渡辺崋山像 平成20年4月5日

渡辺崋山 わたなべ・かざん

寛政5年9月16日(1793年10月20日)〜天保12年10月11日(1841年11月23日)

愛知県田原市・池ノ原公園でお会いしました。


田原藩士の渡辺定通の子。江戸生まれ。
家計を助けるため画を学び、谷文晁たにぶんちょうにみいだされて入門。
花鳥画を描いていたが、30歳ごろから西洋画に心酔。
西洋画の陰影表現と描線を主とした伝統的な表現を調和させ、独自の肖像画の様式を確立。
「鷹見泉石像」「市河米庵像」などを描く。
洋画への傾倒や藩の海岸掛に任じられたことから蘭学研究に入り、小関三英こせきさんえい高野長英たかのちょうえいらと交流しながら海外事情などの新知識を摂取。
ところが、これが幕府儒官の林述斎はやしじゅつさいとその一門の反感を買い、捕らえられて在所蟄居を命じられる。(蛮社の獄)
2年後、田原藩の蟄居先で自殺。
享年49歳。


誕生の地



渡辺崋山誕生地

(東京都千代田区隼町4−2・最高裁判所)





(平成18年5月25日)

渡辺崋山誕生地

渡辺崋山は通称を登といい寛政5年(1793)三宅備前守藩邸内に生まれ、大部分をここで過ごしました。

昭和63年3月
千代田区教育委員会

(説明板より)


渡辺崋山像



渡辺崋山像

(愛知県田原市・池ノ原公園)





(平成20年4月5日)
幽居跡



池ノ原幽居跡
(愛知県田原市・池ノ原公園)





(平成20年4月5日)

渡辺崋山 池ノ原幽居跡

先生はその著作、慎機論において外国船打ち払いの無法を論じ、幕府より国政批判の罪を受け在所田原藩に蟄居を命ぜられた。
この地は先生が天保11年(1840)2月16日より同12年10月11日まで、一家と共に住居され、日々論語、易経を読み、絵筆を運び、畑を耕し、罪の身に憂国の情禁じ得なかった所である。
先生没後1年にして幕府は外国船打払令をゆるめ、10余年後には遂に米、英、露、蘭、仏の5ヶ国に開港、和親条約を結ぶに至った。
即ち先覚者と仰がれる所以である。
昭和30年5月邸宅復元と銅像の建立を行う

田原市指定文化財・史跡
平成4年6月指定
田原市教育委員会

(説明板より)

石碑



左:『崋山先生玉砕之趾』碑
・伯爵東郷平八郎
右:『不忠不孝渡邊登』の碑
(愛知県田原市・池ノ原公園)




(平成20年4月5日)
池ノ原公園



池ノ原公園
(愛知県田原市田原町中小路)





(平成20年4月5日)

渡邊崋山之碑



渡邉崋山之碑
(愛知県田原市・田原城内・巴江護国神社)





(平成20年4月5日)

