郡山城 こおりやまじょう

奈良県大和郡山市城内町


郡山城 平成19年4月11日

県指定史跡 郡山城跡

郡山城は、天正6〜7年(1578〜1579)に筒井順慶が縄張りをおこない、同8年の一国一城令に基づき拡張、同11年には天守閣も完成をみた。
同13年、豊臣秀長が入部してさらに拡張され、文禄5年(1596)には増田長盛による秋篠川の付け替えが行なわれ、外堀を一周させ、城下町の完成をみるに至った。
関が原戦後、長盛が改易され、大阪夏の陣以降、水野勝成が、さらに松平、本多が入城し、享保9年(1724)以降、幕末まで、柳澤15万石の居城として栄えた。
現在のこる縄張りは、秀長時代のもので、左京堀、鰻堀、鷺堀で囲まれた本丸、二の丸、三の丸などが城内で、それ以外の外堀に囲まれた地域が城下となる。
なお、史跡として指定されているのは、本丸、毘沙門曲輪、法印郭、玄武郭、陣甫郭及びその内掘りである。

指定年月日 昭和35年7月28日
奈良県教育委員会

(説明板より)

追手向櫓と多聞櫓



追手向櫓と多聞櫓







(平成19年4月11日)

追手向櫓おおてむかいやぐら

追手門(梅林門)を守るための櫓で、本多氏時代(1639〜1723年)は大手先艮角櫓おおてさきうしとらすみやぐらと呼ばれていました。
追手向櫓と呼ばれるようになったのは、柳沢氏入城後(1724年)のことです。
櫓は明治6年に取りはらわれましたが、記録によると、下重(1階)は4間2尺に5間、上重(2階)は2間四方の二重櫓であったと伝えられています。

昭和62年3月吉日
大和郡山市教育委員会

(説明板より)

追手門




追手門






(平成19年4月11日)

郡山城ならびに追手門の由来

筒井順慶が織田信長の後援によって、松永弾正久秀を破り、宿願の大和統一の偉業をなし遂げて、天正8年(1580)11月12日郡山にはいり、築城に着手している。
しかし、本格的な郡山築城は、天正13年(1585)9月に、大和、和泉、紀伊3ヶ国の太守として豊臣秀長が知行高百万石をもって入城してからのことである。
そのとき追手門もこの場所に築かれたものと思われる。
秀長なきあと養子秀保、増田長盛とうけ継がれたが、慶長5年(1600)関ヶ原の戦が起き、長盛は豊臣傘下として西軍に味方し大阪を守った。
戦は西軍の敗北となり、郡山城は徳川方に接収されて、城は取り壊しとなり、建物のすべては伏見城に移された。
廃城となった郡山の地は、代官大久保石見守長安、山口駿河守直友、筒井主殿頭定慶らが相次いで城番となり、預っていた。
慶長19年(1614)大阪冬の陣が起こり、藤堂高虎は10月25日、郡山に着陣し、戦闘配置についたものの、東西の和議が整い事なきを得た。
翌元和元年(1615)4月大阪夏の陣の際時の城番筒井主殿頭は大阪方の誘いを断り、徳川方に味方したので大阪方の攻撃に遇い、福住に逃れた。
5月8日大阪落城を知った定慶は、士道に恥じて切腹して果てたといわれている。
戦後の論功において戦功第2となった水野日向守勝成が、6万石をもって郡山に封ぜられたけれど、城郭は全く荒れ果てていたので、石垣や堀の修築は幕府直轄事業とし、本丸御殿、家中屋敷などの家作は勝成の手で普請を進めた。
しかし、在城わずか5年で備後福山城に移され、かわって戦功第1の論功を受けた大阪城主松平下総守忠明が、元和4年(1618)10月、12万石をもって郡山城主となった。
そのとき城には十分な建物とてなく、家康の命によって諸門を伏見城から再び郡山に移したので、近世郡山城の偉容は整った。
追手門もその一つで、当時はこの門を一庵丸門と呼んでいた。
その後、本多内記政勝、政長、政利、松平日向守信之、本多下野守忠平、能登守忠常、信濃守忠直、唐之助忠村、喜十郎忠烈と続き、忠烈嗣なく本多家は断絶となった。
享保9年(1724)3月11日、禁裡守護の大任を帯びて15万石余をもって甲府城から郡山に移封なった柳澤甲斐守吉里は、一庵丸門を梅林門と名を替え、城は美濃守信鴻、甲斐守保光、保泰、保興、保申とうけ継がれ明治維新を迎えて廃城となり、すべての建物は取り払われてしまった。
近時郡山城復興の声が高まり、第一次として市民の手による追手門が秀長築城にふさわしい姿で復原された。

