野砲兵第53連隊第3大隊

(通称号:安10027部隊)

編成地 編成時期 終戦時の上級部隊 終戦時の所在地
京都 昭和18年 第103師団・第105師団・他 ルソン島


野砲川北大隊慰霊之碑



野砲川北大隊慰霊之碑

(滋賀県高島市今津町・陸上自衛隊今津駐屯地第2営舎内)




(平成17年4月10日)

川北大隊鎮魂の碑

野砲兵第53聨隊川北大隊は、昭和18年12月 ビルマ派遣安10027部隊第3大隊として京都に於いて編成されしも、本隊と離れて此の地に待命練武すること半歳余、19年8月勇躍征途に上る
然れ共任地遥かにして不幸バシー海峡に於いて敵潜攻撃のため、輸送船瑞穂丸は撃沈せられ、止むなく比島北部ルソン、サロマギ海岸に緊急上陸をなし、山下兵団の指揮下に入る。
爾後、戦局の変転と共にルソン島各地に転戦奮闘せしも、遂にマニラ周辺に於いて玉砕せり。
噫!茲に■全の有志相諮り一碑を建立して戦友の魂を慰むるものなり。

饗庭野 虫の音かなし とつくにの
   野に埋れし 戦友をしのべば 

昭和50年8月
旧川北大隊 遺族一同
旧川北大隊 生存者一同
元隊員撰文

(碑文より)
※ ■はパソコン上で表示できない文字です。

軍馬の碑

軍馬の碑

兵隊たちは軍馬に食事を与えてからでないと自分たちは決して食事を摂らなかったといいます。
軍馬は兵隊より上だったのです。


(平成17年4月10日)

(平成17年7月1日追記)


昭和18年11月、南方軍戦闘序列編入に伴う臨時動員下令。
予備役を召集して増員し、昭和18年12月13日編成完結。
第1大隊は編成完結直後、すぐに門司へ。
連隊本部・第2大隊・第3大隊は豊橋高師原へ、ついで饗庭野あいばのに移り、昭和19年3月25日に宇品へ出発。
第3大隊は残置・待命となる。

編成表(昭和19年3月頃)

部隊 階級 氏名 軍馬名
大隊本部
(150名)
大隊長 少佐 川北松男(陸軍士官学校第51期)
大隊副官 中尉 福島利一(甲種幹部候補生第6期)
大隊指揮班長 中尉 岸 道雄(甲種幹部候補生第5期)
第6中隊
(120名)
中隊本部 中隊長 大尉 吉村善治(特別現役志願第10期) 桂張号
指揮小隊 小隊長 中尉 村田利一(甲種幹部候補生第6期) 楽幹号
第1小隊 小隊長 中尉 吉岡清治(甲種幹部候補生第6期) 海草号
2個分隊
(改造三八式野砲2門)
第2小隊 小隊長 中尉 佐々木修(甲種幹部候補生第7期) 沖春号
1個分隊
(改造三八式野砲1門)
第8中隊
(120名)
中隊本部 中隊長 大尉 西 球男(陸軍士官学校第53期)
指揮小隊 小隊長
第1小隊 小隊長
2個分隊
(九一式十糎榴弾砲2門)
第2小隊 小隊長
1個分隊
(九一式十糎榴弾砲1門)
第9中隊
(120名)
中隊本部 中隊長 大尉 和田省三(特別現役志願第11期) 冬稔号
指揮小隊 小隊長 中尉 岸畑殖夫 (甲種幹部候補生第6期)
(京都大学卒)
第1小隊 小隊長 少尉 窟 由之
(東京大学卒)
梅声号
2個分隊
(九一式十糎榴弾砲2門)
第2小隊 小隊長 少尉 小川 茂(?)(甲種幹部候補生第?期)
※旅団副官として転出した西中孝蔵少尉の後任
大隊段列から異動
浪稲号
1個分隊
(九一式十糎榴弾砲1門)
大隊段列
(80名)
段列長 中尉 板杉貞次郎(甲種幹部候補生第5期)
段列長(後任) 中尉 吉岡清治(甲種幹部候補生第6期)

※第2大隊出発時に、連隊命令により第2大隊の第6中隊を第3大隊へ、第3大隊の第7中隊を第2大隊へ編成替えを行なった。

第6中隊編成表(昭和19年8月1日)

