乾元元年(1302年)〜正平11年/延文元年11月25日(1356年12月17日)
※ 没年:正平11年/延文元年10月20日の説あり
南北朝期の武将で、南朝方として活躍。
元弘の乱では鎌倉幕府方として西上し、元弘3年(1333年)摂津国天王寺(現・大阪市)で楠木正成と対戦、のちに後醍醐ごだいご天皇方に転じた。
建武政権に従い、建武2年(1335年)足利尊氏が鎌倉で反乱すると、新田義貞と共に討伐に向かったが、竹ノ下の戦で敗北。
翌年の尊氏の京都制圧以後は天皇に近侍し、比叡山逃避・京都復帰・吉野逃避に従った。
「太平記」によれば、のち後村上天皇から東国経略を命じられたというが、明らかではない。
和歌に堪能で『新続古今和歌集』に入集。
宇都宮城主 第8代下野守正五位上 貞綱公 第9代下野守正四位左少将 公綱公 墓所 (栃木県宇都宮市・興禅寺) (平成20年7月19日) |
宇都宮貞綱・公綱の墓
境内に、宇都宮貞綱さだつな・公綱きんつなの墓といわれている五輪塔ごりんとうがある。
宇都宮貞綱(1264?〜1316)は8代宇都宮城主で、弘安4年(1281)、元軍の襲来のとき、16歳で大将軍として九州に出陣した。
晩年に出家して法名を「蓮昇れんしょう」、法号を「興禅寺」といった。
寺の名はこの法号によるものである。
宇都宮公綱(1302〜1356)は貞綱の二男で9代城主となり、鎌倉時代から南北朝の動乱期にかけて活躍した武将である。
大坂四天王寺に陣を構えた楠木正成との戦いは、宇都宮氏を中心とした東国武士の武勇を示すものとして名高い。
(説明板より)
興禅寺 (栃木県宇都宮市今泉3−5−13) (平成20年7月19日) |
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