和田豊治 わだ・とよじ

文久元年11月18日(1861年12月19日)〜大正13年(1924年)3月4日






和田豊治生誕の地
(大分県中津市北門552・和田公園)




(平成23年2月10日)

【大実業家 和田豊治】

中津藩お鷹部屋和田薫六の長男。
近くの家塾で漢学習字を学び、15才の頃藩医村上田長の書生となって独学し、後田長の勧めで藩の奨学金を受けて上京。
慶応義塾に入り、同郷の先輩中上川彦次郎、朝吹英二などの後を継いで米国に渡り、新知識や技術を学び、特に紡績工業に注目し、感銘を受けて帰国した。
大会社の要職を経て、富士紡に入り、異常な熱意と努力によって、経営不振の会社を立て直し、紡績の町静岡県小山町では大恩人として尊敬されている。
大正5年(1916年)中津の青少年育成のため「和田奨学金」をつくったのは、その愛郷心の現れからで、その恩恵を受けた社会人は三百名をこえている。

中津市
中津の郷土史を語る会

(説明板より)





和田豊治翁頌徳碑
(和田公園)




(平成23年2月10日)

【碑文】

和田豊治君碑

和田豊治君ハ中津藩士和田薫六ノ長男ニシテ母ハ間田氏幸子文久元年十一月十八日中津■鷹部屋町ニ生ル明治十五年郷校ヲ出■■慶応義塾ニ入リ十八年米國ニ渡航二十四年■■■三井銀行鐘淵紡績ヲ経テ三十四年當時悲境富士紡績會社ヲ■■スルヤ身ヲ以テ■メ■■苦心惨憺積弊ヲ革メテ面目ヲ一新シ爾後幾多ノ更張併合ヲ経テ東洋有數ノ規模ヲ■成スルニ至リ君ノ聲望天下ニ普ク新ニ事業ヲ起サントスル者先ヲ争ウテ君ノ門ニ■キ銀行電力科學工業對支事業育英公共事業等■助■■依ルモノ百有餘ニ達シ君ノ行ウ所■■■■■風生ズルノ観アリ
朝廷其ノ功績ヲ認メ■明治四十四年藍授褒章ヲ賜ヒ大正十一年貴族院議員ニ勅撰ス其頃君ハ更ニ興業銀行南満洲鐵道會社ノ各総裁ニ推サレタルモ■之ヲ辞ス大正十二年関東大震災ノ起ルヤ選バレテ帝都復興審議會委員トナリ夙夜精勵帝都ノ復興ニ努メ■■其間病ヲ獲臥床中猶畫策指導怠ラザリキ病革マルヤ特旨ヲ以テ従五位勲三等ニ叙セラレ大正十三年三月四日■ニ■逝ス享年六十有四時人大ニ傷■テ國家ノ損失トナシ■
君資性英明豁達而モ細心謹密人ト交ルニ懇切公ニ奉ズルコト甚ダ厚ク大ニ後進ヲ■■■君ガ育英ノ資ニ依リテ世ニ出■ル者■々多■■加ヘツツアリ又母ニ侍シテ孝養■タザルナク君ノ遺産ヲ割■テ公益慈善ニ寄與セル財團法人和田薫幸會ノ如■蓋シ父母ノ名ヲ■ハザン■スル君ノ遺志ニ■■モノナリ今友人門生相謀リ生誕ノ地ヲトシ碑ヲ建テ園ヲ造リ君ノ勲業を永遠ニ傳フルト共ニ後進子弟ノ教化鍛錬に資ス洵ニ■以アルナリ予君ト同門舊識タリ
茲ニ君ノ略歴ヲ書シ以テ記トナス

 紀元二千六百年 枢密顧問官竹越輿三郎撰
 昭和十五年十月 荻本清蔵書





「和田豊治翁誕生地」碑

(和田公園)




(平成23年2月10日)

和田豊治

父親は薫六、家禄は11石の下級武士、家格は二人扶持であった。
母親は幸子、中津藩士・間田彦兵衛の長女。
幼少時、漢学を大久保麑山げいざん(俳優・大河内伝次郎の祖父にあたる)に学んだ。
15才の時、医師・村上田長の家に寄宿し、薬局の手伝いをしながら、中津市学校に通学した。
田長は豊治の優れた才気に注目し、京都で中外電報という日刊新聞を発行していた浜岡光哲に頼んで毎月10円の援助をしてもらうように手配した。
浜岡からの援助が2年にもなったため、田長は奥平藩の育英機関である中津開運社と交渉し、豊治の東京留学が持続できるように骨を折った。
豊治は田長の影響もあり、医師になるべく大学南校(現:東京大学医学部)を受験するも不合格となる。
明治14年(1881年)、慶應義塾に入学し、明治17年(1884年)に卒業した。
明治18年(1885年)、同期の武藤山治、桑原虎治とともに米国に渡航。
煙草の製造所で労働したり、中津出身の甲斐織衛の経営する甲斐商会のサンフランシスコ支店で大いに鍛えられ、累進して支店長となる。
明治24年(1891年)、アメリカの最新知識と語学力を携えて帰国。
同期の楠本武俊の斡旋で日本郵船に入社し、神戸支店に勤務した。
明治25年(1892年)、中津出身の先輩である中上川彦次郎の推薦で三井銀行に入社、やがて横浜支店の副支配人となる。
明治26年(1893年)、鐘淵紡績の支配人となり、その後、三井呉服店(三越百貨店)に入社。
明治33年(1900年)、三井呉服店嘱託の身分のまま、欧米に渡航し、海外の紡績事情を調査して翌年帰国して富士紡に入社した。
当時の紡績業界は日清戦争のために未曾有の不況に直面していたが、豊治は見事な経営手腕で富士紡を立て直していった。
豊治の名声はこの再建事業の成功で四方に広がるようになる。
明治44年(1911年)、九州水力電気株式会社の創立に努力。
大日本紡績連合会を代表してアレキサンドリアで開催された万国紡績連合会に列席し、欧州の紡績および水力電気事業を視察して帰国。
その後の豊治は多忙を極める。
大正2年(1913年)、東京商業会議所特別議員
大正5年(1916年)、富士瓦斯紡績株式会社社長
大正7年(1918年)、津久見に大分セメント株式会社を創設。
その後、財政調査会、産業調査会、米穀委員会、教育評議の委員などの政府委員を歴任。
大正11年(1922年)、貴族議員となる。
大正12年(1923年)、関東大震災が起こり、帝都復興審議会委員となって復興にあたった豊治は、健康を害し、胃潰瘍(おそらく胃癌)となった。
大正13年(1924年)、東京帝国大学病院塩田外科にて手術を受けるも、そのまま帰らぬ人となる。
享年64歳。

豊治は、かつて井上準之助蔵相が「友をもつなら和田を持て」と言ったほど多くの友人達から尊敬され信用されていた。
徳富蘇峰は「一種の高尚なる気品なるものありて茲に花も実もある実業家が出てくる。吾人は和田豊治氏の死を世人が惜しむの偶然ならざるを見る」と彼の奉仕精神を絶賛している。
豊治の中津における社会奉仕の一つに和田奨学金(薫幸会)がある。
この奨学金は大正10年7500円、大正12年8000円、死後20万円と積み立てられ、今なお中津市奨学金として市の教育委員会が管理し、現在も脈々と受け継がれている。

(参考:川嶌眞人著『中津藩蘭学の光芒〜豊前中津医学史散歩〜』 西日本臨床医学研究所発行 平成13年 第1刷)




 トップページに戻る   人物と史跡のリストに戻る

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送