渡邉崋山之碑

故田原藩老渡邉崋山先生碑銘 従一位大勲位公爵三条実美篆額
昔者江戸幕府秉政海禁森厳外国通商獨許荷蘭而邦人読蘭書特取天学医術未有用此察海外形勢資経国要務者有之自故田原藩老渡邉先生始先生夙通経史又工絵事以藩封臨海尤用意海防与蘭学者高野長英小関三栄等交使其翻訳地誌兵法諸書又設尚歯会延当世耆宿相講習焉及荷蘭甲必丹来江戸就問西洋各国事情著歯■舌小記是時英兵侵清勢張甚欲使莫利宗航送我漂民困求互市甲必丹寄書報知幕府仍拘旧制固主攘斥先生聞之憂其或啓■為草慎機論而長英所著夢物語既巳流伝於世肉食者始知英国強盛莫利宗亦人傑也頗有所警誠焉監察鳥居耀蔵為人陰険以身為儒家子■視蘭学欲罪長英等以妖言惑衆未果会与韮山県令江川英竜奉命測量武相地形英竜即先生旧友用先生門客通蘭学者為属吏与耀蔵議毎不合各製地図上之英竜所製殊為精密有法耀蔵銜之居無何有市民謀往無人島闢荒者耀蔵探知曰彼謀犯国禁与外人貿易為蘭学者所誘耳幕府因捕先生捜索其家獲慎機論稿本鞫訊数次事与市民無渉及挙稿中語以下敬論付藩主幽之田原先生謫居養母甘旨不給乃為人作画門人福田半香在江戸為設書画会欲送所獲金以救其窮藩吏或忌先生才飛語曰罪人為境外交幕府必責罰我公先生聞而不自安手書勗子弟以忠孝又書不忠不孝渡邊登七大字利刃割腹死実天保十二年冬十月十一日也先生諱定静字伯登一字子安通称登号崋山又全楽堂随安居士其先有田代図書者事越後侯食禄八百石其子諱定重去仕田原藩主三宅氏有故冒母姓渡邉氏定重玄孫諱定通字叔沢号巴洲有学識為執政娶河邨氏生五男三女先生其長子歴事藩主五世起近習暦納戸番頭諸職至執政襲禄百石初碩巖公卒無子弟芳春君多病諸大夫欲迎立異姓子先生独弁其非不聴既而姫路侯次子康直公入立移芳春君於巣鴨第以兄事焉挙先生参内政兼摂芳春君傳尋命修三宅氏譜先生大喜曰公言及此宗社之大幸也於是往武州及参州訪先公遺跡参之旧記草譜牒九十余巻上之一日従容説公曰藩祖備後公南朝忠臣子孫緜緜世称名族今公異姓承後事出権宜公盍養芳春君子配以公女伝忠臣血胤於無窮公感悟遂譲封於今正五位康保公先生嘗巡視藩封会紀国商船遇颶漂至土人掠其貨物紀侯遣人来責連累蔓延■境危懼先生陳情幕府百方周旋事遂寝衆大喜贈金謝恩不受固請不巳乃受而付之里長充地方経費海道駅站役夫不給幕府命我民助役事違旧制先生為請免之海浜斥鹵民頼漁塩為活姦商謀墾闢為田以奪其利竊請之幕吏幕吏来検地物情騒然所在屯聚先生懇諭解散因上書当路具陳利害事又得寝藩士游■文弱成風先生鼓舞振作演刀法錬銃陣又頒万国旗章図於戍兵以厳斥侯先是連年不登穀価騰貴諸国盗起先生建義倉以蓄穀未幾歳又大飢康直公在田原召先生先生臥病於江戸邸不能往乃草救荒策上之副以前賢論説数十篇公採納其言発倉不賑恤豪農大賈争献金穀於是封内食足野無餓■幕府賜書褒賞其至力藩政卒如此先生生於寛政五年癸丑九月十六日死時四十有九娶和田氏生二男一女男長一学早世次諧字韶卿号小華亦好学工画法初襲父職中興補本藩権大参事今茲丁亥愛知県知事勝間田君与韶卿及旧藩士相議建碑田原城址馳使来救文於余乃按状兼取故老所伝以叙其概略先生躯幹長大色温気剛尤重忠孝大節所交皆海内名士児時不喜嬉戯画地肖物形観者奇之長好読書受業於鷹見星皐及佐藤一斎松崎慊堂初欲為儒其友諫之曰君画才天授儒術雖貴不若学画之易成今家貧親老盍售画以資孝養先生感悟遂従宋紫山金子金陵学画法後入谷文晁之門市塵鬻扇画燈彩随手賃写日獲若干銭既而声価隆起伎大售一日観洋製地球図慨然発憤考索欧米各国政治学術至絵事亦有所取焉故其画傚元明別裁新意花卉■毛山水人物皆極工妙門人椿山半香琴谷等各得其一端亦足以専門名世然先生以画為余事謂志拙画醜心浅画俗欲去浅俗当読万巻書所著游相小録訪■録総野紀行日省課目等蔵於家嘗献其蔵書於康直公上書曰臣幼就仕途先臣定通臥病二十年同胞八人倚臣餬口家計窮乏售画自給辛苦万状但典籍性之所好積年収蔵至数百部而大抵手写鈔録納之公庫殊愧拙劣然異日或有究乏如臣者使其読之則臣燈下之膏血不為虚費至書画有一二可観者不幸歳飢散売換穀以賑窮民亦臣之素志而反本溯源皆出公家余沢豈臣力云乎哉嗚呼此可以見其平生矣抑世之称先生者或知其芸術未知其政績或知其先見卓識預啓 王室中興万国修好之端設令其在今日則事業顕赫必有大可観者乃生非其時奇罪禍亡身惜夫銘曰
  治世講兵 機察未然 非敢求名 誓酬国恩 儒生作画 妙筆入神 非敢鬻伎 以養吾親
  市虎醸禍 白刃殺身 非敢軽命 懼累吾君 猗与若人 忠孝両全 豊碑深刻 伝芳万年
明治二十三年十月建  従四位文学博士川田剛撰文
                従五位長■書   井亀泉刻字

(説明板より)

※ ■はパソコン上で表示不可能な文字です。

巴江護国神社



巴江護国神社
(愛知県田原市・田原城)





(平成20年4月5日)

崋山の生涯

生誕
渡辺崋山は、寛政5年(1793)9月16日、江戸麹町こうじまちの田原藩上屋敷に生れた。
父市郎兵衛定通いちろべえさだみち29才、母栄えい22才の長子である。
田原藩主三宅家は譜代1万2千石の小藩。
さらに渡辺家は財政貧困の上、病身の父、老祖母、8人の子供等を抱える気丈な母を助け、崋山は幼い時から非常な苦労を重ねて勉学習画にはげみ、累進して40才の時江戸家老となった。

