(別称:国安城・高館)
久慈郡水府村大字国安
この山は要害山と称し、この頂上(標高191.3メートル)に「山入城(国安城・くにやすじょう)」があった。
この城は、延元年間(1336年〜40年)西野民部大夫温通[にしのみんぶだゆうはるみち]がはじめて築いたといわれ、のちに山入師義[もろよし](佐竹貞義の七男)が修築して居城したと伝えられている。
師義は、山谷に住んだということから世人が山入と呼んだので山入氏を名乗ったとも言われている。
その後、佐竹本家の養子縁組のことから佐竹・山入氏の間が不仲になり、両家はことごとに争うようになった。
山入氏は、山入城を拠点として佐竹氏に対抗した。
「上杉禅秀[ぜんしゅう]の乱」の時も、山入城によった山入与義[ともよし](師義の二男)が佐竹氏の攻撃にあった。
そして、七年後、佐竹氏に攻略され、ついに応永二十五年(1418年)落城した。
しかし、山入氏は文明十年(1478年)頃、ふたたび勢力を挽回し、与義の孫の山入義真[よしざね](久米城を占領した義知[よしとも]の弟)は、山入城で態勢を固めて、佐竹氏に対抗した。
義真の子で山入義藤[よしふじ]・氏義[うじよし]父子も本家の佐竹義舜[よしきよ]を攻め、太田城を奪ってここに住した。
まもなく、義舜の反撃に遭い、氏義は捕らえられた。
(水府村文化財指定第1号 水府村教育委員会 水府村文化財保護審議会)
佐竹義舜の反撃後について・・・・
永正3年(1506年)、山入城は落城。城主・山入氏義は陸奥を目指して逃亡中に大子町の小川城主・小田野義村の次男、義正に捕らえられたそうです。。
そして、栃木県茂木の覚明院内で子供の義盛とともに斬られてしまったらしい。
その孫二人は幼少のため許されて僧になったそうです。
そのため山入一族は十代100年にして絶家してしまったそうです。
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山入城の遠景 |
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山入城の入口。
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結構歩きますよ。 |
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こんな道を歩きます。
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頂上に建つ立派な説明板。
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