部隊 階級 氏名 軍馬名
中隊機関 中隊長 大尉 吉村善治 桂張号
曹長 曹長 奥田修之助
給与 軍曹 沢井 弘
武器 軍曹 吉川政一
喇叭 上等兵 辻本定男
伝令 兵長 中川政治
上等兵 田中裕一
挺進班 観測掛下士官 伍長 平岡恒一
通信掛下士官 伍長 久留信雄
乗馬観測手 兵長 世古 淳
上等兵 荒木栄一
一等兵 西山常蔵
二等兵 平井福太郎
乗馬通信手 兵長 久住英三
兵長 村田定実
上等兵 山川清次郎
兵長 平野 肇(入院患者)
馬取扱兵 上等兵 長岡 富三
(立命館大学教授)
桂張号
一等兵 前田利弘 楽幹号
上等兵 東 藤太郎 海草号
上等兵 土家鉄治 沖春号
兵長 戸嶋重夫(入院患者)
指揮小隊 小隊長 中尉 村田利一 楽幹号
観測車長 兵長 阪東六郎兵衞
馭者 一等兵 灌蛇繁男 菊庭・忠砂
上等兵 中川捨雄 常本・珠英
上等兵 堀場勝郎 河国・釧帝
砲手 上等兵 川瀬善雄
一等兵 松井秀雄 ※
一等兵 森川育男
一等兵 宇野安一(入院患者)
上等兵 北川貞三
上等兵 山下豊吉
上等兵 佐藤高男
第1小隊 小隊長 中尉 吉岡清治 海草号
第1分隊 分隊長 軍曹 久田貞一
馭者 一等兵 鏡 義彦 北信・繁常
上等兵 西沢市太郎
兵長 永井 太 正傅・繁正
砲手 一等兵 中口重雄
兵長 和田康雄
一等兵 黒瀬二十四
上等兵 山本奎二
上等兵 落合留吉
第1弾薬車 車長 兵長 小嶋英男
馭者 上等兵 溝口駒三 横福・正敏
上等兵 嶋谷利春
上等兵 佐々木普賢 石玉・北原
砲手 一等兵 三部長治 ※
一等兵 吉村忠男 ※
一等兵 寺下三夫
第2分隊 分隊長 伍長 酒井岩次郎
馭者 上等兵 山村清一 路松・森都
一等兵 山内 勉
上等兵 東 有秀 豊竹・河東
砲手 一等兵 奥山嘉雄
上等兵 大浦 豊
上等兵 田中金之助
上等兵 與河一夫 ※
一等兵 久保川太郎
第2弾薬車 車長 兵長 近藤徹也
馭者 上等兵 山本民哉 山空・久若
一等兵 中西一夫
上等兵 中林安太郎 正霜・空光
砲手 兵長 村中不三夫
一等兵 植田春治
一等兵 岩本篤二
第2小隊 小隊長 中尉 佐々木 修 沖春号
第3分隊 分隊長 伍長 池村美介
馭者 一等兵 稲本琢美 豊鈴・豊時
一等兵 織田春治
上等兵 松宮彦右衛門 深進・深原
砲手 上等兵 北村時男
兵長 辻 俊次
上等兵 近藤 清
上等兵 森川光雄
一等兵 坂本 清
第3弾薬車 車長 兵長 中村沢治郎
馭者 一等兵 小林保彦 庫羽・島畠
一等兵 藤田武雄
一等兵 大野 伝 庫朝・道砂
砲手 上等兵 石崎 勇
一等兵 前田義雄
一等兵 平山 昇
段列 段列長 曹長 道明典生
第4弾薬車 車長 兵長 堀川重友
馭者 上等兵 中尾仁良
一等兵 高野政彦
上等兵 沖本厚治 厚時・北城
砲手 一等兵 湯浅春満
上等兵 鳥山信一
上等兵 川瀬正一
第5弾薬車 車長 兵長 東村虎雄
馭者 上等兵 小野重治
一等兵 杉野助次郎
上等兵 清水市三 留福・里年
砲手 一等兵 川北 直
一等兵 大道 勝
上等兵 藤森信一
予備品車 車長 兵長 藤岡新次郎
馭者 一等兵 若井 隆 恒表・勝白
一等兵 久志本三夫
上等兵 斎藤利市 留岩・海村
砲手 一等兵 竹原 勇
一等兵 山田国太郎
衛生上等兵 大槻 茂
衛生上等兵 福岡将治
予備馬 上等兵 水越甚八
上等兵 松田 勉
上等兵 古谷留市(分遣要員)
沸水車 一等兵 中西四郎

