宇和島城

愛媛県宇和島市丸之内1丁目


宇和島城 平成19年11月6日

宇和島城の沿革

戦国時代高串道免城主の家藤監物が、天文15年(1546)板島丸串城に入ったというのが、板島丸串城の記録に現れた始めである。
その後、天正3年(1575)西園寺宣久の居城となったが、同13年(1585)には伊予の国が小早川隆景の所領となり持田右京が城代となった。
その後、同15年(1587)宇和郡は戸田勝隆の所領となり戸田与左衛門が城代となった。
文禄4年(1595)藤堂高虎が宇和郡7万石に封ぜられ、その本城として慶長元年(1596)築城工事を起こし、城堀を掘り、石垣を築いて、天守閣以下大小数十の矢倉を構え、同6年(1601)ごろまでかかって厳然たる城郭を築きあげた。
慶長13年(1608)高虎が今治に転封となり富田信高が入城したが、同18年(1613)に改易となったので、約1年間幕府の直轄地となり、高虎が預かり、藤堂良勝を城代とした。
慶長19年(1614)12月、仙台藩主伊達政宗の長子秀宗が宇和郡10万石に封ぜられ、翌元和元年(1615)3月に入城の後宇和島城と改めた。
それ以後、代々伊達氏の居城となり、2代宗利のとき寛文4年(1664)天守閣以下城郭全部の大修理を行い、同11年(1671)に至り完成した。
天守閣は国の重要文化財に、また城跡は史跡に指定されている。
別称鶴島城ともいう。

宇和島市教育委員会

(説明板より)

天守閣




天守閣






(平成19年11月6日)
明治の宇和島城本丸




明治の宇和島城本丸

いまは天守閣のみとなっている宇和島城本丸も明治の末ごろまでは御休憩矢倉などが残されていた。
天守閣の石垣の周囲には小さい雑木、雑草が自生し文明開化に取り残された。
そのころの古城の姿がしのばれる。

(城山郷土館・展示パネルより)


(平成19年11月6日)

宇和島城の沿革

宇和島城は、築城以来の歴史を有し、市街の中央海抜約80mの城山に白壁の総塗ごめ造り、独立式、本瓦葺、3層3階の天守をもつ。
規模は比較的小さいが、全体的に美しい均衡を保ち、荘重で江戸時代天守の典型的なものとして、昭和9年天守は国宝に指定されたが、同25年5月文化財保護法の制定により、重要文化財に指定され、城跡全体も、国の史跡に指定されている。
ここに初めて築城された年代は明らかではないが、天慶4年(941)橘遠保が宇和地方の豪族となり、嘉禎2年(1236)には、西園寺公経の所領となり、戦国時代天文15年(1546)家藤監物の居城となって、板島丸串城といわれていた。
天正3年(1575)には、西園寺宣久が居城とし、天正13年(1585)小早川隆景の所領となり、天正15年(1587)には戸田勝隆の領するところとなった。
この頃までは番城の程度にすぎなかったものと思われる。
現在の地に初めて天守が築造されたのは慶長6年(1601)ころ藤堂高虎によってであるといわれている。
文禄4年(1595)藤堂高虎が宇和郡7万石に封ぜられるに及んで初めて本城となり、慶長元年(1596)築城工事を起こし同6年(1601)ごろまでかかって、城堀をほり石垣を築き、天守以下大小の矢倉を建て、厳然たる城郭を造った。
同13年(1608)高虎が今治に転封となり同年富田信濃守信高が入城したが、まもなく改易となり、約1年間幕府の直轄地となった。
同19年(1614)には奥州仙台の藩主、伊達政宗の長子秀宗が、宇和郡10万石を賜り元和元年(1615)に入城し、それ以後伊達氏歴代の居城となった。
二代宗利の時、寛文4年(1664)から天守以下城郭の大修理を行い、同11年(1671)に至って完成した。
その後たびたび小修理が行われているが、現在の天守は寛文の時代に完成した姿をそのままに残しているものである。
廃藩後、周囲の矢倉は大部分取りのけられ、昭和20年の戦災で追手門(国宝)を焼失したので今はわずかに天守と上り立ち門を残すのみである。
昭和24年1月、城山の大部分と天守は伊達家より宇和島市に寄附され、市の管理に属した。
同35年10月天守は国の文化財保護委員会(現文化庁)の許可を得、同委員会の指導監督の下に、解体修理を行い、同37年10月をもって、新装のすがたを復元したのである。
宇和島城山は市街の中央に位置し、面積およそ1024アール、周囲1249メートルの独立した山である。
南国濶葉樹を主とした自然林として長い歴史を秘める城山は、クスノキ、コガノキ、クロガネモチ、ムクノキ、イヌマキなどの巨木、ウバメガシ、カカツガユなどの老木の間に蔓生植物が盛んに成長して生存競争のすがたを現出し、樹下には、ノシラン、ヤブミョウガ、ハナミョウガ、オニブソテツなどの群生が見られる。
自然に生育し、自然のまま保護された城山の植物は多科多種にのぼる。

