平成20年7月19日
文永3年(1266年)〜正和5年7月25日(1316年8月13日)
栃木県宇都宮市・興禅寺でお会いしました。
興禅寺開基 宇都宮城主貞綱像 (栃木県宇都宮市・興禅寺脇) (平成20年7月19日) |
碑文
貞綱公は、弘安4年壬生・鹿沼・徳次郎・益子・上三川の諸氏を率いて蒙古軍来襲に備えて九州筑紫まで出陣。
正五位上・下野守兼三河守備後権守・宇都宮検校引付衆であり、日光山の別當職も兼ねていた。
正和元年亡母13回忌供養のため鉄塔婆を建立、又北河原に興禅寺をも建立して開基となる。
正和5年7月25日 寂。
昭和61年10月5日
靖宗 謹誌 建之
願文
野州精神を想起せよ。
かつて蒙古勢を迎え討つ援軍として出兵せる下野武士の勇猛を、今こゝに貞綱候銅像建立に際して
この「歴史」と「伝統」を誇りとし
「努力」と「精進」を祈念し
ひいては「感謝」と「強調性」に敷衍されることを願うしのであります。
昭和61年11月5日
住持 元海 謹誌
(碑文より)
宇都宮城主 第8代下野守正五位上 貞綱公 第9代下野守正四位左少将 公綱公 墓所 (栃木県宇都宮市・興禅寺) (平成20年7月19日) |
宇都宮貞綱・公綱の墓
境内に、宇都宮貞綱さだつな・公綱きんつなの墓といわれている五輪塔ごりんとうがある。
宇都宮貞綱(1264?〜1316)は8代宇都宮城主で、弘安4年(1281)、元軍の襲来のとき、16歳で大将軍として九州に出陣した。
晩年に出家して法名を「蓮昇れんしょう」、法号を「興禅寺」といった。
寺の名はこの法号によるものである。
宇都宮公綱(1302〜1356)は貞綱の二男で9代城主となり、鎌倉時代から南北朝の動乱期にかけて活躍した武将である。
大坂四天王寺に陣を構えた楠木正成との戦いは、宇都宮氏を中心とした東国武士の武勇を示すものとして名高い。
(説明板より)
興禅寺 (栃木県宇都宮市今泉3−5−13) (平成20年7月19日) |
鉄塔婆 (栃木県宇都宮市・清厳寺) (平成20年7月19日) |
国指定重要文化財
鉄塔婆てつとうば
明治44年8月9日指定
高さ 3.3メートル
幅 0.3メートル
この鉄塔婆は、鎌倉時代の正和しょうわ元年(1312)の8月に、宇都宮8代城主貞綱が亡き母の13回忌の供養のために建立したといわれる。
塔婆の上部には阿弥陀あみだを表わす梵字ぼんじと阿弥陀三尊さんぞんの浮彫りがあり下部には90字の願文がある。
我が国最古であり、かつ唯一の鋳鉄製ちゅうてつせいの大塔婆であることから当時の宇都宮氏の政治、経済的な力ばかりでなく文化的・宗教的な水準の高さを示している貴重な資料である。
(説明板より)
鉄塔婆
国指定重要文化財(昭和25年8月29日指定)
(旧国宝 明治44年8月9日指定)
高さ/約330cm 幅/約30cm 厚さ/約6.6cm 重さ/約320kg
この鉄塔婆は、鎌倉時代終わりころの正和元年(1312)、宇都宮8代城主貞綱が、亡き母の13回忌の供養のために鋳造し奉納したものである。
表面には、梵字や阿弥陀三尊、文字が浮き彫りになっている。
鉄製の塔婆は全国的に類例がなく、大変貴重なものである。
江戸時代終わりころの嘉永2年(1849)、暴風雨によって三つに折れたので、明治44年(1911)に修復した。
その後、腐食が進んだので、平成8年(1996)に保存処理を施した。
(説明板より)
清厳寺 (栃木県宇都宮市大通り5−3−14) (平成20年7月19日) |
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