山梨県甲府市岩窪町608
平成25年9月10日
山梨県護国神社入口 (平成25年9月10日) |
参拝の道標
ここは平和の杜もりです。
このお社やしろは護国神社ごこくじんじゃと言います。
明治12年12月招魂社しょうこんしゃとして甲府市太田町に創建され昭和19年山梨県民の総意により護国神社と改称しこの地に御遷座ごせんざされました。
日本の平和と美しい山河や家族を護まもるために戦争で尊い生命いのちを捧げられた山梨県出身の約2万5千人余りの方々を、神様としてお祀まつりしてあります。
私たちが平和で豊かな生活を送ることが出来るのはこの人達の尊い生命の犠牲のおかげです。
「ありがとうございます」
と感謝の心をもってお参りしましょう。
これからも平和であるとともにご参拝により常識や道徳心を高め勤勉努力して、健康と強い心を養い自らを護り家族を護ることをお祈りしましょう。
山梨縣護國神社
(説明板より)
招魂斎庭 (平成25年9月10日) |
『愛の燈』碑 日本赤十字社山梨県支部 支部長 田辺国男 書 (平成25年9月10日) |
(碑文)
飯沼トヨジ
石川静江
岡部千鶴
五味梅子
清水■み子
中島八重子
野村も■子
深沢儀子
松木寿子
三浦キク子
水上澄子
第二次世界大戦に際し赤十字の旗の下に勇躍応召し 大陸の荒野にて傷病者の救護活動に献身し 愛と奉仕の使命に殉ぜられた日本赤十字社山梨県支部救護看護婦の方々の遺徳をしのび そのみたまのとこしえに安かれと祈ってこの碑を建立しました
平和のいしずえとして尊い命をささげられた私どもの同僚がこよなき誇りをいだきつつ かかげた愛のともしびの偉大さをしのび これを後世に永く伝えんとするものであります
1973年12月1日
日本赤十字社看護婦同方会山梨県支部
傷痍軍人之碑 山梨県知事 望月幸明 書 (平成25年9月10日) |
建碑の詞
我等は祖国の危急に際し、わが身を顧みる暇もなく国難に赴き、苛烈を極めた戦火の中に多くの戦友を失ない、自らは傷痍の身となって終戦を迎えた。
昭和27年同志相諮り、山梨県傷痍軍人会を結成、更に昭和35年妻の会の結成をみ、相寄り相扶け、傷痍を克服し、平和の願いをこめて、祖国の再建興隆につとめてきた。
傷痍の身を顧み、あれを思い、これを思うとき、傷痍軍人の事蹟をとどめるものは何ひとつないばかりか、永えの国の平安を希求する我等の心情を、後世に伝えるよすがとてもないことに思い至り、昭和54年8月15日傷痍軍人の碑建立の議を起し、心をひとつにする会員の善意を結集し、妻の会の協力のもと、戦没英霊の祀られるこの地に、平和の礎として完成をみるに至った。
昭和56年4月13日
山梨県傷痍軍人会
(碑文より)
山梨宮 (平成25年9月10日) |
祭神名 | 出身地 |
加賀美光章命 | 甲府市小河原 |
国学者 | 天明2年5月29日没 |
志村天目命 | 一宮町末木 |
心学者 | 文化14年1月12日没 |
長田円右衛門命 | 甲府市猪狩町 |
御岳新道開削者 | 天保14年完成 |
徳島兵左衛門命 | 東京都 |
徳島堰開削者 | 寛文11年没 |
関戸左近命 | 秋山村神野 |
郡内の義民大総代 | 延宝9年1月没 |
金子重右衛門命 | 一宮町金田 |
太析事件主唱者 | 寛政5年7月没 |
三沢重右衛門命 | 勝沼町綿塚 |
太析事件主唱者 | 寛政5年7月没 |
くり女命 | 一宮町南田中 |
節婦 | 享保13年7月没 |
(石碑・碑文より)
殉職自衛隊員顕彰之碑 国防忠魂 英霊にこたえる会内 堤 正弘 謹書 (平成25年9月10日) |
(碑文)
自衛隊殉職者の霊に捧ぐ
山梨の宮に霊は鎮まるも
おりおり帰れ 我が故里へ