(リーフレットより)

天守閣内部
天守閣から見た景色
一の門跡




一之門跡
(櫛形門)





(平成19年11月6日)
御大所跡




御大所跡(御台所)
(本丸)




(平成19年11月6日)
鉄砲矢倉跡




鉄砲矢倉跡

(本丸)




(平成19年11月6日)
二の丸跡




二之丸跡






(平成19年11月6日)

二之丸跡

面積:約680u
標高:約68m
石垣:総延長約75m 高さ約4m
構造物:御算用矢倉・二之門・木戸・塀庇・土塀

天守が建つ本丸の最終防衛施設としてその目前に置かれ、眼下の雷門かみなりもん周辺に侵攻した敵を攻撃するために築かれていた曲輪くるわで帯曲輪おびくるわと連結しています。

■調査の結果
絵図の姿と現在を比較すると、前面へ拡張されて天端てんぱ(石垣最上面)は出入りのない直線的なラインとなり、周縁に不定形な犬走いぬばしりができています。
この改修が行われた時期は、幕末と推定されます。
二之門にのもんは、門の礎石の一部が残ってはいるものの門が想定される場所は現在石段になっており、この改変が幕末なのか明治以降なのかは分かっていません。
御算用矢倉ごさんようやぐらや塀庇へいひさしは、絵図と現存する礎石とがほぼ一致しましたが、これらについても幕末に改修・修理されていました。
二之丸における幕末の改修・修理は、複数回行われたようで、これには安政2(1854)年に起こった大地震も関連していると考えられます。

■石垣修復の内容
石垣修復は痛みのひどい4箇所と、モルタルにより改修されていた1箇所の約140u(立面積)の範囲で行いました。
損傷の一番の要因は、地盤にありました。
根石ねいし(最下段の石)が硬さの違う岩盤がんばんや柔らかい盛土もりつち上にすえられており、この不均一さが根石の不同沈下をまねき、石垣全体へのずれや孕はらみにつながっていたのです。
また盛土箇所は元々谷状地形で、自然の水道(みずみち)となっていることも確認しました。
この問題を克服するために、地盤のもろい箇所を三和土さんわど(土・石灰・塩)で改良し、裏込栗石うらごめぐりいしを厚くするなどして修復しました。

(説明板より)

絵図 (説明板より)

御算用矢倉跡



御算用矢倉跡
(二之丸)





(平成19年11月6日)
三之門跡




三之門跡






(平成19年11月6日)

 (平成19年11月6日)

雷門跡




雷門跡






(平成19年11月6日)
長門丸跡




長門丸跡






(平成19年11月6日)
式部丸跡




式部丸跡






(平成19年11月6日)
井戸丸跡




井戸丸跡






(平成19年11月6日)

宇和島城の井戸

この井戸は、現在の城山に残る三つの井戸のうち、最も重要視せられたものである。
ここを井戸丸といい、井戸丸御門、井戸丸矢倉などがあって、有事の時のため、厳重に管理せられていたと推量せられる。
井戸の直径2.4メートル、周囲8.5メートル、深さ約11メートルである。
ここは城山の北側の谷の中腹、三の丸からの登り道に当たり、数少ない城山の遺構の一つである。

宇和島市教育委員会

(説明板より)


城山郷土館


宇和島市立 城山郷土館(山里倉庫)

入館無料
午前9時〜午後4時
休館日:月曜日、12月29日〜翌年1月3日
      月曜日が国民の祝日の場合はその翌日


(平成19年11月6日)

山里倉庫やまさとそうこ(郷土館)

旧所在地:丸之内一区
建造年代:弘化2年(1845年)
構造形式:木造切妻造り
面積:228.805平方メートル(69.21坪)
解体移築:昭和42年8月

この建物は旧幕時代宇和島城内の調練場(現宇和島郵便局)の一廓にあり、武器庫に使用されていた。
間口29.48m(16.20間)奥行6.097m(3.35間)で伊達家8代藩主宗城(むねなり)の時代に建造された。
昭和41年伊達家から宇和島市に譲渡されたので、旧城内唯一の遺構であり、原型を保存して史的意義と由緒にちなみ郷土館に転用した。
往昔の宇和島を研究する貴重な資料、民具類を展示しているが、宇和島に現存する唯一の歴史的建物である。