※印の人はフィリピンには行っていません。(理由不明)

(平成17年7月1日一部追記)
(平成17年7月23日一部追記・誤字訂正)


廠舎

饗庭野の廠舎

(滋賀県高島市今津町・陸上自衛隊今津駐屯地第2営舎内)

陸自今津駐屯地に1棟だけ当時の廠舎が残っています。
常駐する兵営の建物は兵営といいますが、演習等で一時的に使用する宿泊所は廠舎しょうしゃと呼ぶのだそうです。


(平成17年4月10日)
厩舎跡


厩舎跡
(現:陸自今津駐屯地第2営舎の駐車場)

ここに馬を置いていたそうです。



(平成17年4月10日)
正門跡


正門跡

当時の門は、この位置にあったそうです。
陸自今津駐屯地第2営舎の現在の正門から少し離れています。
駐屯地の駐車場のすぐそばに位置します。


(平成17年4月10日)

昭和19年8月18日、第3大隊に出発命令が下る。
江若鉄道・近江今津駅で、砲車や軍馬を搭載して宇品に向かう。

江若鉄道近江今津駅舎跡


江若鉄道・近江今津駅舎跡
(滋賀県高島市今津町)

この建物が当時の駅舎だったようです。



(平成17年4月10日)

乗船区分

瑞穂丸
(元・病院船)
約6,000人乗船
大隊本部・大隊段列
第8中隊(10榴3門)
第6中隊第1小隊第2分隊(改造三八野砲1門)
約390名・馬匹約70頭
あらびあ丸
(英国製客船)
約8,000人乗船
第6中隊(1個分隊欠)(改造三八野砲2門)
第9中隊(10榴3門)
約210名・馬匹約60頭

(船団は6隻で編成・昭和19年8月21日宇品港出港)

宇品~門司~佐世保~基隆(台湾)と航行。
速力:時速約8ノット(時速約15キロ)
この間、他の船を加えたりと編成替えを数回行なう。
基隆で船団を再編成(25隻)し、高雄(台湾)へ向かう。(所要期間約1ヶ月弱)
高雄で最後の編成替えを行ないマニラへ向かう。
(タマ26船団=輸送船10隻・護衛駆潜艇4隻)
速力:時速約4ノット(時速約7キロ)

タマ26船団の損失状況

黒竜丸 昭和19年9月19日 敵の敷設した機雷に触れ機関室を損傷
台湾の高雄へ引き返す
淡路丸 昭和19年9月21日午前7時5分 敵潜水艦による魚雷攻撃で喪失
約200トンの弾薬が誘爆
乗船者のうち少年兵1,500名は約1割を除いて殆ど戦死したといわれている
(船員40名・警戒兵3名・乗船者284名が海没 ※2)
瑞穂丸 昭和19年9月21日午前8時35分 敵潜水艦による魚雷攻撃(3発命中)で喪失
沈没地点:北緯18度37分東経120度41分
川北大隊長は機関室の爆発による蒸気により顔面に大火傷を負う
第3航空軍の少年兵、第12開拓勤務隊、野戦重砲兵第13連隊、女子軍属(約200名のうち2/3)
を失う
野砲兵第53連隊第3大隊は、段列長・板杉中尉以下108名が戦死
(船員81名・警戒兵3名・乗船者1,313名が海没)

※淡路丸=日本郵船(海軍徴用)1,948トン
※瑞穂丸=大阪商船(陸軍徴用)8,506トン
※2=海没戦死者数は「知られざる戦没船の記録(下)」収録・喪失船舶明細表による

