦上春琴の墓



(平成19年3月16日)

浦上玉堂

延享2年(1745年)、岡山城下備中鴨方藩邸内で生まれる。
本名孝弼(たかすけ)、字は君輔(きんすけ)、通称は兵右衛門、35歳の時より自ら愛用の七弦琴の銘に因み、玉堂琴士と号す。
藩務の傍ら、琴を弾き、詩を詠し、筆を執って墨書し、酒に酔い絵を描くという文人として自適の生活を送る。
50歳の時、春琴・秋琴の二子を連れ、岡山を出奔し、諸国放浪の旅に出る。
自由人として生きる精神は日々研ぎ澄まされ、独自の境地に達し、我が国、近代絵画の頂点を極める。
晩年は京都に定住し、文政3年(1820年)没。
代表作に国宝「東雲篩雪図(とううんしせつず)故川端康成蔵」重要文化財「山雨染衣図(さんうせんいず)」等がある。

(説明板より)

本能寺



本能寺

(京都市中京区寺町通御池下る下本能寺前町522−1)





(平成19年3月16日)

本能寺

法華宗本門流の大本山で、応永22年(1415)、日隆上人によって創建された。
当初は本応寺と称していたが、永享5年(1433)、六角大宮に移転した際、本能寺と名を改め、更に天文14年(1545)、油小路蛸薬師一帯に広大な寺域を得て大伽藍を復興した。
本寺は、天正10年(1582)、織田信長明智光秀によって襲撃(本能寺の変)され、自刃したところとして世に名高いが、その折、三十余りの宿坊を構えた大伽藍は灰燼に帰した。
その後、豊臣秀吉の都市計画により、天正17年(1589)、現在の地に移転再建したが、江戸時代後期に天明・元治の大火にかかり、堂宇は悉く焼失し、現在の本堂は昭和3年(1928)に再建されたものである。
寺宝には、花園天皇宸翰、伝藤原行成筆の書巻等の貴重な逸品を蔵し、境内には、織田信長及びその側近達の供養塔、並びに江戸時代後期の南画家浦上玉堂父子の墓などがある。

京都市

(説明板より)


【七弦琴】

江戸時代に来日した中国明代の禅僧で、曹洞宗寿昌じゅしょう派の祖、東皐心越とうこうしんえつは、来日の際に七弦琴しちげんきんを持参し、その奏法と琴譜を伝えた。
七弦琴は以来、江戸の学者、文人の間に流行した。
七弦琴をよくした南画家・浦上玉堂は、水戸に立原翠軒すいけんを訪ねて心越伝来の琴を学んでいる。

(参考:水戸市教育委員会発行 『水戸の先人たち』 平成22年3月発行)

(平成29年6月20日 追記)




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