学者としての崋山
8才より若君お相手として出仕し、13才の頃藩の儒者鷹見星皐たかみせいこうにつき、後佐藤一斎さとういっさい、松崎慊堂まつざきこうどうに学んで朱子、陽明の学をきわめ、更に日本開発の志から蘭学による西洋事情の研究に進んだ。
37才の時藩主より三宅家家譜編集の大任を受け、ついで江戸藩校の総指南役となり、45才の時世子の師範となる。
漢詩、和歌、俳諧、書など何れも佳くし、その師友も又多い。
晩年、自ら、貧苦の中に買い集めた書籍幅570種余を後進勉学の資として藩主に献上する。
又、当時の儒学者伊藤鳳山いとうほうざんを田原藩校成章館せいしょうかんの講師に招いて、維新に至るまで後輩の指導に当らせた。

画家としての崋山
幼い頃、親戚の平山文鏡ひらやまぶんきょうに画の手ほどきを受け、白川芝山しらかわしざん、金子金陵かねこきんりょう、谷文晁たにぶんちょうに師事して天性の画技は大いに進んだ。
20才頃より画科をもって家計の助けとし、時に市中で書画会を開き、多くの文人墨客と交って画名はようやくあがる。
南画に独特の描線と洋画の立体感をとり入れ、花鳥、山水、人物、俳画、素描と多彩の名品を残した。
その門弟中、椿椿山つばきちんざん、福田半香ふくだはんこう、山本■谷やまもときんこく、平井顕斎ひらいけんさい、井上竹逸いのうえちくいつ、永村茜山ながむらせんざんらは有名である。
崋山の名作には国宝「鷹見泉石像」他多くの重美、重文が残されている。

政治家としての崋山
天保3年(1832)家老職を命ぜられる。
当時、外国船の日本近海をうかがうものが多く、領内沿海の要所に遠見番所を設け、砲台を築き、沿岸の村々へ外国の旗印を配って異国船の監視にあたらせた。
又、年毎に猪狩りや兵式調練を行って常に士気の鼓舞につとめるなど、海岸防備に心を用いた。
内政面では、紀州領難破船の浮荷掠め取りの後始末、田原領内へ課せられた助郷の免除運動、新田開発による沿岸民の不安解消など、何れも苦心惨胆の結果その成功を見ている。
天保6〜8年頃は全国的に大飢饉の年であった。
田原藩では、6年に官民一体の総力をもって義倉「報民倉ほうみんそう」を築き、7年より8年にかけての大凶作を乗り切った。
崋山は病中で田原へ赴く事が出来ないため、日頃信頼厚い用人眞木重郎兵衛まきじゅうろべえに策を授け、鈴木春山すずきしゅんさん、大蔵永常おおくらながつね、生田謙吉しょうだけんきちらが大いに活躍し、上下一体となって遂に一人の餓死流浪者も出さなかった。
翌天保9年(1838)崋山の内願により幕府は全国に唯一田原藩を表彰したのである。

外国事情の研究と兵学
崋山は、鎖国日本が世界の水準より遥かに遅れていることを最も憂えた一人であった。
そして、人々が外国への認識を高めるために蘭学研究の結社を作った。
田原藩老公三宅友信みやけとものぶに蘭書を数多く集めさせ、高野長英たかのちょうえい、小関三英こせきさんえい、鈴木春山らにこれを訳読させ、又当時の西洋砲術家江川坦庵えがわたんあん、通訳幡崎鼎はたさきかなえ、羽倉簡堂はぐらかんどう、下曽根金三郎しもぞねきんさぶろう、遠藤白鶴えんどうはっかくらとも交流し、或は来航のオランダ甲比丹かびたんの語るところを聞き、国政の方向を誤らぬように心を注いだ。
その著「鴃舌小記げきぜつしょうき」「鴃舌或問げきぜつわくもん」「西洋事情御答書おこたえしょ」「慎機論しんきろん」には、驚くべき博識と攘夷の非を唱える憂国の情が書きつづられている。
崋山の遺志は、藩士村上定平むらかみさだへい、萱生郁蔵かよういくぞう、鈴木春山、上田喜作うえだきさくらによって維新に至るまで受けつがれていった。
村上は、高嶋流砲術家として江川坦庵と提携し洋式砲術操練を開拓、全国の諸藩士を指導し、萱生は和製の西洋型帆船順応丸じゅんのうまるを建造し、鈴木、上田は西洋兵書の翻訳を行い、日本陸軍編制に大きな役割を果たした。
何れも平時には富国、非常時には強兵がそのモットーであった。

蛮社の獄
蘭学の進出は、儒学派が勢力を占める幕府為政者いせいしゃにとって大きな障害となった。
目付鳥居耀蔵とりいようぞうもその一人で、江戸湾測量の時江川坦庵に敗れて以来、蘭学者弾圧の時機を狙っていた。
折りしも無人島渡航計画の噂を機に、鳥居は崋山、長英らを天保10年(1839)5月に逮捕した。
一応その無実は晴れたが、西洋事情書や慎機論が幕政批難であるという罪を受け重罪になるところ、恩師慊堂の献身的な請願書により、12月に至ってようやく在所蟄居ちっきょの判決となった。

