和歌山県和歌山市七番丁23
平成19年4月13日
史跡
和歌山城
指定昭和6年3月
和歌山城は天正13年(1585)豊臣秀吉が紀州を統一し、弟秀長の領地としましたが、その際虎伏山の地をえらび自ら縄張りし藤堂高虎等を普請奉行として本丸および二の丸を築城させたのに始まります。
翌14年から秀長の城代、桑山重晴が在城し、はじめて若山または和歌山の城というようになりました。
慶長5年(1600)浅野幸長が37万石をもってこの国の領主となりその卆後弟長晟がこれを継ぎましたが、この間逐次城郭を整備しました。
元和5年(1619)徳川家康の第十子頼宣が55万5千石を領して入城し以来250余年御三家の一つとして大いに栄えました。
頼宣入国するにおよんで城郭の大改修が行なわれ西国第一の要衝としてその威容を誇っていましたが、その間数次にわたり災害があり特に弘化3年(1846)には落雷により天守閣多門などが焼失しましたが、嘉永3年(1850)に再建した。
明治4年(1871)廃藩置県により和歌山城は廃城となり同34年和歌山公園として始めて公開されました。
その後昭和6年(1931)史跡の指定をうけ、さらに同10年天守閣、楠門等が国宝建造物に指定されましたが、同20年7月9日の空襲により一夜のうちに焼失しました。
戦後14年市の戦災復興が進むとともに当城再建の気運が盛り上りここに昭和32年6月に工事に着手し翌33年10月竣工、昔にかわらぬ偉容を再現するに至りました。
本城郭中浅野氏時代の大手門であり徳川氏元和7年改修の時以来搦手門となった岡口門は和歌山城唯一の遺構として昭和32年6月重要文化財として指定されています。
平成13年9月
和歌山市
(説明板より)
和歌山城沿革
和歌山城は虎伏山竹垣城という
天正13年(1585)豊臣秀吉が紀州を鎮定し弟羽柴秀長に領せしめた時自ら縄張して築かせたもので 始め秀長の城代桑山重晴同一晴留守し 次いで慶長5年浅野氏入國して幸長長晟の二代在城したが 元和5年徳川家康の第十子頼宣紀勢55万5千石に封ぜられ 爾来14代253年間幕府の親藩紀州徳川氏の居城として勢威を輝かせた
その間弘化3年夏雷火のため炎上嘉永3年再営した
廃藩後兵部省所管となり大正2年市有に帰して公園施設として開放 同10年大小天守櫓多門等國宝に指定せられたが 惜しい哉昭和20年7月9日戦災により悉く焼失した
乃ち市は城楼再建の必要を認めて昭和31年3月市議会の議決を経 普く市民縣民の熱意を凝集 同32年6月原型に基き 藤岡通夫設計のもとにその工を起し 翌33年10月竣工郷土の象徴とする昔日の雄姿を再現した
昭和33年10月
和歌山市長 垣善一
(説明石碑・碑文より)
和歌山城遠景
桑山家(豊臣秀長の城代) | |||
初代 | 1586年〜1596年 | 桑山 重晴 | |
2代 | 1596年〜1600年 | 桑山 一晴 | 大和布施へ移封 |
浅野家 | |||
初代 | 1600年〜1613年 | 浅野 幸長 | |
2代 | 1613年〜1619年 | 浅野 長晟 | 安芸国広島へ移封 |
紀州徳川家(55万5千石) | |||
初代 | 1619年〜1667年 | 徳川 頼宣よりのぶ | |
2代 | 1667年〜1698年 | 徳川 光貞みつさだ | |
3代 | 1698年〜1705年 | 徳川 綱教つなのり | |
4代 | 1705年 | 徳川 頼職よりもと | |
5代 | 1705年〜1716年 | 徳川 吉宗よしむね | 8代将軍 |
6代 | 1716年〜1757年 | 徳川 宗直むねなお | |
7代 | 1757年〜1765年 | 徳川 宗将むねのぶ | |
8代 | 1765年〜1775年 | 徳川 重倫しげのり | |
9代 | 1775年〜1789年 | 徳川 治貞はるさだ | |
10代 | 1789年〜1824年 | 徳川 治宝はるとみ | |
11代 | 1824年〜1846年 | 徳川 斉順なりゆき | |
12代 | 1846年〜1849年 | 徳川 斉彊なりかつ | |
13代 | 1849年〜1858年 | 徳川 慶福よしとみ | のち家茂・14代将軍 |
14代 | 1858年〜1871年 | 徳川 茂承もちつぐ |
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楠門 (平成19年4月13日) |
楠門
天守閣二の門にあたり、総楠木造りであったため楠門と称されている。
弘化3年(1846)雷火焼失に伴い嘉永3年(1850)再建され国宝建造物として指定を受けていたが昭和20年(1945)戦火のため、またもその姿を消した。