瑞穂丸の救助状況

船名 救助前の状況 救助内容
第17号掃海艇 タマ26船団船団護衛 敵潜水艦の制圧
第3東洋丸 タマ26船団 980名を救助
日南丸 タマ26船団 82名を救助
第20号駆潜艇 付近を航行中(船団護衛中?) 622名を救助
第63号駆潜艇 付近を航行中(船団護衛中?) 150名を救助
第20号掃海艇 付近を航行中(船団護衛中?) 370名を救助
海軍工作船・慶州丸 付近を航行中 1,630名を救助
機帆船2隻 付近を航行中 268名を救助
生存者 合計 4,102名

機帆船2隻に救助された268名は「バンギ」に上陸
その他は「サロマゲ」に上陸集結
タマ26船団・あらびあ丸が「サロマゲ」に到着後、第6中隊・第9中隊を降ろして徒歩でマニラへ向かう
(マニラまで393km、第6中隊長・吉村大尉指揮)
海没組は”あらびあ丸”に乗船し北サンフェルナンドへ向かう

(北)サンフェルナンド



展望台から見た(北)サンフェルナンド






(平成15年4月30日)

北サンフェルナンドにて海没組に靴と軍服の支給が行なわれる。
大隊段列長戦死のため、第6中隊第1小隊長・吉岡中尉が大隊段列長に任命される。
このため第6中隊第2小隊長・佐々木中尉が第1小隊長に就任して第1小隊第1分隊及び第2小隊(第3分隊)を併せ指揮することとなる。(第1小隊第2分隊は海没のため消滅か?)
第8中隊の竹岡中尉以下約30名が不要不急品を伏見丸に搭載してマニラへ向かうが10月15日、リンガエン湾のポリナオ岬沖で敵潜水艦の攻撃を受け轟沈。約30名のうち生存者は7~8名。竹岡中尉以下20余名が戦死。

10月27日、徒歩行軍組がリサール・メモリアル・スタジアム(リサール記念競馬場)に到着する。
海没して砲を失った第8中隊(西隊)に第9中隊(和田隊)の10榴を1門引き渡す。
また、マニラの遊兵(原隊への追及が出来ず所属のない残留兵)から若干の補充(各中隊へ12名~13名)を受ける。

川北大隊長は第14方面軍司令部へ行き、ビルマの本隊への輸送を依頼するが戦況悪化により輸送船の手配は不可能な状況。
ならばと、レイテ島で戦闘中の同じ京都師団(第16師団)の野砲兵第22連隊への編入を要望したが、これも戦局の悪化により輸送の許可が得られず、河嶋兵団(長・河嶋修少将)に編入となる。
(河嶋兵団=第105師団(勤兵団)歩兵第82旅団)
昭和19年11月中頃、リサール競馬場を出発。
ラグナ湖南岸~モンテンルパ~サンタクルス~ルクバンを経由してマウバンに到着し陣地占領。

(平成17年7月1日一部追記改訂)

陣地配置

第6中隊 マウバンの岬にラモン湾に向け放列配置
最前列は佐々木小隊(第2小隊)
改造三八野砲:2門
第9中隊 マウバン後方4~5キロのサンパロック地区に放列配置
吉村隊(第6中隊)との距離は約5km
近くのルヤルヤに海上挺進基地第7大隊・海上挺進
第7戦隊(約1,000名)が配置されていた。
九一式10榴:2門
第8中隊
大隊本部
大隊段列
和田隊(第9中隊)との距離は約5km
サンパロックの更に後方、シェラ・マ・ドレ山脈の南端
ルクバンの椰子畑に放列配置
九一式10榴:1門(第9中隊のもの)
マウバンの海岸



向こうに見えるのが”マウバン”の岬

旅日記を参照)




(平成17年11月21日)

その後、川北大隊は河嶋兵団から野口兵団(第105師団歩兵第81旅団)に配属替えになり、マニラ東方高地の南アンチポロへの移動命令が出る。
昭和19年12月31日、大隊本部。第8中隊(西隊)・大隊段列が陣地変換を開始。
第6中隊(吉村隊)も12月31日~昭和20年1月1日にパーティを開いて欺瞞工作を近くの海軍部隊に頼んで隠密裏に陣地変換の移動を行なう。
ルクバン~シニロアン~ビリラ~モロンを経由(ラグナ湖の東から北を通る)してアンチポロ付近に陣地を構築。
第9中隊はアンチポロ到着後、方面軍命令により北部ルソンのオリオン峠へ向け420kmの長途行軍に出発する。
これは、オリオン峠に降下する敵空挺部隊に対する防御のためであったようである。
第6中隊は昭和20年1月2日朝、マウバンを出発し、指揮小隊長・村田中尉指揮の1門はアンチポロに到着、マウバンで最前列の配置だった第1小隊長・佐々木中尉指揮の1門は最後の出発となりアンチポロ手前のテレサで直接東方高地に進入した。

