明治17年(1884年)4月4日〜昭和18年(1943年)4月18日
新潟県長岡市 山本記念公園(山本五十六生家跡)でお会いしました。
山本五十六は明治17年(1884年)に長岡市玉蔵院町の旧長岡藩士族・高野貞吉の六男として生まれました。
このときはまだ山本の姓ではなく「高野五十六」という名前でした。
五十六と名付けられたのは父親の貞吉が56歳のときに生まれたからです。
後に旧長岡藩家老の山本帯刀家を継ぎ、「山本五十六」となります。
日本海海戦(日露戦争)では重傷を負いました。
昭和11年(1936年)海軍次官となり、米内光政海相とともに日独伊三国同盟に反対しました。
大東亜戦争(通称:太平洋戦争)開戦時には連合艦隊司令長官となって真珠湾攻撃を行いました。
昭和18年(1943年)4月18日、前線視察中に米軍機に搭乗機を撃墜され、ブーゲンビル島のジャングルに墜落、戦死してしまいました。
戦死後、元帥を追贈され国葬が行われました。
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山本記念公園内に建つ山本五十六の生家です。
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山本五十六記念館です。
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平成18年2月10日
茨城県稲敷郡阿見町・陸上自衛隊武器学校でお会いしました。
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山本五十六元帥像 (茨城県稲敷郡阿見町・陸上自衛隊武器学校) (平成18年2月10日) |
碑文
霞ヶ浦湖畔のこの地は かつて旧海軍飛行予科練習生揺籃の地 土浦海軍航空隊の一隅であります
往時 旧海軍は大艦巨砲主義が主流で 航空機は補助的兵器に過ぎませんでしたが 山本元帥は霞ヶ浦海軍航空隊副長時代夙に兵器として高い評価を下し その搭乗員養成と航空機産業充実発展に多大の貢献を果たし 海上戦闘の在り方を大きく転換させ 自らの慧眼を立証したのです
予科練は元帥を慈父と仰ぎつつ その中心的戦力となって各地に転戦し 元帥がニューギニアのブーゲンビル島南端 ブイン上空で機上戦死された以後は その仇討ちとばかり一機一艦の決死的死闘を展開しましたが 国力の決定的な差異は如何とも成し難く 遂に衆寡敵せず降伏を余儀なくされました
この度 海原会は元帥のこの歴史的事実を象徴させ 偉業を後世に伝承の為に元帥像の復元を決議し 会員有志のご芳志により 再びこの地にその再建を果たした所以です
平成16年2月吉日
財団法人 海原会
【ラバウル行きへの不満】
そもそも、連合艦隊司令長官が最前線で指揮を執ることはあまり意味は無く、山本自身、ラバウルに行くことについては、参謀に、「ニミッツ(アメリカ太平洋艦隊司令長官)はハワイで指揮をしているというのに、なんで自分はラバウルなんかに行くのだ」と不満を漏らしていた。
これは、実のところ、日本海軍の人事上の問題で、ラバウルで作戦の中心であるべき小沢治三郎が、同地の草鹿任一よりも後任であるために、作戦指揮の上で、思うように出来ない面があり、山本長官の直々の指揮を強く要請した事が原因であった。
(参考:戸高一成 著 『海戦からみた太平洋戦争』 角川書店 2011年11月初版発行)
(平成29年7月29日 追記)
山本五十六機撃墜 |
【暗号解読】
アメリカ海軍は、真珠湾攻撃の時点では、日本海軍の暗号JN25を殆ど解読できていなかった。
開戦後、アメリカ海軍は暗号・通信部(OP20G)の人員を大幅に増強、1942年(昭和17年)5月までに、JN25を9割方解読していた。
ミッドウェーで敗れた後も、日本は海軍暗号が解読されていることに気付かなかった。
日本軍は昭和18年(1943年)4月、「い号」作戦を実行した。
山本五十六長官は、「い号」作戦が一応の成功を収めたのを受けて、ガダルカナルの戦線に近いショートランド島方面の前線を視察し、兵員を激励したいと言い出した。