田原池ノ原に自刃
罪人崋山は、天保11年(1840)1月20日田原に到着し、間もなく家族と共に池ノ原邸に幽囚の日を送る身となった。
かつて自ら推挙した殖産家大蔵永常が住居していた屋敷である。
画弟子福田半香らは、崋山の絵を売りその収入によって恩師の生計を救おうとした。
この事から、藩内外の世評が喧やかましくなり、藩主にまで災の及ぶことを畏おそれた崋山は、自らを不忠不孝と言って池ノ原屋敷に自刃して果てた。
時に天保12年(1841)10月11日、49才であった。
愛弟子椿山への遺書に「数年の後悲しんでくれる人もありましょうか」と言った崋山。
安政元年(1854)幕府は米、英、露の三国と和親条約を結ぶ。
崋山が死んでから13年目であった。
明治元年(1868)罪科赦免、同24年(1891)功臣として正四位を贈られた。

(田原市博物館発行『崋山の生涯』チラシ資料より)

(平成20年7月3日追記)


【蛮社の獄:目付・鳥居耀蔵】

鳥居耀蔵(1796〜1874)は、大学頭・林述斎の四男として生れ、旗本・鳥居一学の養子となったて家禄2500石を受けた。
生家の縁では徳川幕府の理論的な支えをなすべき任務を課されて育ち、養家の縁では幕府譜代の臣として武力をもって忠義を尽くす任務を課されたものと自分を位置付けた。
二重の意味で思想が彼の上に働きかけた。
幕府の命令に批判をもつと彼がみなしたものに対する、手段を選ばぬ弾圧が、目付として、町奉行としての彼の方針となった。
林家の儒学を守ってこれに対抗する蘭学を排すること、幕府の歴代の政策である鎖国を堅持し、これを緩めるような動きの芽のうちに断固として摘み取ることが彼の政治的決断の基準となった。
渡辺崋山、小関三英こせきさんえい、高野長英らの蘭学者を死に至らしめた「蛮社の獄」、洋式砲術を伝える高島秋帆を投獄した「長崎事件」は、鳥居が計画的に事実を捻じ曲げて作った二つの災難である。

「長崎事件」は、やがて鳥居自身に跳ね返って来て、弘化2年(1845)、鳥居甲斐守は町奉行を辞めさせられ、丸亀藩京極家に永預けとなる。
明治の新政府ができて彼の禁錮を解く命令を出すと、自分は幕府の命令でここに来たのだから幕府の許しがなくてはここを去らないと言って断った。
新政府は仕方なく、旧幕府の役人の名で改めて命令を出した。
彼は東京に戻って旧知に会い、自分の言うとおりにしなかったから幕府は滅びたのだと言って反省の様子がなかった。
批判者を容赦なく捕えて殺してゆけば、権力を守り抜くことが出来るという政治信条を、彼は生涯を通して疑うことはなかった。
その後、徳川旧臣の住む静岡に移って、林家にゆかりの人の家で余生を送った。

【蛮社の獄:『慎機論』】

天保8年(1837)、米国船モリソン号は日本の漂流民7人を送り届けようとして江戸湾に達したが、砲撃されて退去した。
翌天保9年6月に、モリソン号が日本にまた来るという知らせがオランダ商館長を通して幕府にもたらされた。
この時に評定所でなされた第1回の議論は、モリソン号を再び打ち払うことに傾き、その様子を評定所記録方・芳賀市三郎は、蘭学者の仲間に伝えた。
彼らは大いに憤慨し、渡辺崋山は『慎機論』を、高野長英は匿名で『夢物語』を、松本斗機蔵(八王子同心組頭)は、渡辺崋山・高野長英と同じ趣旨の上書を書いた。

老中・水野忠邦は、モリソン号の日本再訪問の噂もあるので、江戸湾の防備を堅くしようとして目付・鳥居耀蔵と代官・江川太郎左衛門とに巡見を命じた。
両者は浦賀の測量に際して衝突。
鳥居は小人目付こびとめつけの小笠原貢蔵に命じて測量をしたが、その結果は粗末なものだった。
鳥居は江川が渡辺崋山に助言を求め、内田弥太郎(高野長英門弟)、奥村喜三郎、上田喜作など洋式測量家を用いたことに不快を感じた。
小笠原は、自分が役に立たぬことを取り繕うために鳥居に悪口を言ったため、鳥居と江川の不和が深まった。
この時の対立は、崋山たちがモリソン号についての幕府の方針を批判したという噂を聞いた時の鳥居の反感を更に強くした。

鳥居耀蔵が目付の地位にあった天保10年(1839)4月10日、彼は江戸城内で配下の小人目付・小笠原貢蔵に命じて、同じく小人目付・大橋元六と共に渡辺崋山たちの身辺を調べさせた。
小笠原は4月29日に鳥居宛に報告書を差し出し、5月1日に鳥居と城内で会って更に指令を受けた。
その指令に際して、目付である鳥居耀蔵は、その上司である老中・水野越前守忠邦の内命によるものであるかのように偽った。