マニラ東方高地に陣地を構築した直後、川北大隊主力は命令により振武集団(長=横山静雄第8師団長)指揮下の集団砲兵団(長=滝沢綾次郎野戦重砲第22連隊長)の指揮下に入る。

(平成17年7月1日一部追記改訂)

第6中隊佐々木小隊(第1小隊第1分隊?)の行動

昭和20年1月20日 中隊本部・道明小隊(中隊段列)と合流し、”決勝山”付近に陣地構築
後日、遮蔽物がないことを野口兵団の参謀より指摘され隣りの”吉野山”へ陣地変換
昭和20年2月11日 独立歩兵第83大隊第3中隊(桂隊)の配属部隊から藤田大隊の指揮下に入る
昭和20年2月23日 アンチポロ正面に対し米第2騎兵旅団・米騎兵第7連隊が攻撃をかけてくる
日本軍歩兵の前線(椿山・三角山・ラグナ湖周辺)で激戦
昭和20年3月10日 日本軍の総攻撃に際し、援護射撃命令が出て3日間攻撃を行う
昭和20年3月13日 米軍の迫撃砲の返礼を受ける(我軍の数倍の量)
隣りの小隊の弾薬が誘発したため、佐々木小隊の1門は”西光輝山”へ転進
乗馬通信手の久住英三兵長が通信線敷設中に爆風により戦死
その後の敵の砲撃で大隊及び中隊と連絡途絶

第6中隊吉村隊(第2小隊第3分隊?)の行動

昭和20年3月21日 米第43師団(米歩兵第103連隊・米歩兵第172連隊)が”決勝山””不抜台”
に展開する日本軍部隊を攻撃
この敵の急進出に対し、第2小隊の改造三八野砲1門が反撃するも、たちまち
沈黙させられる。
輓馬を失っているため移動不可能につき、砲身を破壊して(自爆)転進。
昭和20年3月24日 米軍がボソボソ平地を占領する。

第8中隊の行動

昭和20年3月7日 米軍の兵力が5個連隊から9個連隊に増強される
アンチポロの日本軍総崩れとなる
後方のボソボソ地区は退却した日本軍部隊で混乱
昭和20年3月8日 アンチポロとボソボソ地区の中間付近(御楯山附近)で第8中隊の10榴1門(大野中尉指揮)が玉砕
西中隊長以下生存者は大隊本部と行動を共にして転進

(平成17年7月1日一部追記改訂)

ボソボソ地区 ボソボソ地区(平成16年5月8日)

川北大隊の墓標
ボソボソの学校の近くにある『川北大隊の墓標』

これは野砲兵第53連隊第3大隊(川北大隊)の慰霊碑の残骸です。
昭和58年8月15日に建立された慰霊碑「京都野砲兵 川北大隊奮戦の地」の廃棄された断片の一部が柵の柱に埋め込まれていました。

旅日記参照

(平成16年5月8日)

第6中隊佐々木小隊の行動

昭和20年4月6日 ボソボソ地区の後方奥地の”神力山”を中心とした戦闘が開始される
昭和20年4月10日 やっと大隊本部及び中隊と連絡が取れる
昭和20年4月15日 ”神力山”への援護射撃を命じられるが残弾は10発
全弾直接照準で撃ち尽す
昭和20年4月20日 米軍のお返しの砲撃激しくなり、遮蔽物を失い砲が丸裸となる
昭和20年4月25日 砲を分解して土中に埋める(第6中隊最後の砲)
藤田大隊長(藤田部隊)から”西輝山”から敵が撤退しつつある報を受ける
昭和20年5月1日 吉村第6中隊長と再会する
村田指揮小隊長・吉岡大隊段列長以下多くの人員がマラリヤ、赤痢等の疫病
にて戦病死したことを知る

