平成22年4月5日

渡辺錠太郎 わたなべ・じょうたろう

明治7年(1874年)4月16日〜昭和11年(1936年)2月26日

愛知県小牧市・西林寺でお会いしました。


煙草店・和田武右衛門の長男、農業・渡辺庄兵衛の養子。
陸軍大将。
陸軍大学校卒。
日露戦争に出征。
元帥・山県有朋付副官を務め、ドイツに駐在。
オランダ公使館付武官、参謀本部第4部長、第7師団長、陸軍航空本部長、台湾軍司令官などを歴任。
昭和10年(1935年)、真崎甚三郎の後を受け教育総監に就任。
天皇機関説を擁護する言動などにより、2・26事件で反乱部隊の襲撃を受け殺害された。


渡邊大将像


渡邊大将像

(小牧市・西林寺)

昭和13年初冬 基弘作


(平成22年4月5日)
渡邊大将像 渡邊大将像

【碑文】

故陸軍大将従二位勲一等功五級渡邊錠太郎君ハ明治七年小牧和田武右ヱ門氏ノ長男ニ生レ後外戚岩倉渡邊家ノ懇請ニ因リ其ノ家ヲ嗣ク
君幼ニシテ智能優レ修学僅ニ三年ニシテ学園ヲ退キ奮テ家業ヲ助ケ傍ラ刻苦獨学軍人タラント欲ス
明治二十七年歩兵科士官候補生ニ登第シ累進シテ昭和六年陸軍大将ニ任セラル
君資性温良剛直明敏
陸軍大学校ヲ首位ニシテ卒業シ大尉トシテ日露戦役ニ従ヒ次テ駐欧勤務数次ニ及フ
後年陸軍大学校長第七師團長航空本部長臺湾軍司令官軍事参議官教育総監ノ要職ニ歴任
皇軍ノ進運ニ陣盡瘁シ文武兼備ノ良将トシテ偉勲赫々タリ
而シテ教育総監在任中突如事変ニ際会シ昭和十一年二月二十六日其ノ凶刃ニ斃ル
痛惜奚タ来れニ勝ヘン
乃チ小牧郷黨ノ発起ト有志ノ協賛ニ據リ此ノ銅像ヲ建設シ以テ不朽ニ其ノ風■ヲ傳フ

昭和十四年ニ月
陸軍大将 松井石根 撰竝書

西林寺


西林寺

(愛知県小牧市小牧4−2)




(平成22年4月5日)
西林寺



西林寺




(平成22年4月5日)

軍歴
    小学校中退    
明治27年 12月 士官候補生   日清戦争
明治28年 7月 陸軍士官学校入学 校長:波多野 毅 大佐 三国干渉
明治29年 11月 陸軍士官学校卒業(第8期)  
明治30年 6月 少尉
歩兵第19連隊
   
明治32年 11月 中尉    
明治33年 12月 陸軍大学校入学 校長:上田有沢 少将
幹事(教頭):井口省吾 大佐
北清事変
明治36年  11月 陸軍大学校卒業(首席) 校長:藤井茂太 少将
幹事(教頭):阿部貞次郎 中佐
        松石安治 大佐
  
12月 大尉
歩兵第36連隊中隊長 
 
明治37年 7月 出征・戦傷    日露戦争
10月 大本営参謀 参謀総長:山県有朋 元帥
参謀次長:長岡外史 中将
明治38年 9月 山県有朋元帥付副官  
明治39年 9月 清国出張  駐在武官:青木宣純 大佐  
明治40年 2月 ドイツ駐在  駐在武官:山梨半造 中佐  
明治41年 12月 少佐    
明治42年 5月 ドイツ大使館付武官補佐官  駐在武官:尾野実信 大佐

前任:金谷範三 少佐(陸士5期)
後任:松木直亮 少佐(陸士10期)
伊藤博文暗殺
明治43年 6月 参謀本部員  参謀総長:奥 保鞏 大将
参謀次長:福島安正 中将
大逆事件
日韓併合
11月 兼・山県元帥付副官
(大正4年2月まで)
 
大正2年 1月 中佐    
大正3年       第一次大戦
ドイツに宣戦
大正4年 3月 歩兵第3連隊付    
大正5年 5月 参謀本部
外国戦史課長
参謀総長:上原勇作 大将
参謀次長:田中義一 中将

前任:奥村鋭作 大佐(陸士2期)
後任:小沢三郎 大佐(陸士7期)
  
