浦上春琴 うらかみ・しゅんきん

安永8年5月(1779年6月)〜弘化3年5月2日(1846年5月26日)


父に画の手ほどきを受け、父の脱藩後は共に各地を遊歴。
のちに京都に住み、頼山陽・小石元瑞ら文人墨客と交流。
精細華麗な花鳥画を得意とした。


浦上玉堂春琴廟所


浦上玉堂春琴廟所
(京都市・本能寺)

右:浦上玉堂の墓
左:浦上春琴の墓



(平成19年3月16日)

浦上春琴

安永8年(1779年)、玉堂の長男として備前に生まれる。
名は選、字は伯挙、十千(じっせん)。
父に画の手ほどきを受け、後に明清画を学び、各地を遊歴の後、京都に住す。
精細巧緻な画名は高く、頼山陽ら天下の名人と交遊。
弘化3年(1846年)没。

(説明板より)

本能寺



本能寺

(京都市中京区寺町通御池下る下本能寺前町522−1)





(平成19年3月16日)

本能寺

法華宗本門流の大本山で、応永22年(1415)、日隆上人によって創建された。
当初は本応寺と称していたが、永享5年(1433)、六角大宮に移転した際、本能寺と名を改め、更に天文14年(1545)、油小路蛸薬師一帯に広大な寺域を得て大伽藍を復興した。
本寺は、天正10年(1582)、織田信長明智光秀によって襲撃(本能寺の変)され、自刃したところとして世に名高いが、その折、三十余りの宿坊を構えた大伽藍は灰燼に帰した。
その後、豊臣秀吉の都市計画により、天正17年(1589)、現在の地に移転再建したが、江戸時代後期に天明・元治の大火にかかり、堂宇は悉く焼失し、現在の本堂は昭和3年(1928)に再建されたものである。
寺宝には、花園天皇宸翰、伝藤原行成筆の書巻等の貴重な逸品を蔵し、境内には、織田信長及びその側近達の供養塔、並びに江戸時代後期の南画家浦上玉堂父子の墓などがある。

京都市

(説明板より)



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