(通称号:熊9216部隊)
編成地 | 編成時期 | 終戦時の上級部隊 | 終戦時の所在地 |
創設:札幌 改編:旭川 |
明治29年:独立野砲兵大隊として創設 明治32年:野砲兵第7連隊に改編 昭和15年:山砲兵第7連隊に改編 |
第7師団 | 北海道・十勝地区 |
明治29年12月1日、独立野砲大隊として札幌で創設。
明治32年10月、野戦砲兵第7連隊への改編に着手。
明治33年10月、旭川へ移転。
明治34年7月、連隊の編成完結。
(日露戦争)
明治37年8月動員下令。
旅順攻略戦に参加、その後、奉天会戦に参加し、明治39年3月に旭川に帰営。
大正6年2月、満洲に派遣され海城に駐屯。
シベリアに出兵し、大正8年4月に帰還。
(満州事変)
昭和7年9月、混成第14旅団に第2大隊を配属。
第2大隊は、討伐作戦に出動し、昭和8年2月からは熱河作戦等に参加した。
停戦協定後は、山海関、錦県に駐留し警備に当る。
昭和9年1月、連隊に満州派遣が下令。
連隊は承徳、錦県に駐留し、昭和10月に復員。
昭和11年2月、満洲に再度派遣され、昭和12年に復員する。
(支那事変)
昭和13年2月、満洲に派遣され、チチハルに駐留。
5月、応急派兵が下令され、混成第13旅団に第2大隊・第3大隊を配属。
旅団は済南の南方地区に進出し作戦に参加。
6月、任務を終えチチハルの連隊に帰還。
(ノモンハン事件)
昭和14年7月、応急派兵。
第1大隊が先発し、連隊主力は8月にハイラル経由で現地に入る。
第1大隊は8月下旬にホルステン河南岸地区の戦闘に参加。
連隊主力が到着したため復帰。
連隊はモホレヒ湖、アブダラ湖周辺に展開し火力戦闘を実施する。
10月、停戦協定後にチチハルに帰還。
昭和15年8月、内地に帰還。
旭川に帰還後、連隊は山砲兵連隊に改編。
その後、旭川で教育訓練および北方防衛に任ずる。
昭和18年5月、動員下令。
昭和19年3月、北千島防衛強化のため第2大隊を東支隊に配属させて幌莚島へ派遣する。
連隊主力は旭川から帯広へ移動し、道東防衛に任ずる。
連隊本部を池田町に置き、十勝地区で作戦準備中に終戦を迎える。
「北鎮砲兵発祥の地」碑 (札幌護国神社) (平成22年5月26日) |
【碑文】
北鎮砲兵発祥の地
札幌市長 板垣武四 書
我が、野砲兵第七連隊の前身独立野戦砲兵大隊は、日清戦争の後、三国干渉によって国論沸騰の中に、明治廿九年十二月札幌の地に創設され、記念すべき北鎮砲兵の殷々たる砲声は石狩河畔に轟き渡った。
明治丗二年十月、連隊の整備開始により、同大隊はそのまま第二大隊と改称し、新たに第一大隊が編成された。
明治丗三年十月、兵営を旭川に移転し、同丗四年七月連隊本部が開設されて、その編成の完結をみた。
茲に、砲兵発祥の地に記念碑を建立し、ゆかりある哨舎の保存と共に、永く先人の偉勲を偲ばんとするものである。
昭和60年6月吉日
砲七会
(裏)
昭和60年6月吉日建立
砲七会
会長 松家利男
会員一同
営門哨舎 (札幌護国神社) (平成22年5月26日) |
砲兵第七聯隊営門哨舎
本哨舎は昭和の初期、旭川野砲兵第7連隊営門に建設せられ、茲来 部隊警衛の中堅であり軍紀志気のシンボルである歩哨の立哨位置と戦時勤務に準ずる厳正な服務訓練行いたる記念建造物であり 勤務した哨兵は無慮十数萬と推定される。
砲兵第7連隊の前身である独立野戦砲兵大隊発祥の地として札幌に創設された記念碑と並び建立す。
(標柱・説明文より)
名称 哨舎
(1)
此の哨舎は旧旭川第7師団野砲兵第7連隊(北部第6部隊)衛兵所衛門前にあったものである
(2)
戦後28年風雪に耐え国から道へ旭川市から企業へそして又旭川市へと世の移変りと共に第7師団最後の築造物哨舎を所有者の御配慮陸上自衛隊の御支援により原形のまま思い出と永久保存の目的で此の地に移設した
(3)
哨舎とは兵団あるいは兵営の出入口に設けられ其の出入の者を警戒及び検問するため衛兵所より歩哨を配置するために設けられた
但し此の哨舎には平常これに入ることを許可されず特別の厳しい雨雪の時のみ使用を許可され亦歩哨は此の哨舎の位置より15歩以上離れることを禁じられていた
昭和48年7月25日移設
砲七会
(説明板より)
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