荘厳たる境内 碑の前に立つ
殉国の精神 往年を憶う
大戦の雄図 空しく一夢
忠魂永しえに在り 山川を護るを
坂本清岳 作
平成14年9月吉日
山梨県隊友会
日本郷友連盟山梨県支部
建立
衣第3041部隊 慰霊の碑 (平成25年9月10日) |
碑文
衣3041部隊は、大東亜戦争勃発後の昭和17年4月 甲府東部63部隊に於て編成され北支那方面の治安維持、民生安定の警備に当たるために派遣されて、数多くの作戦に参加した。
この間、戦死、戦傷病死者多数の犠牲者を出した。
昭和20年7月、北朝鮮咸興地区に移駐直後終戦となり、同時にソ連軍の捕虜となって、将兵全員がシベリア抑留の身となった。
抑留将兵は体力の限界を越える零下40度余の酷寒と、飢えと、重労働のなか、さらに悪疫の流行によって悲しくも斃れた戦友の数は、全将兵1千名中、実に330余名の多きに達した。
これら戦友の鎮魂と永久の平和を祈念し、現存する元衣3041部隊戦友一同の名においてこの慰霊碑を建立す。
昭和63年10月6日
満蒙開拓青少年義勇軍之碑
満蒙同胞殉難慰霊碑
故満鐵李家義勇隊之慰霊碑
二井義勇隊之碑
硫黄島 戦没者慰霊碑 (平成25年9月10日) |
軍神若林東一顕彰碑 平成19年師走建之 軍神若林東一顕彰会 (平成25年9月10日) |
軍神若林東一顕彰譜
若林東一ハ明治四十五年西八代郡栄村(現南部町)ニ生ル、身延中学校卒業、現役兵トシテ甲府ノ歩兵第四十九聯隊ニ入営、下士官ヲ志願シ軍曹マデ進ミシガ、陸軍士官学校ヲ受験シ、昭和十一年四月入校、十四年九月卒業シ少尉ニ任官ス。
大東亜戦争勃発時ハ中尉ニテ、第三十八師団歩兵第二二八聯隊第十中隊長トシテ参戦セリ。
香港攻略ニアタリ、第二十三軍ハ九龍半島ノ要塞地帯攻撃ニ、強力ナル砲兵ヲ以テ徹底的ナル砲撃ヲ行イタル後、若林ノ属スル師団ヲ攻撃前進セシムル計画ナリシガ、若林中隊長ハ偵察ニ出テ敵配備ノ欠陥ヲ発見シ、自己ノ中隊ヲ以テ独断突入シテ要点ヲ占領セリ。
聯隊ツイデ師団モ攻撃発起シ、作戦ノ進捗ヲ一週間モ早ムルヲ得タリ。
十七年十一月師団ハ南太平洋ノ孤島ガダルカナルニ転用セラレ、若林中隊ハ十一月五日駆逐艦ニテ上陸シ、見晴台ト呼ブ要点ノ確保ヲ命ゼラル。
ガ島ニハ既ニ第二師団ガ上陸シアリシガ、補給続カズ悲惨ナ状況ヲ呈シアリ。
若林中隊ハ熾烈ナル砲撃ニ耐エタルニ、陣地ヲ固守シ一歩モ引カズ。
後に続く者を信ず ノ一語ヲ残シ翌十八年一月十四日戦死ス。
コノ一語 当時全軍ニ伝エラレ士気ヲ鼓舞セリ。
(掲示板・掲示資料より)
山梨県海軍戦歿者 慰霊碑 山梨県知事 天野 建 書 (平成25年9月10日) |
碑文
山梨県海交会は太平洋戦争終結50周年にあたり祖国の繁栄と不滅を念じて殉国の英霊となられた県内海軍戦没者四千七百二名の純真な気持ちを永久に顕彰するため山梨県護國神社の聖域に慰霊碑を建立し後世までの遺徳を偲び感謝の誠を捧げるものである
平成7年11月3日
山梨県海交会会長 塩川光男
鵄3063部隊戦没者鎮魂之碑 (歩兵第149連隊)
戦没者納骨堂 (平成25年9月10日) |
戦没者納骨堂の由来
本県出身戦没者のご遺骨を奉安する納骨堂建立の構想は昭和18年頃から始まり、昭和20年甲府市岩窪町つつじが崎の旧陸軍墓地内に旧陸軍の手によって建設が決まりました。
しかし、これは完成をみないまゝに終戦となり、陸海軍は解散し、納骨堂も特殊物件として大蔵省に移管されました。
当時占領治下の厳しい監視の中で県はその修復やご遺骨の整理奉安などに努力を続けてまいりました。
昭和27年講和条約の発効とともに、県民の間に英霊鎮護の気運が高まり、その後幾多の経緯を経て昭和38年に至って、ようやく納骨堂が甲府市に払下げられることになりました。