再建年月日 昭和33年10月1日
構造型式 楼門造り本瓦葺(太柱および門板は楠を使用)
建面積 延102.4平方メートル
(説明板より)
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二の門櫓 (平成19年4月13日) |
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乾いぬい櫓 (平成19年4月13日) |
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御台所 (平成19年4月13日) |
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天守閣 (平成19年4月13日) |
天守閣
和歌山城天守閣は、大天守、小天守、乾櫓、二の門櫓、楠門を多聞たもんによって連結させた連立式天守閣である。
各層の屋根には唐破風からはふ、千鳥破風ちどりはふを交互に配し、上層階には物見のための高欄こうらんをめぐらし、大天守の隅には石落としを設けるなど、江戸初期頃の様式を残している。
とくに、和歌山城天守閣の特徴は、ひし形の敷地に左右され、乾櫓(北西)と大天守(南東)が張り出し、城下の北東と南西からの姿に雄大さを増すように工夫されている。
現在の天守閣は、昭和20年7月に戦災で焼失した天守閣(国宝)を、昭和33年10月に鉄筋コンクリート造で復元したものである。
再建年月日 昭和33年10月1日
天守台面積 2,640平方メートル
大天守閣高 23.42メートル(海抜72.32メートル)
(説明板より)
天守閣から見た景色
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三宝柑 (平成19年4月13日) |
三宝柑の由来
幕末期に現在の和歌山市今福に住んでいた紀州藩士野中為之助の屋敷内に珍しい果物がなった。
それを第10代藩主徳川治宝に献上したところ形状、味ともにすぐれているとして治宝が三宝柑と命名したという。
治宝は三宝柑を非常に珍重し御留味柑として一般に栽培することを禁止し和歌山城内にも古木があったと傳つたえられている。
明治維新以降は自由に栽培できるようになり特産物として名聲めいせいをあげている。
昭和62年3月15日
和歌山大学教授 安藤精一
(説明板より)
三宝柑について
三宝柑の樹は有名な産地としては有田郡湯浅町(田栖川)や田辺市(上秋津)があげられる
収穫は果実の食味が良くなる3月頃からで4月が最盛期となる。
味はひとくちでいえばまろやかでスッキリした早春から初夏の味であり黄色くすきとおった果肉のジュースは甘酸相和して舌にさわやかを残す。
紀州で生まれた本物の柑橘といえよう。
和歌山県果樹園芸試験場
(説明板より)
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本丸御殿跡 (平成19年4月13日) |
本丸御殿跡
この地の上段を本丸御殿跡という。
本丸御殿は天守閣付随建物として元和年間に創建されたもので、中央に「七福の庭」を配していた。
当御殿には文久3年(1863)3月10日から翌年10月26日まで14代藩主徳川茂承もちつぐ公夫人(倫宮則子みちのみやのりこ)が住まわれ、「宮様御殿」とも称された。
ここに正室が住まわれたのは実に始祖徳川頼宣よりのぶ公以来のことであった。
廃藩後この御殿の一部が移築された市内小倉光恩寺の庫裡くり(御殿の御台所)は現在唯一の建造物である。
本丸御殿跡には大正12年(1923)上水道貯水池が設置され現在に至っている。
(説明板より)
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七福しちふくの庭 (平成19年4月13日) |
七福の庭
この石組は「七福の庭」と呼び七福神の姿に似た名石を巧みに配して宝船乗合いを模したものであります。
紀州徳川藩始祖頼宣公(家康の第十子)が藩の永久の隆盛を祈念して元和7年(1621)本丸御殿の中央に作庭したと伝えられ久しくその妙技を珍重されていましたが大正12年(1923)本丸御殿跡に上水道貯水池設置のため石組をここに移したものです。
(説明板より)
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岡口門 (平成19年4月13日) |
岡口門
重要文化財・昭和32年文部省指定
