平成18年4月15日
明治18年(1885年)8月24日〜昭和3年(1928年)9月17日
静岡県沼津市・沼津市若山牧水記念館でお会いしました。
本名は若山繁。
宮崎県出身。
早稲田大学卒。
明治38年(1905年)尾上柴舟さいしゅうの車前草しゃぜんそう社に参加。
明治41年(1908年)歌集『海の声』出版、清新な歌風を示す。
明治43年(1910年)第3歌集『別離』により、前田夕暮ゆうぐれと共に自然主義歌人として注目される。
大正9年(1920年)沼津に移り田園生活を送る。
昭和元年(1926年)雑誌『詩歌時代』創刊。
中期の暗く思索的な作風を経て、後期は流麗な牧水調に深みを増した。
旅と酒を愛した歌人として知られる。
昭和3年、肥大性肝硬変のため沼津千本松の自宅で没。44歳。
牧水像 (沼津市若山牧水記念館) 西常雄 作 (平成18年4月15日) |
若山牧水 (展示写真より) (平成18年4月15日) |
生誕から東京時代まで(1885〜1920)
牧水は本名繁、明治18年(1885年)8月24日、若山立蔵りゅうぞうの長男として現在の宮崎県東臼杵うすき郡東郷町大字坪谷つぼや三番地に生まれた。
坪谷は埼玉県生れの祖父健海がすっかり魅了されて永住するに至ったほど自然に恵まれ、いかにも牧水の故郷にふさわしい渓谷の村である。
祖父の業をついだ父は、医師としての腕は確かながら、酒にまったく目のない好人物だった。
そのため家運が衰え、一時隣村西郷村田代に移り、牧水はそこで小学校に入った。
秋には再び坪谷に帰り、村の小学校に転校した。
牧水は高等小学校と中学時代の8年間を城下町延岡で過ごしている。
そこで教師や友人にも恵まれ天与の文学的才能を伸ばす。
進学については身内の希望する医学へ進まず、文学に志し早稲田大学文学科高等予科から本科英文学科に進む。
学生時代に熱烈な恋愛に苦しみながら勉学、初めの志望だった小説家を諦め、歌壇の新人として頭角を現わし、卒業し結婚してからは専ら歌人として清貧の生活を続ける。
(展示パネルより)
最後の旅姿(千本松原にて昭和3年5月) (展示写真より) (平成18年4月15日) |
牧水の沼津時代(1920〜1928)
中年に入った牧水はすでに三児の父になっていたが、東京の生活に馴染みきれず苦しい日々を送っていた。
都会を離れて静かな暮らしを取り戻し、自分の内にある力をあるだけ仕事に注いでみたいという、一途な願いを持っていた。
大正9年8月15日に一家を挙げて沼津町在に移住、「牧水の沼津時代」といわれる静かな田園生活に入ったのである。
ここでの暮らしがようやく落ち着いてきた大正12年9月に関東大震災が起き、その影響による住宅難から香貫の家を出ることになる。
一時千本浜の借家に移ったが、なんとか沼津に永住すべく住宅の建築を真剣に考えはじめる。
土地の買収と建築資金集めには、色紙や半切はんせつに歌を書きそれを売るための揮毫頒布きごうはんぷ会を企画した。
同時に宿年の夢だった詩歌総合雑誌を創刊することを決め、ついに全国に足を延ばす苦難にみちた揮毫旅行が始まるのである。
沼津で8年にわたる歳月を過ごし、昭和3年9月に牧水は病気で永眠した。
(展示パネルより)
沼津市若山牧水記念館 (静岡県沼津市千本郷林1907−11) (平成18年4月15日) |
歌碑 (静岡県沼津市・千本浜公園) (平成18年4月15日) |
若山牧水歌碑
幾山河
こえさりゆかば
寂しさのはてなむ國ぞ
けふも旅ゆく
牧水
歌人若山牧水(本名繁)は、明治18年(1885)宮崎県に生まれた、旧制延岡中学時代から短歌に親しみ、早稲田大学在学中に中國路を旅し、この「幾山河いくやまかわ」の歌を作った。
