瓜生岩像 平成12年11月12日

瓜生岩 うりゅう・いわ

文政12年2月15日(1829年3月19日)〜明治30年(1897年)4月19日

東京都台東区 浅草寺の境内でお会いしました。


文政12年(1829年)岩代耶麻郡いわしろやまぐん(現・福島県耶麻郡)熱塩村の渡辺家に生まれましたが、9歳の時に父を失い、母は岩を連れて実家に戻りました。
このため、岩は母方の姓である瓜生氏を称しました。
14歳の時に若松(現・福島県会津若松市)の叔母に預けられ、会津藩侍医を勤める伯父の薫陶を受け、堕胎間引きの防止に関心を持ちます。
17歳で婿を迎え、若松で呉服屋を営み、一男三女をもうけましたが、早くに夫を亡くしてしまいました。
明治元年、会津戦争で孤児になった子供達の教育に尽力したほか、堕胎等の当時のさまざまな悪習を正し、明治22年(1889年)貧民孤児救済のため、私立福島救育所(救済所)を設立しました。
1891年、東京市養育幼童世話掛長に就任、福島県下三郡に育児会、喜多方町に産婆研究所を設置しました。
1893年には若松に私立済世病院を開設するなど、社会事業の推進に努めましたが、明治30年(1897年)福島で没しました。通称「瓜生岩子」。享年69歳でした。


瓜生岩子の像
瓜生岩子之像
(東京都台東区浅草・浅草寺)

明治34年4月建設
大熊氏廣製作
久野徳五郎・鋳

(平成17年1月20日再訪問)

瓜生岩子女史の銅像

台東区浅草2丁目7番

岩子は通称。
正しくは”岩”という。
文政12年(1829)2月15日、岩代耶麻いわしろやま郡(現在の福島県耶麻郡)熱塩村渡辺家に生れたが、9歳の時、父を失い、母は岩を連れて生家へ帰った。
そのため、岩は母方の姓瓜生氏を称した。
14歳の時、若松(現福島県会津若松市)の叔母に預けられ、その夫で会津藩侍医を勤める山内春瓏しゅんろうの薫陶を受け、堕胎間引の防止に関心を持つに至る。
17歳で佐瀬茂助を婿に迎え、若松で呉服屋を営み、一男三女を産んだが、早くに夫を亡くした。
明治元年会津戦争で孤児となった幼童の教育に尽力したほか、堕胎等、当時のさまざまな悪習を正し、明治22年貧民孤児救済のため福島救済所を設立するなど、社会事業の推進に努めた。
明治30年4月19日、福島で没す。
享年69。
生涯を慈善事業に捧げた岩の善行を賞揚し、同34年4月、篤志家によって、浅草寺境内にこの銅像が造立された。
台石正面には、下田歌子女史の撰文を刻む。

平成8年7月

台東区教育委員会

(説明板より)


日本のナイチンゲール

会津戦争の時、敵味方の区別なく負傷兵を看護したり、避難民の救援に尽したことから「日本のナイチンゲール」と言われた。

(平成18年7月21日追記)


【瓜生 岩】

明治維新後、上京して貧民救済事業を学び、会津での貧児養育施設や医療施設の開設に奔走する。
渋沢栄一に招かれ、東京市養育院の幼童世話掛長も務めた。
その功績が評価され、女性初の藍綬褒章らんじゅほうしょうを授与されている。
皇后陛下の御召おめしにより宮中に伺ったとき、素足、木綿の服で拝謁したという、飾らぬ人柄の女性であった。

(参考:『歴史街道 2006年7月号』)

(平成23年11月10日追記)




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