岡口おかぐち門は、和歌山城南東の虎口こぐちにあたり慶長5年(1600)浅野幸長あさのよしなが公入国後、大手門(表門)として創建されたものであるが、元和5年(1619)徳川頼宣公入国と共に大手門を「一の橋口」に改められたため同7年、搦手からめて門(裏門)として改修され現在に至っている。
楼門ろうもんは切妻きりづま造りで、昔は向かって右に御蔵、左に二重櫓があった。
また北に接する土塀も当時のもので特に狭間さま(銃眼)は一枚石のくり抜きになっている珍しいものである。
(説明板より)
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大手門 (平成19年4月13日) |
大手門
浅野・徳川時代を通して大手門(表門)として機能した。
当初は一之橋御門とよばれていたが、寛政8年(1796)に大手御門と改称された。
明治42年(1909)に自然倒壊し撤去されたが、昭和58年(1983)、一の橋と共に再建工事が施工され、高麗門形式に復元された。
(リーフレットより)
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一の橋の樟樹くすのき (平成19年4月13日) |
一の橋の樟樹
県指定文化財(天然記念物)
昭和33年4月1日指定
幹の周囲7メートル、樹高25メートルで、巨大な樹冠を形成している。
太い枝を四方にのばし、約35メートルにもおよぶ城内最大の樹木である。
推定樹齢は、約450年といわれている。
昭和20年(1945)の和歌山大空襲で損害を受けたが、樹勢が回復し、今日にいたっている。
(説明板より)
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伏虎像 (平成19年4月13日) |
伏虎像
江戸時代、和歌山城は、別名「虎伏山竹垣城」と呼ばれている。
これは、和歌山城の建つ山が、海上から見ると猛虎が伏している姿に似ているからである。
現在では、「虎伏城」、「伏虎城」などとも呼ばれている。
この像は、和歌山城の別名にちなんで昭和34年に建てられ、二代目にあたる。
初代は郷土出身の女流作家有吉佐和子著『紀ノ川』にも登場するが、銅像であったため、戦時下の昭和17年(1942)に供出されている。
(説明板より)
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二の丸御殿跡 (平成19年4月13日) |
二の丸御殿跡
紀州藩政庁のあったところで、面積約21,200uあり本殿及び諸局諸司を置いていた。
この一部は南面して、東に唐門、西に長屋門、切手門があって紅葉渓に通じていた。
四周の櫓は、南に太鼓櫓、北に物見櫓、西に駿河櫓があったが明治廃藩と共に次第に崩壊した。
ただ本殿の一部は明治18年(1885)大阪城内に移建され紀州御殿と称し長らく往時をしのばせていたが、昭和21年(1946)失火のため惜しくもその姿を消した。
なお、現在の庭園は昭和56年(1981)庭園文化研究所 森蘊 氏が平安時代の「作庭記」及び「鳥獣戯画」の事実を参考にして、この庭園の石組をデザインしたもので、昭和の鳥獣戯画的構図による庭園石組である。
(説明板より)
説明板より
発掘調査により発見された江戸時代の遺構 |
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多門櫓の礎石列 江戸時代、御橋おはし廊下が架かる石垣上には、南北に5棟の多門櫓(長屋造ながやづくりの建物)が建てられていました。 このうち、御橋廊下の架かる北側で、発掘調査により多門櫓の礎石列が発見されました。 その大きさは6間×2間(約12m×4m)で、絵図に描かれた建物と、ほぼ同じ大きさであることがわかりました。 多門櫓は、城を守るための重要な施設ですが、平和な時は道具類を入れる物置や蔵として使われていたといわれています。 平成18年度の整備工事で、発見された礎石列を復元しました。 |
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土塀どべい基礎石組いしぐみ 江戸時代、御橋廊下の架かる北側と南側に土塀がありました。 発掘調査により土塀の基礎石とみられる石組が発見されました。 また、付近から土塀の瓦と考えられる軒平瓦のきひらがわらも発見されました。 土塀は、江戸時代に作成された御橋廊下の設計図面である「御橋廊下御差図おさしず」などにも描かれています。 これらの資料にもとづいて平成18年度の整備工事で土塀を復元しました。 |