小笠原の探索は、鳥居によって、無量寿寺の住職・順宣たちの無人島行きの噂話と、モリソン号打ち払いについての渡辺崋山・高野長英たちの批判とが結び付けられ、幕府の政道批判の意図を含めた無人島渡航計画の証拠集め作業に変わっていく。
一旦、大洋上の無人島に渡れば、そこで幕府に知られずに異国人と連絡が取れ、そういうことが日本の国(幕府)を危うくすることになる。
そこで、無人島渡航計画をきっかけとして蘭学者「数十百人」を罪に陥れようとする手が打たれた。

天保10年(1839)5月14日、渡辺崋山は北町奉行所に呼び出され、その日から牢に閉じ込められた。
5月17日、岸和田藩岡部侯の侍医・幕府天文方御用・小関三英が自殺した。
正座し柱にもたれて三稜針らんせったで動脈を突き破ったという。52歳。
5月18日、高野長英は、崋山が捕えられたのを知って身を隠したが、4日経ったこの日の夜に、北町奉行所に自首した。

投獄された渡辺崋山は、5月14日、15日の取り調べで無人島渡航計画と関係ないことがはっきりした。
しかし、それで釈放されるわけではなく、5月22日の再吟味から、追及は崋山の幕政批判に向けられた。
5月24日、30日、6月14日と、崋山は、『慎機論』と『西洋事情御答書』について厳しい取り調べを受けた。

天保10年(1839)12月、判決が下り、崋山は主人の所に「押し込め」となった。

(参考:鶴見俊輔著 『評伝 高野長英 1804−50』 藤原書店 2007年発行)

(平成23年4月26日追記)


渡辺崋山年表
和暦(西暦) 数え歳   世の中の出来事
寛政 5年(1793) 1歳 9月16日、江戸麹町田原藩上屋敷に生れる。 高山彦九郎自殺
(47歳)
寛政 7年(1795) 3歳 妹・茂登もと生れる。 高橋至時
天文方になる

円山応挙(円山派)没す
(63歳)
寛政 9年(1797) 5歳 この年、軽い疱瘡ほうそうにかかる。 イギリス船
蝦夷地に来航
寛政12年(1800) 8歳 若君・亀吉のお伽役とぎやくになる。
妹・まき生れる。
伊能忠敬
蝦夷地を測量
享和元年(1801) 9歳 最初の絵の師、平山文鏡(田原藩士)亡くなる。 長久保赤水没す
(85歳)
本居宣長没す
(72歳)
享和 3年(1803) 11歳 弟・熊次郎生れる。 前野良沢没す
(81歳)
文化元年(1804) 12歳 日本橋で備前侯行列に当り、乱暴をうけ発奮する。 高橋至時没す
(41歳)
ロシア船長崎来航
通商を要求
文化 2年(1805) 13歳 鷹見星皐に入門し、儒学を学ぶ。
弟・喜平次きへいじ生れる。
 
文化 3年(1806) 14歳 若君・元吉もときち(後の康和やすかず)のお伽役になる。 江戸大火
喜多川歌麿(浮世絵)
没す(54歳)
文化 4年(1807) 15歳 弟・助右ヱ門すけえもん生れる。 西蝦夷地
幕府の直轄領とす
文化 5年(1808) 16歳 絵師白川芝山に入門する。
星皐より華山の号を受ける。
藩主康友に従って田原に滞在する。
江戸湾沿岸
砲台修築起工
間宮林蔵樺太探検
イギリス船
長崎に来航
文化 6年(1809) 17歳 金子金陵に絵を学ぶ。
金陵の紹介により谷文晁に絵を学ぶ。
 
文化 7年(1810) 18歳 田原に藩校成章館創立。
妹・つぎ生れる。
諸国飢饉
徳川水戸家
大日本史を献上
文化 8年(1811) 19歳 佐藤一斎から儒学を学ぶ。 松村月渓(四条派)
没す(70歳)
文化 9年(1812) 20歳   寛政重修諸家譜成る
文化10年(1813) 21歳 妹・つぎ亡くなる。 尾藤二洲没す
(69歳)
イギリス船来航
文化11年(1814) 22歳 納戸なんど役になる。
絵事甲乙会えごとこうおつかいを結成し、画名世に知られる。
歌川豊春没す
(80歳)
文化13年(1816) 24歳 弟・五郎生れる。 イギリス船琉球来航
通商を要求
駿河一揆
文化14年(1817) 25歳 父・定通、家老になる。 水野忠成老中になる
イギリス船浦賀来航
杉田玄白没す
(85歳)
文政元年(1818) 26歳 正月、藩政改革の意見を発表。
長崎遊学を希望したが父の反対のため断念する。
「一掃百態図いっそうひゃくたいず」を描く。
藩主康友に従って田原に滞在する。
常陸一揆
伊能忠敬没す
(74歳)