視察計画は4月18日とすることが決まり、5日前の13日、詳しい予定を盛り込んだ極秘電報が日本海軍暗号JN25で関係方面の守備隊、航空戦隊に通知された。
この暗号電報は米軍によって直ちに解読された。
翻訳を担当したのは、当時38歳の海兵隊中佐アルバ・ブライアン・ラスウェルである。
ラスウェルは1935年(昭和10年)から38年(昭和13年)まで語学将校として東京に在勤した経験があった。
陰の功労者、ハロルド・フデナンのことは長い間公の場で語られることがなかった。
フデンナはポートモレスビーに置かれていた米陸軍第5空軍138信号部隊の日系二世の2等軍曹である。
「山本長官前線視察」の暗号電報は全部で6通、前線の守備隊などに送られたことが知られている。
アメリカ海軍暗号・通信部(OP20G)はこのうち、最初の4月13日に送信された長い電文を解読したことがわかっている。
だが、ほかにどれを解読したかは明らかでない。
フデンナが米陸軍第5空軍副司令官イニス・ホワイトヘッド准将から見せられた電文は既にカナになっていた。
句読点は付いていなかった。
フデンナはこれを読んで、英文に翻訳した。
電文は発信地が不明で、山本長官の視察先の部隊に送信されたものだった。
ホワイトヘッド少将は山本機撃墜作戦を前に正確な意味を再度確認する必要が出て来てフデンナに確認させた。
実は米軍は、山本長官の視察は、米軍機をおびきよせるための「わな」ではないか、との疑惑も抱いていた。
だから、神経質になって、作戦機離陸の直前まで、その真偽の確認に努めたのである。
フデンナが確認してくれたおかげで、ホワイトヘッド少将は自信を持って、襲撃機の出動にOKのサインを出すことができた。
【ハロルド・フデンナ】
フデンナは日本人には珍しい名前だ。
両親は広島県出身の米国移民。
漢字では父は普傳名喜一、母は、はまの。
ハロルドは二男で1918年(大正7年)に生まれた。
父は15歳の時に死亡し、苦労したが、放課後日本語学校に通ったかいがあって日本語はよくできた。
1942年(昭和17年)末、ミネソタ州のキャンプ・サベージの陸軍日本語学校を「A3」の優秀な成績で修了した。
日本語学校は能力別に、A1からC3まで9クラスに分けられていた。
A1とA2は、帰米二世ばかりで、内地の日本人と変わらない日本語の能力の持ち主。
A3は日本で教育を受けたことのない二世としては最高のレベルのクラスだった。
ニューギニアでの1年間の信号部隊で任務の後、フデンナはマッカーサー司令部が置かれたオーストラリア・ブリスベーンの連合国軍翻訳通訳局(ATIS)に短期間勤務。
その後、ワシントンの陸軍航空情報部隊配属となり、三菱重工業や中島飛行機の工場に関する情報をまとめる作業に当たった。
これらの工場はB29爆撃機の戦略爆撃の対象となった。
終戦直後、ハロルド・フデンナは戦略爆撃調査団の一員として訪日、1946年(昭和21年)1月、除隊した。
戦後カリフォルニア大学バークレー校を卒業して3人の兄弟でビジネスを始めた。
社名はフデンナ・ブラザーズ社。
野菜を生産から輸送まで一貫して販売した。
同時に土地を買い集め、不動産デベロッパーとしても成功した。
1963年(昭和38年)には15エーカーを地元カリフォルニア州フリーモント市に寄付した。
現在市役所、市民センターがその上に建っている。
ハロルド・フデンナは地元のロータリークラブ会長も務めた名士だった。
1993年(平成5年)、フデンナは癌のため75歳で死去した。
フリーモント市は、その死を悼み、感謝決議を採決した。
山本長官機撃墜に関係した多くの白人将校が大きく昇進し、勲章をもらったのに、生前のフデンナは曹長になっただけ。
その後、秘密が解除され、フデンナの殊勲の事実が明るみに出て、1997年(平成9年)5月4日、初めて「勲功章」が遺族に授与された。
授賞式では、長男の裁判官のキース・フデンナが代わりに受け取った。
【撃墜の殊勲者】
山本長官機を撃墜して帰還したパイロットたちの中から「俺が山本をやった」と名乗りを挙げた者は3人いた。
トーマス・ランファイア、レックス・バーバー、ベスビー・ホームズの3人の中尉である。
