内村鑑三 うちむら・かんぞう

万延2年2月13日(1861年3月26日)~昭和5年(1930年)3月28日

※ 誕生日:文久元年(1861年)3月23日の説あり


明治・大正期のキリスト教伝道者。
高崎藩士の子として江戸で生まれた。
札幌農学校卒。
在学中に洗礼を受け、札幌独立教会の設立に尽くした。
明治17年(1884年)に渡米し、明治20年(1887年)にアマースト大学を卒業。
翌年、帰国して北越学館の教頭などを経て第一高等中学校の嘱託教員となった。
明治24年(1891年)、教育勅語奉読式での態度が不敬であると非難され依願解職。
明治30年(1897年)、「万朝報よろずちょうほう」の記者となり、日露戦争には非戦論を唱える。
足尾銅山の鉱毒反対運動にも携わり、理想団の結成に加わった。
翌年、「東京独立雑誌」を創刊、無教会主義を唱えて自宅で聖書購読会を開き、矢内原忠雄、藤井武、南原繁など有為の人材を輩出した。

(参考:『日本史人物事典』 山川出版社 2000年5月 第1版第1刷発行)



内村鑑三記念碑
(頼政神社)

(平成26年11月16日)

【記念碑囲い部分の碑文】

内村鑑三先生の生誕百年を記念し 先生の少年時代の思い出の地烏川を望むこの丘を選んで碑をたてる
先生を敬慕する全国の方々からの寄附を仰ぎ 碑面に先生の筆跡を拡大して刻む
また柳川町の内村家跡にも石標をたてた
なお内村家の墓は若松町光明寺内にある

昭和36年9月
内村鑑三建碑会

【記念碑・碑文】

内村鑑三は文久元年三月二十三日
高崎藩士内村宜之の長男として江
戸に生まれ幼少のころ高崎に移り
碓氷川烏川で魚とりなどしてふる
さとの自然に親しんだ
明治十年札幌農学校に入学水産学
を修め一時官途についたが在校中
に得たキリスト教の信仰を深める
ため渡米しアマスト大学などに学
び二十一年帰国 第一高等中学校
の教師となったが教育勅語のこと
から教壇を去りついで万朝報記者
として招かれ活躍 足尾鉱毒事件
の救済のために奔走しまた日露戦
争に際しては信仰の立場から敢然
と非戦論をとなえた
その後は聖書の研究に専念し伝道
と著述により門下に多くの人材を
育て全世界に知己を持つに至った
昭和五年三月二十八日東京柏木の
自邸に七十年の一生を終る

内村鑑三記念碑

この碑は1961年内村鑑三先生の生誕百年を迎えるにあたり、先生の金言を碑に刻み、その崇高なる人格と、その偉業を後世に伝えるため、先生の思い出の地烏川を望むこの境内を選んで建てられた。
先生を敬慕する全国の方々に募金を仰ぎ、その結果、高崎市内の全小中学校及び群馬県下全高校の生徒を含む6万人から寄付が寄せられた。
先生は、1861年3月23日、江戸小石川鳶坂上(とびざかうえ)高崎藩中屋敷の武士長屋に、御側頭取にして漢学者内村宜之の長男として生まれた。
幼少の頃高崎の柳川町に移り、碓氷川・烏川で魚とりなどをして上州の自然に親しみ、高崎藩主が創設した英学校に学ぶ。
上京して有馬私学校英学科に入学し、東京外国語学校に編入。
1877年に札幌農学校へ入学(第2期生)し、在学中に洗礼を受け、水産学を修める。
開拓使や農商務省水産課に勤務したが、キリスト教への関心から渡米、アーマスト大学などに学び1888年に帰国。
第一高等中学校の教師となったが教育勅語のことから教壇を去り、聖書の研究に専念した伝道活動と、時代を導く数々の論文を発表した著述活動を通して、多くの人材を育て全世界に知己を持つに至った。
足尾鉱毒事件救済のために奔走、日露開戦に際しての非戦論の提唱、教会の無い者のための教会という無教会論などで知られる。
1930年3月28日東京柏木の自邸にて70年の一生を終わる。
正面碑文の「上州人 上州無智亦無才 剛毅木訥易被欺 唯以正直接萬人 至誠依神期勝利」は、病床の先生を見舞った同郷(高崎市)の旧友住谷天来牧師との会話中に書いた無韻詩で、自らのことを詠んだものである。
「上州人は無智無才であり、意思が強く言葉を飾らないため人に欺かれやすい。ただ正直をもって万人に接し、まごころを尽して神による勝利を待つ」との意味であろう。
上部の碑文「I for Japan Japan for The World The World for christ and all for God」は、アーマスト時代、自身の墓碑銘のためとして愛用の聖書に書きとめたもので、「自分は日本の為に、日本は世界の為に、世界はキリストの為に、凡ては神の為に」と訳される。

この説明板は、2011年11月12日
内村鑑三生誕百五十年記念講演会での募金による

(説明板より)






 頼政神社
 (群馬県高崎市宮元町143)




(平成26年11月16日)

頼政神社

元禄8年(1695年)松平右京大夫輝貞公(大河内氏)が高崎藩主に封ぜらるや、同11年(1698年)其の祖先源三位頼政公を祀って城東石上寺境内(現在東京電力営業所のある所)に頼政神社を建てた。
宝永7年(1710年)輝貞公越後村上に転封せらるるや、社も亦其の地に移され、数年にして享保2年(1717年)高崎に再転封されるや社はまた現在地に移されたのである。
頼政公は、平安末期に、源家の正統に生まれた武将にして歌人である。
白河法皇に擢んでられて兵庫頭となり保元、平治の乱に功をたてた。
後に剃髪して世に源三位入道と称す。
後年以仁王を奉じて平氏の追討を図り事破れて治承4年(1180年)宇治平等院で自刃した。
家集『源三位頼政卿集』がある。
又、宮中で鵺ぬえを退治した話は有名である。
当社の祭礼は、例年頼政公自刃の日、5月26日に行われ旧藩時代は上野随一の祭であったと云われる。

高崎観光協会

(説明板より)




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