司馬江漢(油絵)没す
(72歳)
文政 2年(1819) 27歳 江戸日本橋百川楼ひゃくせんろうで書画会を開く。 阿波・摂津一揆
文政 3年(1820) 28歳   浦上玉堂没す
(76歳)
文政 6年(1823) 31歳 和田たかと結婚する。
「心の掟」を定める。
シーボルト来朝
大田南畝没す
(75歳)
紀伊一揆
文政 7年(1824) 32歳 7月、家督する。
父・定通亡くなる。
イギリス捕鯨船員
常陸・薩摩に上陸
文政 8年(1825) 33歳 この年から松崎慊堂に儒学を学ぶ。 異国船打払令
文政 9年(1826) 34歳 江戸宿舎にてオランダ使節ビュルゲルと対談。
長女・可津生れる。
この頃から画号「華山」を「崋山」と改める。
伊予に逃散起る
文政10年(1827) 35歳 10月、三宅友信に従い田原に来る。 イギリス船
小笠原島に来航
小林一茶没す
(65歳)
頼山陽の日本外史
文政11年(1828) 36歳 「日省課目にっせいかもく」を定め修養に努める。
側用人そばようにんとなり、友信の傳を兼ねる。
シーボルト事件
文政12年(1829) 37歳 三宅家家譜編集を命ぜられる。
弟・喜平次亡くなる。
松平定信没す
(72歳)
江戸大火
天保元年(1830) 38歳 埼玉県みか尻に三宅氏遺跡を調査。
のちに「訪ちょう録」を書く。
弟・熊次郎亡くなる。
徳川斉昭藩政改革
調所広郷財政改革
京畿大地震
天保 2年(1831) 39歳 江戸藩邸文武稽古掛指南世話役となる。
妹・まき亡くなる。
9月から門弟高木梧庵たかぎごあんを伴い旅する。
「游相ゆうそう日記」を書く。
10月、桐生、足利、みか尻地方に旅をする。
「毛武游記もうぶゆうき」を書く。
全国総石高調査
イギリス船
東蝦夷地に来航
周防長門一揆

十返舎一九没す
(67歳)
天保 3年(1832) 40歳 家老となる。
紀州藩破船流木掠取はせんりゅうぼくかすみとり事件。
助郷免除すけごうめんじょ事件。
長男・立たつ生れる。
全国的大飢饉
頼山陽没す
(53歳)
天保 4年(1833) 41歳 1月、家譜編集などのため田原に来る。
「参海雑志さんかいざっし」を書く。
播磨加古川一揆
東海道五十三次刊行
天保 5年(1834) 42歳 幕命の新田干拓中止の願書を上申。
農学者・大蔵永常おおくらながつねを田原藩に招く。
田原藩、給与改制格高分合制を実施する。
水野忠邦老中となる
天保 6年(1835) 43歳 報民倉竣工。
二男・諧かのう(後の小華しょうか)生れる。
天保通宝新鋳
田能村竹田没す
(59歳)
天保 7年(1836) 44歳 田原地方大飢饉。 江戸町会所改革
天保の大飢饉
米価暴騰
天保 8年(1837) 45歳 真木定前まきさだちかを田原に遣つかわし、飢餓を救う。
年末、無人島渡航を藩主に願うが許されず。
「鷹見泉石像」を描く。
弟・五郎亡くなる。
大塩平八郎の乱
(46歳で自害)
アメリカ船モリソン号
浦賀に入港
天保 9年(1838) 46歳 年初、「退役願書稿たいやくねがいしょこう」を書く。
蔵書画幅を藩主に献上する。
「鴃舌或門げきぜつわくもん」、「慎機論」を著す。
儒者・伊藤鳳山いとうほうざんを田原藩に招く。
徳川斉昭
将軍に内憂外患を説く
緒方洪庵
大阪に南学塾を開く
天保10年(1839) 47歳 江戸湾測量で伊豆の代官・江川坦庵に人材器具を援助。
5月14日、
蛮社の獄により北町奉行所揚屋あがりや入りとなる。
12月18日、
田原蟄居の申渡しを受ける。
蛮社の獄
天保11年(1840) 48歳 1月20日、田原着。
2月12日、池ノ原屋敷に蟄居。
清の商人
アヘン戦争を報じる
谷文晁没す
(78歳)
鈴木春山の西洋兵制
天保12年(1841) 49歳 10月11日、自刃する。 水野忠邦の政治改革
高島秋帆砲術を試む
江川英竜
江戸近海を巡視
水戸学興隆

(参考:田原市博物館配布『渡辺崋山年表』チラシ・他)

(平成20年7月4日追記)


渡辺崋山の碑



渡辺崋山の碑
(愛知県田原市・崋山神社)





(平成20年4月5日)
レリーフ




レリーフ






(平成20年4月5日)
崋山神社



崋山神社

(愛知県田原市田原町巴江12−1)





(平成20年4月5日)