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穴蔵状遺構 御橋廊下の架かる石垣に組み込まれた形で造られた穴蔵状の遺構が発見されました。 穴蔵状遺構の入口部分には、敷居に板状の石材が用いられ、その内側両端には扉に関係するホゾ穴のある礎石がありました。 この礎石と敷居石との位置関係から扉は内開きであったと考えられます。 また、床面は入口から約2/3の広さで瓦製のせんが四半敷しはんじき(ひし形に目地めじのある敷き方)されていました。 奥側約1/3は盛土もりつちされ、土壇どだん状となって、なにか特定の物を収納してた可能性が考えられます。 江戸城でも大奥付近に石室いしむろと呼ばれる施設があり、非常の際、大奥用の調度ちょうどなどが収められたところと考えられています。 なお、穴蔵状遺構は、明暦元年(1655)の火災以降、入口が閉ざされ埋め立てが行われています。 御橋廊下の架かっていた時期には利用されていなかったと思われます。 |
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復元・穴蔵状遺構 (平成19年4月13日) |
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御橋廊下(復元) (平成19年4月13日) |
御橋廊下
御橋廊下は、藩主とお付の人だけが二の丸と西の丸を行き来するために架けられていた橋である。
そのため、外から見えないように壁と屋根が設けられ、部屋の廊下のような作りになっている。
斜めに架かる廊下橋としては全国的にもめずらしい。
江戸時代の図面にもとづき平成18年3月に復元された。
西の丸庭園 | |
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名勝
西ノ丸庭園沿革
この庭園は、紀州徳川藩祖頼宣公が西之丸御殿に築造したもので、昔から紅葉渓の名で親しまれてきた。
浅野時代に築かれた内堀の一部と虎伏山の山稜地形を巧みに利用した起伏の変化に富んだ庭で、南西の高台地には、雄健な三つの滝とその落水を導く渓流、美しい出島と巨大な舟石が浮ぶ池、柳島のある堀池からなり、急峻な斜面や護岸には緑色や紫色などの紀州の名石で、豪快な石組が施されている。
紅葉渓橋・土橋・石橋をかけ、鳶魚閣・腰掛・茅門の建物が要所にそなわり、古い樹林が興趣を添え、その破墨山水的景観は、江戸時代初期に作庭された名園である。
なお、茅門南の鶴之渓は、浅野氏により造られた城壁に囲まれ、当時、「鶴之餌鉢」を置き、鶴が飼育されていた由緒あるところである。
(説明板より)
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高石垣 (平成19年4月13日) |
高石垣
この高石垣は寛永2年(1625年)築造されたもので、高さ23.4メートル(13間)あり城中石垣のうち最高である。
当時の藩祖徳川頼宣公は南の丸から西濠までの石畳築造の大工事を起こしたので幕府の嫌疑を受け、家老安藤直次幕府でその修築の必要を力説し了承された。
しかし当の普請奉行久野宗成(くのむねなり)は、参府の途上三州池鯉鮒(ちりふ。愛知県知立町)において工事完成の報を受けたので、工事一切の責任を帯び病死したと伝えられる。
ときに寛永2年11月29日宗成44歳であった。
(説明板より)
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不明門跡 (平成19年4月13日) |
不明門跡
不明門あかずのもんは元和年間の創建による単層入母屋いりもや造り本瓦葺ほんかわらぶきであったが明治の廃藩とともにしだいに損傷し大正初期に取り壊された。
この城門は往昔おうせきから開扉かいひせず万一、落城の場合は城内から岡山に抜け大智寺で陣を構え、不幸敗北のときは、船に乗って菩提ぼだい所浜中長保寺にのがれる間道口であったと伝えられている。
(説明板より)
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石垣 (新裏坂=登り口) (平成19年4月13日) |
説明板より
和歌山城石垣の刻印について
和歌山城の石垣のうち、2110個に刻印があることが分かっています。
この新裏坂周辺で、坂の西方に続く石垣に854個と約4割が集中しています。
刻印のデザインは多種多様で40種類以上が確認されており、家紋やその省略文字であったり、方位や日付、人名と考えられるものもあります。
