宇都宮頼綱 うつのみや・よりつな

承安2年(1172年)〜正元元年11月12日(1259年12月26日)


元久2年(1205年)北条時政らが将軍・源実朝を廃そうとした事件に関与し、出家して陳謝して、実信房蓮生と号す。
以後、京都に居を構え、法然の弟子の証空しょうくうに師事する。
歌人として活躍し、多くの勅撰集に入集。
藤原定家とも親しく交流し、娘は定家の子・為家の妻となった。


蓮生法師の墓



蓮生法師の墓
(栃木県宇都宮市・清厳寺)





(平成20年7月19日)

蓮生法師の墓

宇都宮5代城主頼綱(1178〜1259)は、鎌倉幕府の御家人として重要な地位にあったが、元久2年(1205)、謀反の疑いがかけられたため、出家して蓮生れんしょうと名のった。
和歌を好んだ蓮生は、京都嵯峨野さがのの小倉山おぐらやまの麓ふもとに山荘を建て、藤原定家ふじわらのていかの息子、為家ためいえに娘を嫁がせるなど、交流を深めた。
蓮生は山荘の襖ふすまに貼る和歌をしたためた色紙を定家に頼んだ。
これが「百人一首」のもとになったといわれている。
蓮生の墓は京都の三鈷寺さんこじにあるので、ここにある墓は後世の供養塔と思われる。

(説明板より)

宇都宮5代城主頼綱と芳賀高照・高継の墓所

この頼綱が「小倉百人一首」の生みの親だったことを知る人は少ない。
鎌倉幕府の幕臣だった頼綱が27才(西暦1208年)政争に巻き込まれるのを避けて出家、法然上人の門に入り、法号を実信房蓮生と名乗った。
蓮生は和歌にすぐれ、京都二尊院近くの小倉山麓に山荘を構え当代一流の文化人といわれた藤原定家と姻戚関係を結んだ。
これが縁で嘉禎元年(西暦1235年)蓮生は山荘の障子に貼る色紙の執筆を定家に依頼、定家が色紙一枚、一枚に天智天皇以来の秀作を一首づつ書いた。
これが「小倉百人一首」の原型となり、その後、鳥羽、順徳両天皇の作品を加えて、補訂してまとめた和歌集が小倉百人一首です。
蓮生の歌は「新勅撰」「続古今」「続拾遺」などの和歌集に収められている。
多くの歌人、武将が生まれたのも蓮生の大きな功績です。
建保3年(西暦1215年)蓮生は、後の清厳寺となる念仏堂を宿郷村に草創した。
此々にある蓮生法師の墓碑の両脇に並んでいる墓は一族だった芳賀高照(兄)と高継(弟)の墓です。

(説明板より)

清厳寺



清厳寺

(栃木県宇都宮市大通り5−3−14)





(平成20年7月19日)



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