以来納骨堂の祭祀、維持管理は、関係者の協力を得ながら県が当ってきましたが、建物は次第に老朽化してまいりました。
そこで県では、終戦30周年記念事業の一環として納骨堂の移転新築を決定いたし、現在地に敷地面積357平方米、建物面積90平方米、総工費1千3百万円を費やして、昭和50年11月に着工、昭和51年4月にその完成をみたものであります。
この納骨堂には、わが国の発展と平和の礎となられた、元歩兵第49連隊、東部第63部隊をはじめ本県出身の戦没者の分骨5315柱、霊じ24,915柱を謹んで奉安してあります。 以上
昭和51年4月
(説明銘板より)
奉献 灯籠 独立混成第8旅団独立歩兵第35大隊 北支派遣春第2985部隊 春五山梨県戦友会 平成元年3月 吉日 (平成25年9月10日) |
奉献 灯籠 奉献 元歩兵第49聯隊山梨四九会 (平成25年9月10日) |
奉献 灯籠 元海軍乙種飛行予科練習生雄飛会山梨県人会
奉献 灯籠 元陸軍少年飛行兵山梨県少飛会
奉献 灯籠 元独立混成第17旅団歩兵第88大隊 峯二部隊五月会 (平成25年9月10日) |
永慶寺跡 (山梨県護国神社敷地内) (平成25年9月10日) |
龍華山永慶寺
この寺は、はじめ穏々山霊台寺といい、甲府城主柳沢吉保公が自らの菩提寺として悦峰禅師を開山に、宝永5年(1705)この地に建立した黄檗宗の寺である。
寺領370石、正徳4年(1714)吉保公を、前年に同夫人を葬った。
家督を相続した吉里は、享保9年(1724)大和郡山に転封となったため、これに伴って吉保公夫妻の墓を恵林寺に改葬して寺を廃し、新たに大和郡山に永慶寺を建立した。
当時の永慶寺は、「甲陽柳秘録」に「殿堂甍並べ、門楼高く聳えて、風景国郡に冠たり」と見え、七堂伽藍を備えた美麗を極めたものであった。
ここに永慶寺に関連する礎石、石塔等を集め、寺跡碑を建てる。
(碑文より)
柳沢吉保公 菩提寺 黄檗宗 龍華山永慶寺址之碑 (山梨県護国神社敷地内) 平成15年7月吉日 建立 (平成25年9月10日) |
龍華山永慶寺跡
護国神社の境内とその周辺は、江戸時代に老中首座として幕政を担った柳沢吉保の菩提寺「龍華山永慶寺」の建てられた所である。
将軍徳川綱吉の信任厚い吉保が、小姓から異例の出世を遂げて甲斐三郡の領主に任ぜられたのは宝永元年(1704)のことで、その翌年から永慶寺の造営が始まっている。
永慶寺は当初、穏々山霊台寺と称したが、地形普請の終了した宝永5年に龍華山永慶寺と改められた。
以後、京都万福寺の大工秋篠家や甲府・下山・江戸の大工を動員して伽藍の建設が進められ、宝永7年に完成した。
永慶寺は禅宗の一派である黄檗宗の寺院であり、同宗本山の京都万福寺8代悦峯禅師を開山祖に迎えている。
永慶寺の伽藍は甲斐国第一を競う規模で、仏殿を中心に北に方丈、東に斎堂、西に禅堂、南に天主堂と惣門を配するなど、万福寺の伽藍配置を模倣したことが分かっている。
正徳4年(1714)に吉保が57歳で没すると江戸から永慶寺に運ばれて埋葬された。
吉保の正室定子と側室(嫡子吉里の母)もこの寺に葬られている。
永慶寺の諸堂は、享保9年(1724)に行なわれた吉里の大和郡山(奈良県大和郡山市)への所替えに伴い取り壊されたが、寺は郡山城の近くに再建され、現在に至っている。
なお、解体された永慶寺の仏殿は、大泉寺の本堂として移築されたが、江戸時代に焼失した。
平成4年1月 相川地区文化協会
(説明板より)
永慶寺跡 (山梨県護国神社敷地内) (平成25年9月10日) |
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