7月 大佐  
大正6年 10月 オランダ公使館付武官 前任:秦 真次 少佐(陸士12期)
後任:宇佐美興屋 少佐(陸士14期) 
 
大正7年     シベリア出兵
大正8年  9月 参謀本部付(欧州駐在)   
大正9年  5月 帰朝   尼港事件
国際連盟加入
8月 少将
歩兵第29旅団長 
 
大正10年       原敬暗殺 
ワシントン会議
大正11年  9月 参謀本部第4部長  参謀総長:上原勇作 大将
参謀次長:菊池慎之助 中将
       武藤信義 中将

前任:国司伍七 少将(陸士5期)
後任:多門二郎 少将(陸士11期)
 
大正12年       関東大震災
大正14年 5月 中将
陸軍大学校校長
幹事(教頭):坂部十寸穂 少将 軍縮
4個師団廃止
大正15年 3月 第7師団長 前任:国司伍七 中将(陸士5期)
後任:新井亀太郎 中将(陸士8期)
 
昭和3年       張作霖爆死
昭和4年  3月 航空本部長  前任:井上幾太郎 中将(陸士4期)
後任:古谷 清 中将(陸士10期)
 
昭和5年 6月 台湾軍司令官 前任:菱刈 隆 中将(陸士5期)
後任:真崎甚三郎 中将(陸士9期)

参謀長:小杉武司 少将(陸士13期)
台湾蕃社の乱
(霧社事件)
昭和6年  8月 大将
航空本部長兼軍事参議官 
前任:古谷 清 中将(陸士10期)
後任:杉山 元 中将(陸士12期)
満州事変
十月事件
昭和7年       上海事変
5・15事件
犬養毅暗殺)
満州国建国
昭和8年 3月 軍事参議官   神兵隊事件
国際連盟脱退
昭和9年       十一月事件
昭和10年 7月 教育総監
兼軍事参議官
前任:真崎甚三郎 大将(陸士9期)
後任:西 義一 大将(陸士10期)

本部長:林 桂 中将(陸士13期)
     中村孝太郎 中将(陸士13期)
相沢事件
永田鉄山刺殺)
昭和11年 2月 2・26事件で殺害される     高橋是清暗殺
斉藤実暗殺

(参考:秦郁彦 編『日本陸海軍総合辞典』 東京大学出版会 1991年初版)
(参考:児玉幸多 編 『日本史年表・地図』 吉川弘文館 2003年第9版)


【天皇機関説に関する訓辞】

昭和10年10月3日、真崎甚三郎大将のあと教育総監となった渡辺錠太郎大将は、名古屋の偕行社に第3師団管下の部隊の将校を集めて、大要次のような内容の訓辞をした。

機関説が不都合であるというのは、今や天下の輿論であって、万人無条件にこれをうけいれている。
しかしながら機関説は明治43年ころからの問題で、当時山県(有朋)元帥の副官であった渡辺はその事情を詳知している一人である。
元帥は上杉(慎吉)博士の進言によって当時の憲法学者を集め、研究を重ねた結果これに対してきわめて慎重な態度をとられ、ついに今日におよんだのである。
機関説という言葉が悪いという世論であるが、小生は悪いと断定する必要はないと思う。
御勅諭の中に「朕ヲ頭首ト仰ギ」とおおせられている。
頭首とは有機体たる一機関である。
天皇を機関とあおぎ奉ると思えばなんの不都合もないではないか。・・・・・
天皇機関説排撃、国体明徴とあまり騒ぎまわることはよくない。
これをやかましくいい出すと、南北朝の正閏問題をどう決定するかまで遡らなければ解決しえないことになる。

この訓辞は、当時の情況から考えれば、実に大胆な発言であった。
市井の一個人が発表しても大きな物議をかもすほど、情況は険悪化しており、教育総監という全軍の精神教育なども司る立場にある最高責任者が、軍人を前にして行なったのである。
訓辞を聞いた連隊長や、青年将校運動をしていた将校などは、この訓辞の内容を印刷して、渡辺大将が「天皇機関説のどこが悪いか」と言った、「機関説でいい」と言ったと、全国の連隊に喧伝した。
そのため渡辺大将に抗議の手紙が殺到した。

こうしたことに加えて、渡辺大将が真崎大将から教育総監のイスを奪ったという印象を与えたことから、彼は2・26事件で襲撃されたのである。

(参考:高橋正衛 著 『二・二六事件〜「昭和維新」の思想と行動〜』 中公新書 1994年2月増補改版初版)

(令和2年10月2日 追記)




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