ウォーナー像 平成16年5月30日

ウォーナー Lungdon Warner

1881年〜1955年

茨城県北茨城市大津町五浦の茨城大学五浦美術文化研究所でお会いしました。


アメリカ合衆国マサチューセッツ州で生まれる。
ハーバード大学卒。
1907年に初めて来日し、岡倉天心のもとで横山大観などと一緒に2年間日本美術を学びました。
その後、ボストン美術館、クリーブランド美術館を経てフィラデルフィア美術館長となりました。
1923年から母校のハーバード大学の教壇に立ち、のちにハーバード大学附属美術館の東洋部長に就任しました。
1931年の二度目の来日では奈良で仏教彫刻などを学んでいます。


ウォーナー像と覆堂


ウォーナー像と覆堂

(茨城大学五浦文化研究所敷地内)




(平成16年5月30日)

碑文

ウォーナー先生こそ国境を越えて真に美術を愛好した人である。
氏は北米新英蘭の人で明治40年に日本に来り岡倉天心に師事したこの五浦に住むこと3年 のち奈良に遊学して日本美術に関する諸書を著す。
歸国後ハーバード大學にて日本美術を講ずること久しかったが 遇ゝ第二次世界大戦に於いて日本軍利あらず 京都奈良を初め我国文化財の爆撃を 身をていして阻止されたことは 吾人の記憶になほ鮮かである。
西暦1955年6月9日ケンブリッヂに於いて先生逝去 満73歳。

(平成18年10月22日追記)

ウォーナー像および覆堂

天心の教えを受けた美術史家ラングドン・ウォーナーは第二次世界大戦中、爆撃対象から奈良、京都などの日本の都市を外す文化財リストをアメリカ政府に提出したとされる。
その功績を称えようと日立製作所から胸像建設の計画が起こり、各方面からの寄付によって、昭和45年3月ウォーナー博士功績顕彰会がこれを建設した。
肖像は平櫛田中が製作、美術史家矢代幸雄が台座の賛文を草した。
覆堂は、天心ゆかりの日本の文化財の象徴として、法隆寺夢殿を模して設計されている。

(説明板より)


レリーフ



レリーフ

(神奈川県鎌倉市・鎌倉駅西口前の公園)





(平成18年9月24日)
記念碑





記念碑
(神奈川県鎌倉市・鎌倉駅西口前の公園)







(平成18年9月24日)

碑文

文化は戦争に優先する

ラングドン・ウォーナー(米国)1881〜1955

博士は夙に日本古美術および文化を研鑽し造詣すこぶる深かった。
太平洋戦争の勃発に際し氏は、日本の三古都をはじめ全土にわたる芸術的歴史的建造物には、決して戦禍の及ばぬよう強く訴えた。
そして日本の多くの文化財は爆撃を免れた博士の主張の成果というべきであろう。
われら鎌倉を愛する有志相計り、古都保存法制定20周年を機として、ウォーナー博士が歴史と文化の保護に示した強靭な意志を永く伝え学ぶため記念碑を建てる。

1987年4月
ウォーナー博士の記念碑を建てる会


ウォーナー伝説

第二次世界大戦中、京都や奈良が爆撃の目標から外されたのは、ウォーナーが日本の文化財のリスト(いわゆる『ウォーナー・リスト』)を米国政府に提出し、爆撃目標から除外するよう進言したおかげであるというのが通説とされてきました。
しかし、現実には『ウォーナー・リスト』に載っている15の城(弘前城青葉城大垣城名古屋城・桃山城・大坂城福山城岡山城・姫路城・広島城松山城・高知城・宇和島城熊本城・首里城)のうち8つの城が爆撃で焼失していることから、彼のリストは爆撃目標の除外に何ら影響を与えていないという話があります。
更に京都が大掛かりに爆撃されなかったのは、原爆の投下目標であったためであり、奈良は爆撃目標都市の順位が低かったからであり、彼は『日本の文化財を救った恩人』でもなんでもなく、あれは単なる作り話であり伝説であるというものですが・・・・
さて、どちらの説が本当なのか・・・・
ちなみに彼自身は生前、『文化財を救った』ことを否定していたといいます。


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