崋山神社由緒

祭神 崋山 渡辺登命

寛政5年(1793)江戸の三宅藩邸で生まれ諱いみなは定静さだやす、通称を登のぼり、崋山と号す。
12歳のとき日本橋で池田侯の先供に打擲されて発憤、学に志し鷹見星皐せいこう、佐藤一斎、松崎慊堂こうどうに入門、貧を救うため絵を金子金陵、谷文晁に学び、独自の新境地をひらく。
40歳のとき家老となるや、報民倉の設置、藩校成章館の充実、人材の登庸等藩政の改革につとめ、さらに高野長英、小関三英と交って世界の大勢を知り、鎖国政策を批判し、江川担庵たんあんを通じて幕閣へ意見の反映を試みたため、蛮社の獄に捕えられ、在所田原へ蟄居を命ぜられる。
この間、弟子等の行った画会が不謹慎の譏そしりを受け累の藩侯に及ぶことを恐れ、天保12年10月11日(1841)幽居において自刃 享年49歳。
忠孝の武人、優れた文人、画家、経世家、憂国の先覚者として明治以降修身教科書などによって称揚さる。
昭和15年百年忌に当りその遺徳を偲び神社創建の儀がおこり戦中戦後の困難の中、曲折を経て昭和41年社殿を造営して現在に至る。

大祭日 10月11日
崋山神社奉賛会

(説明板より)


平山邸跡



平山邸跡
(愛知県田原市田原町殿町45−1)
(日本福音ルーテルみのり教会田原礼拝所)




(平成20年4月5日)

平山邸址

田原藩大目付平山郷右衛門の旧邸跡
(渡辺崋山の祖父、父の生家)

昭和56年
田原町教育委員会

(説明板より)


渡辺崋山の墓



中央:渡辺崋山の墓

(愛知県田原市・城宝寺)





(平成20年4月5日)
城宝寺



城宝寺
(愛知県田原市田原町稗田50)





(平成20年4月5日)

観光案内 城宝寺起源

一.渡辺崋山先生御墓所
自刃せられて検視の役人が24日めに江戸から来て瓶かめに入れたままこの下にお納め申し上げてあり

一.霊牌堂
崋山堂には諸大家の献納書画あり

一.愛知県指定「城宝寺石槨」
先住民族首長の塚にして前方後円の石槨という

一.東海七福神奉安
弁財尊天を祀り 福徳寿命の女神
七福神 最初の礼所 毎月10日例祭

一.弁天堂
弘法大師作 弁財尊天を祀る
徳川家康公この尊天のお護りにより 御朱印と城宝寺々号を扶寄せらる
弁天山長昌院城宝寺と改称せられ長昌院とは当山の院号にして奥ノ院、阿弥陀ヶ池の庭園に極楽浄土を表現した金色舎利殿あり

一.城宝寺とは英城鎮護の為め 子々孫々相違なく御朱印を扶寄するとあり、田原城主戸田因幡之守始め三宅備前之守代々城主尊信厚し

平成18年11月吉祥日
城宝寺執事

(説明板より)


崋山没後の渡辺家
和暦(西暦) 月日   世の中の出来事
天保12年(1841) 11月5日 北町奉行与力・中島嘉右ヱ門なかじまかえもんら5名、
池ノ原にて崋山の検死を行う
水野忠邦の政治改革
天保13年(1842) 2月 長男・立たつ、月俸五人扶持ぶち
母・栄えい二人扶持
崋山の供養料として金1,000疋ひきを賜る
文政8年の打払令を廃す
倹約令
弘化元年(1844) 8月28日 母・栄(73歳)亡くなる。 フランス船琉球に来航
オランダ国王開国進言
間宮林蔵没す(70歳)
松崎慊堂(考証学)没す
(74歳)
弘化 2年(1845) 1月11日 立(14歳)使番次席つかいばんじせき、中小姓ちゅうこしょう
十五人扶持、御番入おばんいり
二宮尊徳の富国方法論
2月24日 長女・可津かつ(20歳)、
田原藩士松岡次郎と結婚する。
子がなく、約1年後離婚、渡辺家に復籍
弘化 3年(1846)     海防の勅諭幕府に下る
弘化 4年(1847) 8月28日 次男・諧かのう(13歳)、
椿椿山つばきちんざんへ内弟子入門する
天草農民一揆
町民に倹約令
嘉永元年(1848)     佐久間象山、大砲を鋳造
嘉永 2年(1849) 11月7日 妻・たか、立、可津、
池ノ原より田原城大手の平山屋敷へ移る
イギリス船浦賀に来航
葛飾北斎没す(90歳)
嘉永 3年(1850) 6月 立、謙太郎けんたろうと改名する。 高野長英自殺(47歳)
国定忠治処刑(41歳)
洋書の翻訳を制限
12月9日 謙太郎(18歳)、納戸なんど役になる
嘉永 4年(1851) 5月25日 謙太郎、藩主に従って1ヵ年の江戸詰めとなる
刀番、学問所素読そどく世話方に任命される
水野忠邦没す(58歳)
島津斉彬、製錬所設立
嘉永 5年(1852)     ロシア船下田来航
近畿風水害
薩摩に反射炉建設
嘉永 6年(1853) 3月15日 謙太郎、一学いちがくと改名する
ペリー浦賀来航
幕府、
開国の可否を諸侯に問う

