(通称号:安10027部隊)
編成地 | 編成時期 | 終戦時の上級部隊 | 終戦時の所在地 |
京都 | 昭和16年 | 第53師団 | 南ビルマ |
戦時を予想して平素から人材確保、補充教育の効率性を重視した平時編成の縮小型の砲兵連隊。
昭和18年11月、南方総軍予備として動員下令。
第3大隊は比島(フィリピン)沖で海没し、残部は比島に残留して連隊の指揮を脱し、同地で戦闘を交えつつ終戦を迎えた。
連隊主力はサイゴン、シンガポールに集結中、昭和19年3月、ビルマ進出を下令された。
昭和19年4月、武兵団を指揮し、モール付近の敵空挺部隊攻撃命令により、師団主力に第1大隊を配属した。
5月11日の攻撃予定は、敵の退却で中止。
武兵団をモールに残置して、ミートキーナの第18師団予備隊救援のため北進した。
6月末、ビルマ方面軍は北ビルマからの撤退を決定。
師団は第18師団の後退掩護に任じ、第2大隊も戦場に到着して撤退作戦に協力した。
10月、第15軍隷下に入り、マンダレーへ転進。
昭和20年1月から盤作戦に参加。
師団はタウンタ付近に陣地を占領し、敵のメークテーラ方面への進攻阻止のため、連隊長指揮の1個大隊6門を配置した。
3月下旬、英印軍の攻撃に対し、敵戦車砲側襲撃、対戦車戦闘で相当数を擱座させた。
第7中隊の砲側要員は刺し違えで玉砕。
その後、敵の包囲を脱し、ヤナウンに転進。
3月下旬から5月中旬は克作戦を戦い、爾後シッタン河作戦で連隊はカイウエ付近に陣地占領、渡河部隊の後退行動に協力した。
碑文
野砲兵第53聯隊は昭和18年12月 伏見駐屯地を出發インパール作戦酣なるビルマ戦線に急派され爾後の各作戰に参加し赫々たる戰歴を記したるもその間1千余名の戰友と砲門馬匹の殆どを喪う
今茲に生存者相集い碑を建立し等しく勇戰敢闘したる往時を回顧し若くして護國の神となれる戰友の冥福を祈ると共に諸靈の遺勲を称え聯隊の武勲を永久に顕彰するものなり
昭和45年11月22日
ビルマ派遣軍第53師團
野砲兵第53聯隊 戰友一同
編成(昭和18年末)
連隊本部 | 連隊長 | 大佐 | 高見量太郎 |
連隊副官 | 大尉 | 黒木邦一 | |
連隊指揮班長 | 大尉 | 藤居肇 | |
第1大隊 | 大隊長 | 中佐 | 有馬盛忠 |
第2大隊 | 大隊長 | 大尉 | 渡辺正美 |
第3大隊 | 大隊長 | 少佐 | 川北松男 |
昭和18年11月、南方軍戦闘序列編入に伴う臨時動員下令。
予備役を召集して増員し、昭和18年12月13日編成完結。
第1大隊は編成完結直後、すぐに門司へ。
連隊本部・第2大隊・第3大隊は豊橋高師原へ、ついで饗庭野に移り、第3大隊を残し昭和19年3月25日に宇品へ出発した。
ビルマ派遣第53師団輸送状況
第1梯団 | 出発年月日 | 昭和18年12月19日 |
出港地 | 宇品 | |
到着年月日 | 昭和19年1月15日 | |
入港地 | サイゴン | |
所要日数 | 28日 | |
乗船部隊 | 師団司令部(一部)・歩兵第128連隊(一部) | |
第2梯団 | 出発年月日 | 昭和18年12月29日 |
出港地 | 門司 | |
到着年月日 | 昭和19年2月11日 | |
入港地 | サイゴン | |
所要日数 | 44日 | |
乗船部隊 | 歩兵第128連隊(主力)・野砲兵第53連隊第1大隊 輜重兵第53連隊 |
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第3梯団 | 出発年月日 | 昭和19年1月18日 |
出港地 | 大阪 | |
到着年月日 | 昭和19年1月29日 | |
入港地 | シンガポール | |
所要日数 | 11日 | |
乗船部隊 | 歩兵第119連隊(主力)・師団司令部(主力)・師団通信隊 工兵第53連隊(主力)・その他 |
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第4梯団 | 出発年月日 | 昭和19年3月27日 |
出港地 | 宇品 | |
到着年月日 | 昭和19年4月16日 | |
入港地 | シンガポール | |
所要日数 | 21日 | |
乗船部隊 | 歩兵第119連隊(第1・第2大隊)・歩兵第51連隊 捜索第53連隊(主力)・野砲兵第53連隊(連隊本部・第2大隊) その他 |
※野砲兵第53連隊第3大隊は第5梯団として出港したが、途中で輸送船を撃沈されルソン島で活躍、ビルマの本隊には合流していない。
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