急速防潜網敷設艦 若鷹 わかたか


軍艦若鷹戦没者慰霊碑



軍艦若鷹 戦没者慰霊碑
(長崎県佐世保市・佐世保東山海軍墓地

元軍医長 永田鐵二謹書



(平成20年11月23日)

慰霊のことば

軍艦若鷹
(千六百噸急速防潜網敷設艦)は昭和16年11月30日兵庫県播磨造船所にて竣工
大東亜戦争開戦劈頭より第3艦隊第2根拠地隊として菲島リンガエン湾敵前上陸部隊護衛嚮導艦を皮切りに蘭印各地攻略戦に参加
第一段作戦終るや外南洋部隊第8根拠地隊となりラバウル防衛ソロモン群島防衛部隊指揮艦としてブーゲンビル島に進出
ガ島争奪戦の最前線基地確保麾下艦艇を指揮して活躍
18年初頭より西部ニューギニア防衛の大任につき戦勢悪化せるなか よく其の任を果し 若鷹に護衛さるれば安心との声を聞く程であった
然し其の陰には祖国を出師以来4年有余月一度も内地へ帰還せず 酷暑悪疫食糧の欠乏に苦しみながら戦闘航海10余万里
再度に亘る敵潜の雷撃敵機との海空戦にて幾多尽忠の戦友を水漬く屍と失ひました
茲に於て軍艦若葉の輝く戦歴を後世に記念し 今日の日本繁栄の礎となられた戦友を永く顕彰する為 御芳名を刻み慰霊碑を建立す
英霊よ 安らかに 眠り 給え

軍艦若鷹戦友会
会長 軍医長 永田鐵二
他 会員一同

平成2年5月21日

(碑文より)

軍艦若葉戦没者名

鈴木重雄
浦辺文一郎
和多英俊
清水 守
斎藤泰蔵
上野 勝
山口小市
田中義一
武田 茂
竹重 薫
溝辺 通夫
松隈正蔵
山口 守
安藤 登
古石一夫
氏名階級不詳1名
(順不同)

(碑文より)

軍艦若鷹戦没者慰霊碑

急速防潜網敷設艦
昭和16年11月30日兵庫県播磨造船所にて竣工
基準排水量:1600トン
備砲:8センチ単装高角砲×2
    25ミリ連装機銃×2
    13ミリ単装機銃×2
乗組員:准士官以上16名、下士官兵200名
九三式機雷×100または防潜網24組
準同型艦:初鷹、蒼鷹

大東亜戦争開戦劈頭より第3艦隊第2根拠地隊に所属して、比島リンガエン湾敵前上陸部隊護衛嚮導艦を皮切りに、蘭印タラカン、バリックパパン、スラバヤ攻略作戦、クマイ捕虜収容、小スンダ列島かん定作戦に参加。
昭和17年8月、外南洋部隊第8根拠地隊所属となり、ラバウル湾口水中聴音器設置作戦を始め、ソロモン群島防備部隊旗艦となって、ブーゲンビル島に進出。
ガダルカナル島争奪戦の最前線基地確保の為に防潜網設置、哨戒、船団護衛に活躍。
昭和18年初頭より第2南遣艦隊第25特別根拠地隊所属となり、西部ニューギニア防衛の大任に就く。
船団護衛、人員物資の輸送にと東奔西走し、1隻も護衛した船団を失わず、「若鷹」に護衛されれば安心との声を聞くほどだった。
昭和19年10月17日と昭和20年3月27日の再度に亘る敵潜の雷撃で、艦首の1/3を失い、副長、機関長、航海長を始め多数の勇士を失う。
8月16日にスラバヤ出撃という日に終戦となった。
残存乗組員は、艦を捨てブジョンの山中に立て籠もり、捲土重来を期すべく先発隊を出発させたところへ、聖旨伝達を受け、連合軍の命令に従い水路嚮導、人員物資輸送に携わる。
終戦6ヶ月後故国に帰還。
その後引揚げ輸送艦となり、昭和21年7月、英国に引き渡された。
慰霊碑は平成2年5月1日建立

(参考:社団法人 佐世保東山海軍墓地保存会発行 『佐世保東山海軍墓地 墓碑誌』 平成20年第3刷)


急設網艦
港湾防備のため、長さ100m、幅35mの防潜網を何枚も張る軍艦を日本は世界で最初に建造した。
防潜網には、細長い九六式機雷(昭和11年採用)が1枚につき3個付けられており、敵潜水艦が逃れようともがけば爆発するように工夫されていた。
急設網艦は敷設艦の弟分にあたるもので、敷設艦よりは小型のものが多かった。
また、後甲板が広くて邪魔ものがないのは、網を艦尾から投下するさい、引っかからぬためである。
急設網艦は必要の場合、敷設艦としても使用できるようデザインされていた。
これら急設網艦のおかげで、太平洋戦争中、敵潜水艦がラバウルやトラック島、パラオ、マニラなどの泊地へ侵入してくるようなことはなかった。