この時点で川北大隊本部は”神力山”から更に後方奥地の”高千穂原”に後退していた。
吉村第6中隊長の命により佐々木第1小隊長は部下十数名を従えて、大隊長の指示を仰ぐべく大隊本部を探しに行く。(10日以上探し歩く)
大隊本部は小川の上流にあり、川北大隊長・西第8中隊長・大隊本部馬場中尉など数名が洞窟を掘り滞在。
佐々木小隊長は、今後の指示を受けるため面会を申し込んだが拒否される。(昭和20年6月1日~2日)
西第8中隊長は重度の浮腫型栄養失調症であった。(のちにここの鍾乳洞で亡くなったのではないかと思われる)
今後の指示を仰げず帰る途中で奥村中尉(大隊本部)に出会い、野口兵団の糧秣所の位置を教えてもらう。
ここで糧秣を奪取し、帰隊するも中隊はもぬけの殻。(終戦まで吉村中隊長と会えず)
情報を収集したところ、野口兵団は武号作戦(食糧を求めて食糧のある地域まで南下する作戦)のため南下したらしく、吉村中隊長もこれに従ったものと判断。
佐々木小隊長以下も後を追いレナチン河まで下ることにする。
この時、途中で子供連れの邦人や多数の餓死者などを見たという。
また”剣山”を越す時はフィリピンゲリラの襲撃なども受けた。
このころから佐々木小隊長も浮腫型栄養失調に罹り、1日に約100m程度しか移動できない状態となる。
やむなく沢井軍曹に部下を掌握させ先行させる。
その後、マラリヤと栄養失調のため意識を失ったところを米軍に収容され7月15日頃、モテンルパの病院へ入れられる。(戦後生還)

大隊本部・大隊段列・第8中隊の行動

川北大隊長は大隊本部・大隊段列・第8中隊を掌握指揮する。
大隊には食糧の補給もなく、飢餓とマラリヤ他の病気にも冒され、戦力は減退した。

昭和20年5月 日本軍の大反撃に斬込隊を編成して参加。挺進攻撃を繰り返すが、
未帰還者続出す。
川北大隊長は大隊本部・大隊段列・第8中隊の約60余名を率いて死闘を続けた。
昭和20年7月中旬 西第8中隊長が栄養失調により戦病死する。
他の者も衰弱甚だしかったという。
昭和20年7月31日 加藤幸吉主計中尉が、歩行可能な者を連れて食糧調達のため敵中突破を
試みたが、遂に全員帰還しなかった。
昭和20年6月~7月 マニラ東方・高千穂原で全員戦病死。
昭和20年8月18日 川北大隊長は当番兵の辻一等兵と二人になり、その後辻一等兵が戦死したため、
敵中に突入して戦死したとも単身拳銃自決したともいう。
(公報では川北大隊長の戦死は8月14日となっている)

(平成17年7月1日一部追記改訂)

第6中隊吉村隊の行動

ボソボソで放列を敷いたのを最後に、斬込隊、弾薬隊、糧秣隊に分散。
”高千穂原”からカリバ河に沿って南下。
9月13日、ファーミーの米軍に阪東兵長と他部隊の兵など約15名で投降。ここで終戦を知る。
9月14日、カランバの収容所に入る。(戦後生還)

第9中隊和田隊の行動

昭和20年1月 アンチポロにて河嶋兵団の指揮下から第105師団(勤兵団)砲兵隊の指揮下に
移され、5号国道を北上しバガパックの第105師団司令部へ急進する
マニラ~サンミゲル~カバナツアン~バレテ峠~サンタフェ
サンタフェの兵站監部で糧秣・馬糧・弾薬などを受領
サンタフェ~ソラノ
米機(P-38)約30機の空襲を受ける
昭和20年2月14日 任地のオリオン峠に到着
オリオン東峠を降りたところで陣地構築

第105師団(勤兵団)砲兵隊
隊長:漆山英人少佐
10榴×1個中隊(野砲兵第53連隊第3大隊第9中隊=和田隊)
野砲×1個中隊
速射砲×1個中隊
高射砲×1個中隊
機関砲×1個中隊