24歳のときに出版した歌集「別離べつり」が歌壇に認められ一躍世に出た牧水、大正9年(1920)夏、一家を挙げて沼津に移住した。
その後千本松原の景観に魅せられ、この松原にほど近い地に新居を構えた、旅と自然に親しみ、酒をこよなく愛した牧水は調べの美しい多くの名歌を残し、昭和3年(1928)9月17日43歳で永眠した。
墓所はこの近くの千本山乗運寺じょううんじにある。
この歌碑は全國で最初の牧水歌碑として昭和4年7月に建設された。
沼津市
(説明板より)
若山牧水の父子碑 (秋田県秋田市・千秋公園) 秋田ライオンズクラブ結成35周年記念 秋田県 秋田ライオンズクラブ 宮崎県 延岡向洋ライオンズクラブ 友好交流締結記念 1995年10月21日 (平成26年11月21日) |
牧水・旅人 父子歌碑
若山牧水(宮崎県東郷町出身)は、旅と酒をこよなく愛した漂泊の歌人である。
当然、酒のくに・秋田にも大正5、6年の2回、足を運ばれ、数首を詠まれている。
この酒の取り持つ縁で平成7年10月、秋田ライオンズクラブの篤志によって「千秋公園での一首」が歌碑となった。
さらに平成11年10月16日、秋田市制施行110周年記念事業の一つとして、長男旅人の一首を加えた父子碑が実現した。
父子の大らかで平明酔暢達な歌風が、いつまでも人びとに愛されることを希う。
平成11年10月16日
秋田市長 石川錬治郎
鶸めじろ山雀つばめなきしきり
さくらはいまだひらかざるなり 牧水
旅さなか秋田にやどりし父のうた
ふかきゑにしに今日きざまれぬ 旅人
(銘板より)
歌碑 (山形県酒田市・日和山ひよりやま公園) (平成26年11月23日) |
【碑文】
酒田滞在二日 八日午前四時半河口を出る
渡津丸に乗って私は酒田を立った (中略)
日よく晴れて海は黒いほど碧い (中略)
天の一角には丁度いま別れて来た河口の濁りの様に
円を作ってうろこ雲が白々と輝き散っている
「北国紀行」より
砂山の蔭に早なりぬ何やらむ
別れの惜しき酒田の港
牧水「さびしき樹木」より
若山牧水
宮崎に生まれ、生涯旅と酒を愛した歌人。
大正6年(1917)8月6日の夕刻、新庄より汽車で酒田に着く。
折悪しく停電のため暗い中を遊郭にあがり、風にゆれる燭台の下で酒を酌み、女達のおばこ節を聞きながら旅情に浸った。
(説明板より)
若山牧水之墓 (静岡県沼津市・乗運寺) 古松院仙譽牧水居士 昭和3年9月17日歿 行年44歳 (平成18年4月15日) |
牧水略譜
明治18年8月24日宮崎県東臼杵郡東郷村字坪谷一番戸に医師若山立藏仝じくマキの長男として生れ繁と命名さる
長じて16歳のとき文学を希望して牧水と号す
故郷の母マキ並に庭前の坪谷川への追憶に由来せるものなり
明治45年27歳に至り太田喜志子と結婚
以後9年の間に旅人岬子眞木子富士人の二男二女を挙げ東京に於てその短歌の作風に一家を成せども大正9年に至り年来の希望たりし田家の生活を志して沼津町在楊原村上香貫に居を撰み次で大正13年千本浜に移りてよりはその四囲環境を愛して終生ここを離れず昭和3年に至る
その年7月よりにはかに健康すぐれず9月上旬より臥床
仝月17日永眠す
時に歳43歳なりき
その一生は芳醇純乎としてただ自然の憧憬と賛美に終始し生を享けて四十年余その途をあやまたざりしもの
此処にその三十三年忌を迎えて之を誌す
昭和35年9月17日
若山 旅人
牧水會
(副碑より)
牧水の墓所 (静岡県沼津市・乗運寺) (平成18年4月15日) |
千本山 乗運寺 (静岡県沼津市字出口町335) (平成18年4月15日) |
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