また、刻印のある場所は右の正面だけでなく、側面や上下とあらゆる面にわたっていることが確認されています。
石垣の刻印は、全国的には慶長(1596〜1615)から寛永(1624〜1644)期に築かれたものに多く見られますが、何のために刻印されたかについては、石材所有者の表示、石質チェック、鬼門除けなど呪術的使用など諸説が有り、はっきりとは分かっていません。
和歌山城研究家として知られる故松田茂樹氏は、刻印のある石垣が和泉砂岩いずみさがんに限られ、浅野家が城主だった時代(1600〜1619)に修築された石垣にしか使われていないことなどから、浅野家の家臣が主家しゅかの城普請しろぶしんに協力したしるしとして刻印したと見ておられる。
(説明板より)
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追廻門 (砂の丸) (平成19年4月13日) |
追廻門
追廻門は高麗門形式で、門外扇の芝に操練所があり騎射の稽古のための追廻し馬場があったので追廻門と称するようになったという。
創建は寛永6年(1629)と伝えられ当時から朱がぬられていた。
往時を偲ぶ重要な遺構である。
構造形式 単層入母屋造り
建面積 14.21u
(説明板より)
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砂の丸跡 (平成19年4月13日) |
石垣修復工事記録
場所:砂ノ丸西側南寄
概要:西南角より北え延長76米高さ最高8.6米最低4米
面積351■積替
西南角南登階段北登階段の修復及び土盛部分撤去
西側中程南登階段の修復北登階段及び中段石積部分撤去
仝所に延長10.3米高さ5.7米の石積施工をし原型復元をする
採石場所:大阪府泉南郡阪南町山中渓 補足石103粒
工事費:40,000,000円
工期:自・昭和50年12月9日 至・昭和51年3月10日
工事関係者:事業主 和歌山市長 宇治田省三
監督指導 文化庁記念物課
施工 和歌山市北の新地上6軒丁11 岡崎工業株式会社
石積施工 大津市坂本本町1569 穴太流技法 ■田万喜三
(石碑・碑文より)
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西の丸跡 (現:観光バス駐車場) (平成19年4月13日) |
西の丸跡
西の丸は、藩主の隠居所として設けられ、自然風雅を楽しむ場であった。
書院や能舞台、南側には内堀を利用した紅葉渓庭園があり、数寄をこらした建物が建ち並んでいた。
南東隅の堀上には御橋廊下を架け、二の丸へ通じた。
明治3年(1870)藩主が二の丸から一時移り住んだが、廃藩置県で東京へ移り、その後建物は破却された。
跡地は和歌山尋常中学校(のち和歌山中学校)、さらに和歌山市役所に利用された。
(説明柱より)
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史跡・岡山の時鐘堂 (和歌山市吹上1丁目・県立近代美術館近く) (平成19年4月13日) |
和歌山県指定史跡
岡山の時鐘堂
昭和33年4月1日指定
時鐘堂は江戸時代中頃(正徳2・1712)に紀州藩によって設置された。
時の藩主は第5代徳川吉宗であった。
約6メートル四方2階建ての鐘楼で、2階の大梁に梵鐘がつり下げられている。
この鐘は藩士の登城時や時の刻を城下に知らせたもので、二人の番人によって管理され、刻限毎につき鳴らされたと伝えられる。
この時鐘屋敷は、大正年間に取り壊された。
時鐘堂の梵鐘は、元和元年(1615)のいわゆる大坂夏の陣で豊臣方が使用した青銅製の大筒おおづつ(大砲)を徳川方が捕獲し、紀州藩が保管していたが、それを後に粉河の鋳物工人に命じて梵鐘に鋳なおさせたものと伝えられる。
平成5年11月1日
和歌山県教育委員会
和歌山市教育委員会
(説明板より)
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禁殺生の碑 (岡山の時鐘堂) (平成19年4月13日) |
「禁殺生きんせっしょう」の碑
紀州初代藩主徳川頼宣は、藩の儒学者李梅渓りばいけいに領民を戒めるため「父母状」を書かせた。
この「禁殺生」の石碑も鳥獣等の殺生を戒めるため、藩主が李梅渓に命じて書かせたと伝えられる。
ほかに李梅渓の筆になる「猊口石げいこうせき」「亀遊岩きゆうがん」「鶴立島かくりゅうとう」等の石碑が和歌浦付近に建てられている。
平成13年2月
寄贈 西本正治氏
(説明板より)
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