関東大地震
韮山に反射炉を起工
4月26日 一学、大坂加番かばんに従って大坂詰となる
納戸、長柄ながえ奉行拝命する
椿椿山筆「渡辺崋山像」が出来上がる
安政元年(1854) 8月16日 一学、大坂加番終わり、江戸に帰る
文学修行のため引き続き江戸在勤を願う
日米和親条約
紀伊農民一揆
下田地震・大津波
椿椿山没す(54歳)
安政 2年(1855)   諧(21歳)、舜治しゅんじと改名する 長崎伝習所開設
洋学所設置
幕政改革の布告
江川英竜没す(55歳)
江戸大地震
藤田東湖圧死(50歳)
安政 3年(1856) 6月26日 一学(25歳)、
側用人になったが、江戸にて病死する
二宮尊徳没す(70歳)
広瀬淡窓没す(75歳)
7月17日 舜治(22歳)、
家督を相続し、中小姓15人扶持となる
安政 5年(1858)     安政の大獄
梁川星巖没す(70歳)
安藤広重没す(62歳)
安政 6年(1859)     安政の大獄
梅田雲浜獄死(45歳)
橋本左内刑死(26歳)
吉田松陰刑死(30歳)
佐藤一斎没す(88歳)
万延元年(1860) 2月24日 可津(35歳)、
江戸麹町藩邸で、若君のお守役となる
桜田門外の変
井伊直弼害死(46歳)
ヒュースケン事件
文久元年(1861) 3月15日 舜治(27歳)、
椿椿山の養女須磨すま(23歳)と結婚する
ロシア軍艦対馬停泊事件
米価暴騰による農民一揆
文久 2年(1862)     坂下門外の変
寺田屋騒動
生麦事件
幕府、
オランダに留学生派遣
榎本武揚ら)
文久 3年(1863)     8月18日の政変
薩英戦争
緒方洪庵没す(54歳)
元治元年(1864) 3月1日 舜治(30歳)、家老に昇進、80石を賜る 蛤御門の変
長州征討
四国艦隊下関砲撃
佐久間象山害死(54歳)
慶応元年(1865) 5月 藩主康保やすよしから老中へ、
崋山の墓碑建立の内願書を提出する
武田耕雲斎処刑(63歳)
摂津・隠岐に打ち壊し運動
慶応 2年(1866)      薩長連合の盟約
徳川家茂没す(21歳)
江戸・大坂に打ち壊し運動
高島秋帆没す(69歳)
福沢諭吉『西洋事情』
慶応 3年(1867) 7月26日 妹・茂登もと(73歳)、亡くなる 大正復古の大号令
ええじゃないか運動
明治元年(1868) 3月15日 幕府より崋山の罪科赦免おりる 福沢諭吉、
学塾を慶応義塾と改称

江戸城明け渡し
北会津農民一揆
神仏分離令
8月 崋山の墓碑を建立する
明治 2年(1869) 12月29日 舜治、諧と改名する。 横井小楠害死(60歳)
大村益次郎害死(47歳)
全国に農民一揆
東京・横浜間電信開通
明治 4年(1871) 4月24日 明治新政府、
崋山を忠孝の鏡として朝廷に推選するため、
田原藩に事暦報告を依頼する
廃藩置県
洋服が普及し始める
文部省設置
5月25日 妻・たか(65歳)、田原で病死する
明治 5年(1872)   田原城を取り壊す 太陽暦採用
新橋・横浜間鉄道開通
明治 7年(1874)   かのう、田原から豊橋へ移住する 佐賀の乱
江藤新平刑死(40歳)
板垣退助立志社を設立
台湾に出兵
大坂・神戸間鉄道開通
明治10年(1877)     西南の役
西郷隆盛自殺(51歳)
東京大学創立
明治11年(1878)     大久保利通暗殺(49歳)
明治15年(1882) 10月17日 諧、豊橋から東京へ移住する 大隈重信立憲改進党成立
嘉納治五郎柔道道場開設
日本銀行創立
明治16年(1883) 5月9日 可津(58歳)、亡くなる 岩倉具視没す(59歳)
鹿鳴館落成
明治20年(1887) 12月29日 諧(53歳)、東京で亡くなる 東京に電燈がつく
東京美術学校創立
東京音楽学校創立
明治22年(1889)     大日本帝国憲法発布
東海道本線全通
和歌山県大水害
明治24年(1891) 4月3日 田原城三の丸跡に崋山の頌徳碑しょうとくひを建立 大津事件
ニコライ堂落成
明治27年(1894)     日清戦争
庄内地方大地震
北村透谷自殺(27歳)
明治30年(1897) 5月9日 須磨(59歳)、豊橋で亡くなる 陸奥宗光没す(54歳)
島津忠義没す(58歳)
金本位制確立
活動写真興行始まる

(参考:田原市博物館配布『崋山没後の渡辺家』チラシ・他)

(平成20年7月5日追記)


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