砲兵隊本部はバガパックに本部を置いていたため申告・命令受領に和田中隊長はオリオン峠からいちいち向かわねばならなかった。(往復2日かかる)
某日、馬糧蒐集の帰路、空襲により飛川貫一兵長以下数名が戦死。
その後、食糧不足のため軍馬が死に始め、死馬の肉は中隊の栄養源となる。
軍馬不足の補充のため水牛を徴発。
悪性マラリヤと熱帯潰瘍のため死者が出始める。
某日、森川政治上等兵(中隊随一の名二番砲手)は飢餓と病魔で戦病死。(享年24歳)

第9中隊第2小隊の行動

昭和20年5月末 米軍(米第35師団)バレテ峠を突破サンタフェに入る
ここで米第37師団と交代
米歩兵第129連隊・米第775戦車大隊、サンタフェを出発しアリタオへ向かう
昭和20年6月1日 サンタフェ~アリタオ間で日本軍の戦車撃滅隊敢闘(体当たり自爆攻撃)
米軍の進撃を3日間食い止める(通常は1時間の距離)
昭和20年6月5日 勤兵団砲兵隊から10榴・野砲・速射砲各1門を増援隊として出す
(指揮:野砲隊中隊長桑山中尉)
第9中隊(和田隊)からは第2小隊(長:小川少尉)の10榴1門を出す
他部隊はトラックで先行、10榴は水牛2頭に引かせ後から追う
昭和20年6月6日 米軍はアリタオを突破しバンバンに進出し北上を続ける
昭和20年6月7日 米軍がバヨンボンに進出

桑山中尉の増援部隊は北上中の米軍と衝突し潰走。
水牛索引の小川隊(川北大隊第9中隊第2小隊)はバガパック通過後敗走する桑山隊と出会い反転、バガパックへ戻る。
和田中隊(川北大隊第9中隊)本部はオリオン峠からバガパックへ移転。
小川隊に対し中隊へ復帰する命令を出すが、小川隊がバガパックに到着時には、中隊本部は兵団司令部と共にバガパックを撤収、キヤンガンへ移動後であった。

第9中隊第1小隊の行動

昭和20年6月10日 第9中隊第1小隊(指揮:指揮班長岸畑中尉)は中隊命令によりオリオン峠を撤収、
バガパックへ向かい中隊本部を追及中、バガパックを突破して北進中の米戦車群と
遭遇戦となる
岸畑中尉以下44名戦死、生存者21名は山中へ入りゲリラ戦を展開

6月4日にオリオン峠の北のサンチャゴへ食糧調達に行った渡辺丈泰兵長以下数名は、陣地に帰るも撤収後のため、バガパックへ本隊追及の途中、岸畑中尉の遺体を担いで後退中の中隊段列と出会う。
最早、本隊追及は不可能との報により、段列と行動を共にし、指揮班宿舎前に穴を掘って岸畑中尉を埋葬する。
その後、渡辺兵長は段列と別れ、北上してサンチャゴに至り、第103師団(駿兵団)に入り終戦を迎える。(戦後生還)

第9中隊段列の行動

昭和20年6月10日 中隊段列(西村曹長)は中隊本部と連絡が途絶したため、オリオン峠を出発し、
サンチャゴへ転進
途中、第103師団(駿兵団)の指揮下に入る
昭和20年6月12日 途中で敵の砲撃を再三受け、負傷者を出しながらもサンチャゴに到着
昭和20年6月15日 サンチャゴ~ポカリオンを経てマガット河に到着
途中、再三フィリピンゲリラの攻撃を受ける
マガット河を渡り山中に入る決意をして渡河するが、急流に2~3名が飲み込まれる
稲田軍曹他1名は衰弱のため渡河出来ず残置(後日この2名に再会)
昭和20年6月17日 カランプ東方5km地点に到着
この時、敵の集中攻撃を受け、松田兵長以下4名が戦死
昭和20年6月18日 サンタクルーズに到着
西村曹長以下30数名はここで自活生活に入るが、その後、ゲリラの襲撃と栄養失調
で約1/3の兵力を失う
昭和20年9月16日 サンタクルーズからサリヨクへ行った連絡兵から終戦を知らされ、サンタクルーズを
出発。
昭和20年9月25日 サリヨク~ナトニを経てベリークで武装解除を受ける