前線の戦闘情報指揮官は、3人の申告通りに3人がベティ(一式陸上攻撃機の米軍コード名)を撃墜した、ということでおさめた。
その後の調査で、ホームズ中尉が撃墜したのは宇垣纏中将の機と判明。
1992年(平成4年)になって当時の空軍長官が「2人の殊勲」との裁定を出した。
だが、1997年(平成9年)、敵機5機以上を撃墜した誇り高いパイロットたちで構成する「空の勇士退役軍人協会」は、バーバー中尉の単独攻撃との判断を発表した。
(参考:春名幹男著 『秘密のファイル(上) CIAの対日工作』 共同通信社 2000年発行)
(平成23年6月27日追記)
山本五十六長官の護衛戦闘機 |
204空・零戦隊
第1小隊 | 1番機 | 森崎武中尉 |
2番機 | 辻野上豊光一飛曹 | |
3番機 | 杉田庄一飛兵長 | |
第2小隊 | 1番機 | 日高義巳上飛曹 |
2番機 | 岡崎靖二飛曹 | |
3番機 | 柳谷謙治飛兵長 |
昭和18年(1943)4月18日・午前9時35分
一式陸上攻撃機2機、護衛零戦6機に対し、待ち伏せしていた米軍のP38戦闘機が攻撃。
山本機撃墜の特命を帯びた攻撃隊4機(ランフィア大尉指揮)
上空直掩隊12機(ミッチェル少佐指揮)
午前7時45分〜50分
一式陸攻1番機(山本長官機)は火炎に包まれジャングルに突っ込む。
2番機は燃えながら、モイラ岬附近の海上に不時着水転覆。
山本長官の最期と謎 |
墜落現場第一発見者
第6師団歩兵第23連隊歩兵砲中隊第1小隊長・浜砂盈栄はますな・みつよし少尉
一番機は燃えながら降下角度5度〜7度でジャングルに突入し、約1,000メートル突進して不時着。
山本長官は座席と共に機外に放り出されており、左エンジンの下に、軍刀を握りしめて股間に立て、斜め右前方にのめるように静に倒れていたという。
山本長官の左斜め前方約3メートルに、軍医長・高田六郎少将がうつぶせになって、山本長官のほうへはい寄った形跡を残して絶命していた。
しかも他の遺体は黒焦げで蛆うじだらけなのに、この二人の遺体だけが焼けずに残り、蛆も極めて少なかったという。
このことから、山本長官と高田軍医長は不時着直後は生きていたのではないかという説が出た。
(平成16年7月18日記)
【芸者との恋愛】
昭和29年(1954年)4月18日、『週刊朝日』がトップ特集で故山元五十六元帥と芸者・河合千代子の恋愛物語を大々的に報道した。
山本五十六の熱烈な崇拝者である反町栄一氏は、この週刊誌を読むなり、血相を変えて上京し、旧知の岡村寧次ねいじ元陸軍大将を銀座桜田ビル(日本郷友連盟創設事務所)に訪ねた。
これは山本元帥を冒?するものであり、名誉を毀損するものである。断じて放置することは出来ない。起訴してもらいたい、と。
傍らに、たまたま小沢治三郎元海軍中将(海兵37期)が居合わせていた。
「あれはハシカのようなものだよ。山本さんは年を取ってかかったが、俺なんかは年がら年中ハシカにかかっていたよ」と前置きして、それから山本元帥にまつわる色々な話をして聞かせた。
反町氏はようやく怒りをしずめ、納得したようであった。
山本五十六がはじめて芸者・梅竜(河合千代子)を知ったのは、昭和9年(1934)9月、軍縮会議全権としてロンドンに出発する直前、同期の吉田善吾少将(当時・海軍省軍務局長)が新橋の料亭で二人を引き合わせたときである。
それから二人の恋愛は山本五十六が戦死するまで9年間続いた。
その後、反町氏は山本元帥に関する資料を集め、昭和32年2月に小沢治三郎を訪ねた。
「聖将山本五十六」あるいは「神将山本五十六」という題名の本を刊行したいが、意見を聞かせて欲しいというのである。
小沢治三郎は言下に「山本さんは決して神のような人物ではない。本人ももちろんそう思っていない。『人間山本五十六』として、内容も褒めすぎないよう、ありのままに書くのがよい」と答えた。
そして原稿を読み、ところどころ修正したり削除した。
(参考:生出 寿 著 『海軍おもしろ話《戦前・戦後篇》』 徳間文庫 1994年初版)
(平成27年12月10日 追記)
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