初鷹型
「初鷹」「蒼鷹あおたか」「若鷹」の3隻
1600トン、6000馬力、20ノット
「若鷹」のみが8センチ高角砲2門を装備
他は英ビッカース式40mm機関砲(1分間200発発射可能)が4門
防潜網6カイリ分(合計24組)

若鷹
はじめ、フィリピン、スマトラ方面の根拠地隊に属した。
昭和17年8月、ラバウルの第8根拠地隊に入る。
昭和19年にはアンボン、スラバヤ方面に復帰。
2度被雷し、スラバヤで修理。
終戦後、インドネシア独立暴動が起こり、「北海丸」が炎上したが、「若鷹」は消防隊を送って消火に協力した。

(参考:『日本兵器総集』 月刊雑誌「丸」別冊 昭和52年発行)


【機雷】

日本海軍は、日米開戦時に、触角式機雷29,250個を貯蔵し、他に港湾防備の防潜網用機雷、管制機雷、潜水艦用機雷を保有していた。
主力の触角機雷は昭和9年に制式化された九三式鉛錘係維機雷で、直径、高さは共に86センチ、重量700キロ、炸薬100キロで、係維索の最大全長は1,000メートル、最大敷設深度72メートル、最大海深度は1,072メートル。
深度72メートルでは下を潜って入る潜水艦が出そうだが、実用潜航深度は50メートル程度だから、一応十分といえようし、機雷の缶体の外殻を厚くすれば、100メートルぐらいまでの水圧に耐えるのは可能だった。
水上艦もしくは潜水艦が4〜9本ある触角に触れると、起爆薬が爆発し、缶体の中の炸薬に引火する仕組みで、基本は日露戦争期と変わらず、連合国やドイツが開発した磁気機雷、音響機雷、水圧機雷などの感応式に比べると、一時代遅れていた。

開戦初頭に敷設艦や潜水艦でシンガポール港外やアナンバス群島付近、フィリピンのサンベルナルディノ、スリガオ両海峡などに機雷を敷設したが、いずれも水上艦を狙ったもので、規模が小さかったせいもあって効果は不明のまま終わった。
昭和17年後半に入って、米潜水艦の動きが活発化したので、本土東岸の沿岸航路を防衛するため対潜機雷堰の設置に着手したが、作業ピッチは遅く、昭和18年中期以降、米潜水艦の通商破壊戦が手の付けられぬ惨状を呈するに至り、ようやく対潜戦術と船団護衛の強化に乗り出した。
この任務に専念するため、昭和18年11月に連合艦隊と同格の海上護衛総司令部が新設され、緊急対策の一環として機雷堰の建設も含まれていた。

ところが、海上護衛総司令部作戦参謀の大井篤大佐が軍令部に交渉しても、機雷は対ソ戦に備えて備蓄する必要があると反対され、すったもんだの末、やっと昭和19年に入って東支那海への敷設作業がスタートした。
この機雷堰は半年かけて計1万2千個の九三式機雷を大陸棚の縁に沿って並べるもので、総延長は400キロに達した。
しかし時すでに遅く、台湾より南方には手を付ける余裕がなく、米潜の侵入を食い止めることはできなかったが、それでも多少の効果はあった。
判明しているだけでも8隻以上の米潜水艦が三陸沖などの機雷に引っかかり未帰還となっている。

敷設艦は「常磐」(9,240トン)、「沖島」(4,470トン)、「八重山」(1,135トン)など10隻ちかくあった。
九三式機雷の寿命は索切れなどで半年〜1年程度で、しかも敵潜が触角に触れない限り爆発してくれない原始的兵器だった。
威力を高めるには磁気機雷などの感応式に切り換えていく必要があった。
磁気機雷だと近くを潜水艦が通過するだけで作動するから、威圧度は飛躍的に向上し、必要数量も少なくて済む。
日本海軍は大正末期から磁気機雷の研究に着手はしていたが、兵器化できず、昭和17年秋にドイツから供給された磁気機雷をコピーして三式機雷を製造した。
この機雷は実戦には使っていないが、その気になれば緒戦期に間に合ったと思われる。

(参考:秦 郁彦 著 「絶対不敗態勢は可能だったか」・『歴史と人物 実録日本陸海軍の戦い』所収 中央公論社 昭和60年8月発行)

(令和2年10月14日 追記)




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