宇和島市
宇和島市観光協会

(説明板より)

郷土館の内部
焼失前の追手門


焼失前の追手門


丸之内側から眺めた追手門。
この門は昭和9年(1934)国宝に指定されたが、昭和20年(1945)7月の空襲で惜しくも焼失した。
焼けあとの石垣は、戦後区画整理のため取り除かれたがそのうちの一基の大石が国宝追手門旧跡の碑として現地に残されている。

(展示パネルより)

(平成19年11月6日)
豊後橋



豊後橋


宇和島東高校正門より東へ約100メートルほどの道路付近。
城山側に見えるのは搦手門。
明治41〜42年(1908〜1909)ごろ取り壊した当時の写真。

(展示パネルより)



(平成19年11月6日)
内港黒門矢倉



内港黒門矢倉


明治25年(1892)頃の撮影。
日清戦争の頃には運輸会社の仮事務所などに使用され、報国議会もこの建物の中にあった。

(展示パネル説明より)



(平成19年11月6日)
宇和島城模型




宇和島城模型






(平成19年11月6日)

宇和島城遠景 宇和島城遠景


宇和島城上り立ち門



宇和島城上のぼり立ち門
(宇和島城ふもと)





(平成19年11月6日)

市指定 有形文化財
宇和島城上り立ち門

この門は、宇和島城にあった多くの城門の一つであって、搦手からめて口から城へ登る上り口に位置している。
規模は大きくないが、建築様式は薬医門やくいもん形式の切妻きりづま、本瓦葺であって、丸瓦先端には、伊達家の紋章の一つである九曜くようの紋がついている。
建造年代は明らかでないが、城郭じょうかく全体の大修築が行われた寛文年間(1661〜1672)と推定される。
諸矢倉・追手門・搦手門などの失われた今日において、この門は天守閣とともに、宇和島城の大切な遺構である。

昭和38年2月11日 指定
宇和島市教育委員会

(説明板より)


藩老桑折氏武家長屋門



藩老桑折氏武家長屋門
(宇和島城ふもと)





(平成19年11月6日)

市指定 有形文化財
藩老桑折こおり氏武家長屋門

この門は、現在の中央町1丁目(現桑折医院)にあった宇和島藩の家老桑折氏の長屋門を、昭和27年にここに移したものである。
その際、向って左方の長屋の大部分を切り取ったので、現在ではかなりその原形を失っているが、なお往時の壮大な規模と構造の特徴を知ることができる。
門の向って右の部屋は、もとの厩うまやで、左の長屋には門番と家付きの使用人をはじめ、中間ちゅうげん、小者こものが居住していたものである。
建築年代は確かなことはわからないが、江戸中期と推定される。

昭和38年2月11日指定
宇和島市教育委員会

(説明板より)


かずら石

かずら石
(愛媛県宇和島市・天赦園)

この前に置かれた石は、国宝追手門(現在の本町追手にあった。戦災によって焼失)の周辺にあった物を移したと伝えられています。

(説明板より)


(平成19年11月6日)
天赦園



天赦園てんしゃえん
(愛媛県宇和島市御殿町)





(平成19年11月6日)

国指定名勝
天赦園

当園は宇和島城の西南部に接する旧浜御殿の敷地の一部である。
第7代宇和島藩主伊達宗紀むねただ(号春山)退隠の居所として文久2年潜淵館を建築し翌年造園の工を起して3年の歳月を経て慶応2年(1866)に築造されたものである。
園名は初代藩主伊達秀宗の父伊達政宗(仙台藩主)の酔余口号と題した漢詩
  馬上少年過  馬上に少年過ぐ
  世平白髪多  世は平かにして白髪多し
  残躯天所赦  残躯は天の赦す所
  不楽是如何  楽しまずして是如何せん
の一節による。
庭園の地割の主体は広い池で、岬、入江、曲浦など屈曲の多い汀線で囲まれ池心に一小島を配し池辺の護岸の重厚な石組には多くの和泉砂岩の海石を用い園の周囲は、マツ、クス、カシ等の常緑樹によって外部を遮蔽し園内には各種の暖温帯性樹木が多数植栽されている。
特に家系並びに家紋に因んだフジとタケは種類が多く独特の風致をつくり出している。
作庭の年代は比較的新しいが意匠技法に見るべきものがあり、この種回遊式庭園として優秀なものである。

昭和43年5月20日 名勝指定
伊達家

(説明板より)


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