昭和58年11月2日
大和郡山市


(説明板より)

法印郭



法印郭







(平成19年4月11日)
追手東隅櫓



追手東隅櫓
(法印郭)





(平成19年4月11日)

追手東隅櫓

この櫓が今の名に替えられたのは、柳澤氏入城後で、それまでは「法印斜曲輪巽角櫓ほういんななめのくるわたつみすみやぐら」と呼ばれていた。
豊臣秀長入城時(1583年)に筆頭家老で5万石を食んでいた桑山一庵法印良慶の屋敷がこの曲輪に構築されていたのでこの曲輪を法印郭(曲輪)または一庵丸と呼ぶようになった。
古絵城図によると櫓は二重で、下重が2間5尺に3間2寸5分、上重が2間2尺に2間5尺、(このときの1間は6尺3寸(197センチメートル))郡山城の櫓のなかでは一番小型に属している。
構造として窓が5ツ、石落しが2ヶ所、鉄砲狭間が6ヶ所設けられていた。
古絵城図のなかに、この櫓の図の肩に「今太鼓櫓」と註記されているのがある。
これは当時、櫓に太鼓を据え付けて、刻を知らせたり、変を知らしていたためである。

昭和59年11月吉日
大和郡山市教育委員会

(説明板より)

旧奈良県立図書館



旧奈良県立図書館

(法印郭)





(平成19年4月11日)

建造物「旧奈良県立図書館」

所在地 大和郡山市城内町
所有者 大和郡山市

明治41年(1908)、日露戦争の勝利を記念して奈良公園に建設された本県最初の県立図書館で、昭和43年、現県立図書館の新築に伴い、本館のみが大和郡山城跡に移築保存され、市民会館として活用されています。
旧県立図書館は外観を和風に、内部を洋風にまとめられ、このようなデザインは奈良公園一帯における風致景観論争のなかで示された考えに基づくものです。
このように旧奈良県立図書館、当時の近代和風建築の一つの流れを示すものとして、また本県における数少ない明治期の公共建造物として貴重であります。

(説明板より)

ご案内

この建物は、もと県立奈良図書館として、明治41年、奈良県技師橋本卯兵衛氏の設計により建てられた木造瓦葺二階建、外観は日本古代建築を模した堂々たる建物でした。
このような由緒ある建物と財団法人柳澤文庫の協力を得て昭和45年4月ここ郡山城址法印郭に移築し内部改造を加え市民の集会等に利用されています。
周辺は、市民運動により昭和58年追手門、昭和59年追手東隅櫓、多聞櫓、昭和62年追手向櫓が再建され城址公園にふさわしい景観をつくっています。
尚、平成9年3月には県指定文化財となり、文化的にも貴重な建物です。

(説明板より)

法印郭




法印郭






(平成19年4月11日)
本丸の石垣
柳澤神社



柳澤神社

(本丸)





(平成19年4月11日)

柳澤神社 御由緒

御祭神 柳澤美濃守吉保公
創 建  明治13年
例祭日 11月2日
境内地 1583坪
主要建物  本殿(銅板流破風造)
        中間付拝殿(割拝殿)
        鳥居 神明鳥居 手水舎 社務所 参集殿
        祖霊社 柳澤吉里公外

御祭神 柳澤吉保公
5代将軍綱吉公の幕臣となり、元禄元年1万石を与えられ側用人となる。
英俊敏捷にして学を好み、将軍綱吉公の意をよくとらえ元禄7年には武蔵国川越城主で老中格となる。
宝永元年、甲府城主となり表高15万石を与えられる。
民の疾苦を問い、強く仁政を施し名士も多く細井廣澤、荻生徂徠は最もよく知られるところである。
「御子柳澤吉里公が甲府より郡山に国替えとなり、柳澤藩が15万1千石余の大名として6代140年、明治維新まで続いた。」
宝永6年綱吉公の死後、東京駒込(六義園)に移り引退、正徳4年11月2日没す。
享年57歳。

(説明板より)

大和郡山の金魚



大和郡山の金魚

「お城まつり」で神社前に展示されていました。




(平成19年4月11日)

大和郡山の金魚

「郡山の金魚」は古い歴史をもっています。
はっきりした史料はありませんが、享保9年(1724)に郡山城主の柳沢吉里公が甲斐の国(今の山梨県)から、観賞用として持ち帰ったのに始まると伝えられています。
初めの頃は、観賞用としてその飼育を武士に奨励し、江戸末期には武士の内職として邸内で飼われました。
それが明治維新とともに本業にする人も多くなり、同時に農家の副業として発展、全国一の生産地としてその名を誇ってきました。
また、大和に多い溜池には、金魚の稚魚の飼料になるミジンコ類などが天然に発生するなど立地条件に恵まれたこともあって、養殖が盛んに行われました。
養殖面積は約100ヘクタール、年間生産量は約8000万尾生産しています。

