和田英 わだ・えい

安政4年8月21日(1857年10月8日)〜昭和4年(1929年)9月26日


旧姓横田。
信濃国松代藩士・横田数馬の次女。
明治6年(1873年)開業まもない官営富岡製糸場に入場、一等工女となる。
翌年郷里に戻り、創立された西条村製糸場六工社などで器械製糸技術の指導に尽力した。
後年、その体験を『富岡日記』とよばれる回想記に残した。


和田英の墓



和田英の墓
(長野県長野市松代町・蓮乗寺)





(平成20年10月27日)

和田英(旧姓 横田英)

「富岡日記」著者 松代町代官町
安政4年(1857)〜昭和4年(1929)
享年72歳 菩提寺・蓮乗寺

松代藩士・横田数馬の家に生まれる。
17歳の時、松代副区長だった父の勧めで、伝習工女として富岡製糸場で器械製糸技術を習得。
帰郷後、日本初の民間蒸気器機製糸場・埴科郡西条村の六工社の教師となり、技術指導に当たる。
修業当時に記した「富岡日記」は、明治の先進的女性の記録として知られている。

(説明板より)

蓮乗寺



蓮乗寺
(長野県長野市松代町松代御安町1142)





(平成20年10月27日)

旧横田家住宅



旧横田家住宅

(長野県長野市松代町松代1434−1)





(平成20年10月27日)

重要文化財 旧横田家住宅

主屋・表門・隠居室・土蔵二棟
昭和61年1月22日指定

旧松代藩士横田家は、禄高150石の中級武士で郡奉行などを努めた家である。
最後の甚五左衛門は表御用人であった。
この住宅は他の藩士宅と同様、一種の公舎で、横田家が現在地に移った時期は18世紀末である。
主屋は、寛政6年(1794年)表門は天保13年(1842年)に建てられた。
隠居屋は、文政3年(1820年)頃移築されたものと推定される。
屋敷地は、間口約40メートル(22間余)面積3340、82平方メートル(約1012坪)道に面して表門、奥に主屋、主屋の東隣りの隠居屋、主屋南西に土蔵が建つ。
この屋敷構えは江戸時代末期の様相を伝え、当時の位置に屋敷地及び建物がほぼ完全に保存されている点で貴重である。
なお、横田家から出た季雄は大審院長に、その子正俊は最高裁長官になり、二代続いて裁判官の最高の地位についた。
そのほか、季雄の弟謙治郎(小松)は鉄道大臣となり、姉の和田英は「富岡日記」の著者として有名で、多くの秀才を生んだ家である。

平成4年3月
長野市教育委員会

(説明板より)


六工社跡



六工社跡
(長野県長野市松代町西条)





(平成20年10月27日)
西条六工社製糸場の跡


フランス式改良民間蒸気機械製糸発祥之地
西条六工社製糸場之跡
(長野県長野市松代町西条)





(平成20年10月27日)

六工社ろっこうしゃ案内

明治維新以来、松代地域の疲弊した経済の救済と繁栄を図ろうと、大里忠一郎等は同志数名と共に謀りこの地方に適した産業として当時輸出産業第一位の製糸業に着眼し、製糸場の設置を計画した。
そして国内唯一の官営富岡製糸場(群馬県)にならい、明治6年(1873年)2月民間蒸気製糸場の建設を始めた。
横田数馬の助力を得、同志9名が資本金2千円を拠出、約千円を他より借入、銅製蒸気釜の考案など苦心しつつ操糸場、釜場、水車、工女部屋、薪置場、用水池、帳場炊所、浴室等を備えた「六工社」をこの地(西条六工ろっく)に創設した。
社長に春山喜平次、副社長に大里忠一郎が就任し、工女50人操りの規模であった。
明治6年3月、富岡製糸場へ伝習のため派遣された横田英他15名が帰るのを待って、明治7年8月25日に「大日本帝国民間蒸気器械の元祖六工社」(和田英・旧姓横田「富岡日記」)が創業を開始した。
六工社は、わが国民間フランス式改良日本型蒸気製糸場の創始であり、「六工社生糸きいと」の名は国際的にも知れわたった。

松代史跡文化財開発委員会

(説明板より)




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