第9中隊第2小隊の行動

第2小隊はバガパックへ戻る直前に中隊を追及。
敵の砲爆撃で炎上するバガパックの街を見ながら山中に入り、ラムット河にぶつかる。
ここで最後の砲撃を決意。
観測班・通信班がいないので砲撃諸元の確定は不可能。
敵が集結しているであろうバガパックの街に向け手持ちの10発を全弾撃ち尽くし、眼鏡と閉鎖器を破壊して砲を放棄してラムット河を渡る。
渡河後、山道を数十km行軍し、中隊本部のあるレストハウスに到着。
ようやく中隊長の指揮下に戻る。

第9中隊(和田隊)の行動

昭和20年6月14日 命令により臨時歩兵に改編
和田中隊長以下40数名はレストハウスを出発
昭和20年6月20日 敵の砲兵放列陣地後方のヌエバビスカヤ州パヌクトパンに到着
ここで斬込隊を編成し、敵陣に斬り込みを敢行
昭和20年7月2日 敵の反撃を受け、斬込隊長を除く将校全員と下士官・兵約10名が戦死
昭和20年7月3日 命令により転進
山下大将の最後の拠点であるキヤンガンの複郭陣地に向かう
途中、飢餓と病魔で兵を次々と失う
レストハウス後方4kmのファームスクールで第105師団(勤兵団)混成砲兵部隊
の残存兵を第9中隊(和田隊)に編入する
昭和20年8月2日 キヤンガンの街を見下ろす北アンチポロの”鉢巻山”に到着
しかし、ここへ各地の残存兵が集まりだしてしまい食糧不足が決定的となる
昭和20年9月13日 命令により和田中隊長以下35名は山を降り、キヤンガンで武装解除を受ける

川北大隊戦没者数

部隊 戦没者数 生還者数
大隊本部 312名 3名
大隊段列 0名
第8中隊 0名
第6中隊 101名 7名
第9中隊 56名 35名
合計 469名
45名

※瑞穂丸遭難後、マニラで補充を得ていますが戦時名簿が無いため補充人員は不明(+αとする)


川北大隊に関する記述は、河原井清氏が平成11年4月11日作成された『野砲兵第53連隊第3大隊戦闘記録』を主に参考・引用させていただき、要点を抜粋して作成しました。

ビルマの本隊を追及した川北大隊はフィリピン沖で撃沈され、ルソン島に漂着後の行動・戦闘状況は全く不明で、戦史にも登場しない「幻の砲兵大隊」でした。
(公刊戦史には「その後ビルマへ追及した」と誤って記載されています)
上記記録は、終戦時、大本営特種情報部勤務で、原隊が野砲兵第53連隊であった河原井清氏が約50年の歳月を費やし調査されたものです。


砲兵の歌

1.襟には栄ゆる 山吹色に
  軍の骨幹こっかん 誇りも高き
  われらは砲兵 皇国みくにの護り

4.太平洋上 風浪高し
  鎮めよ海上 艨艟もうどうくだ
  われらは砲兵 皇国みくにの護り

6.大和魂 弾丸にこめて
  撃てよ世界の 夜明けの空に
  われらは砲兵 皇国みくにの護り


慰霊祭

野砲兵第53連隊第3大隊(川北隊)平成17年度慰霊祭

(滋賀県高島市今津町・陸上自衛隊今津駐屯地第2営舎)

遺族会「山吹を偲ぶ会」により平成17年4月10日(日)に開催されました。
会員数=正会員76名・賛助会員23名(平成16年12月現在)


(平成17年4月10日)
今津駐屯地


陸上自衛隊今津駐屯地
(第2営舎)
(滋賀県高島市今津町)

この駐屯地内に慰霊碑があります。



(平成17年4月10日)

慰霊祭


野砲兵第53連隊第3大隊(川北隊)平成18年度慰霊祭
(滋賀県高島市今津町・陸上自衛隊今津駐屯地旧第2営舎)


正会員・賛助会員・来賓、総勢70名の参加者をもって、平成18年4月9日に開催されました。


(平成18年4月9日)

平成20年度慰霊祭


平成20年度慰霊祭
(滋賀県高島市今津町・陸上自衛隊今津駐屯地旧第2営舎)


遺族会としての慰霊祭は今年が最後。
来年以降は、各自でお参りということになるそうです。


(平成20年4月13日)

 (関連商品のご紹介)

砲兵



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