(仮設説明板より)

天守台
さかさ地蔵



さかさ地蔵

(天守台)





(平成19年4月11日)

さかさ地蔵

大和郡山城の本格的な築城は、天正13年(1585)、豊臣秀長が入部して100万石の居城にふさわしい城造りがなされようとしたことに始まります。
天正15年には紀州根来寺の大門を郡山に運んで城門とし、春日神社の水谷川から大石を切り出し郡山に運び込まれました。
又、翌年には、築城のための石不足で奈良中に五郎太石(石垣裏込め用)の採集を命じるほか、寺々の庭石や礎石、五輪塔、石地蔵などを接収しました。
この天主台周辺の野面積みの石垣には、平城京羅城門の礎石や、石地蔵、五輪塔などがおしげもなく積み込まれています。
さかさ地蔵もこのうちの一つで、石造地蔵菩薩立像が逆さに積み込まれているので「さかさ地蔵」と呼ばれています。
地蔵は、左手に宝珠を持ち、右手に錫杖を持っています。
仏身は約90センチメートルの立像で大永3年(1523)癸未7月18日の刻銘があります。
さかさ地蔵の隣に数多く置かれている石仏は、路傍に忘れ去られた野仏や都市開発工事で掘り出されたものなどを、誰とはなしにここに運んだものです。

(説明板より)

毘沙門曲輪



柳沢文庫
(毘沙門曲輪)





(平成19年4月11日)
柳沢文庫



柳沢文庫
(毘沙門曲輪)





(平成19年4月11日)

柳沢文庫

柳沢文庫は、最後の藩主柳沢保申(やすのぶ)の跡を継いだ保恵(やすとし)が、明治35年(1902)4月に堀之側にあった邸宅の一部を開放して郷土の教育振興のために所蔵する書籍、雑誌、新聞などを公開したことに始まります。
しかし、昭和に入り、利用者の減少とともにその維持が困難となり、文庫開設とともに廃止のやむなきにいたりました。
その後昭和35年(1960)秋、郷土の子弟教育のさらなる発展を願う有志と柳沢保承(やすつぐ)の発意によって財団法人郡山城史跡・柳沢文庫保存会が発足し、翌年秋に現在の地に地方史誌専門図書館として柳沢文庫が開設され、城跡の保存管理にもあたっています。
本館には、財団発足とともに柳沢家から寄贈された柳沢歴代藩主の書画や和歌、俳諧などの作品や郡山藩の公用記録をはじめとする藩政史料など数万点にのぼる古文書、古典籍の他、奈良県下および柳沢家関連地域の自治体史や歴史・文学系を中心とした一般書を所蔵しています。
これらの蔵書を研究のため広く公開する他、展示室では年数回の企画展・特別展を実施し、館蔵品や市域の文化財を公開するなど、市民や研究者のみなさんのための歴史文化学習センターとしての役割を果しています。

【休館日】
毎週月曜日、祝日(月曜日が祝日の場合は、翌火曜日も休館)
お盆休み、年末年始
※展示替えなどの休館もあります。
【開館時間】
9時〜17時(入館は16時30分まで)
【入館料】
一般 200円
70歳以上、中学生以下と身体障害者の方は無料。
※特別展入館料は別に定めます。

(『柳沢文庫のしおり』より)


【郡山城】

郡山城は、佐保川の支流である秋篠あきしの川と富雄とみお川の中間に突き出た台地上に位置する。
そのあたりは、かつて平城京右京の南京極に接しており、奈良時代には薬園が営まれていたという。

この地に初めて城を築いたのは、郡山衆と呼ばれる土豪の一人、小田切おだぎり氏である。
築城時期は、まもなく戦国という明応年間(1492年〜1501年)の頃で、以後、天正年間(1573年〜92年)の初年まで、小田切氏4代が6千石を領して居城した。

郡山城が、戦国城郭としての規模を備えるようになったのは、筒井順慶つついじゅんけいが城主になってからである。
順慶は筒井城(大和郡山市内)の城主・筒井順興じゅんこう(順昭じゅんしょう)の子で、天文18年(1549年)に生まれた。
父・順興は、もと興福寺の衆徒で、いわば僧兵隊長といった役どころだったが、戦国の風雲に乗じて還俗げんぞくし、切り取り合戦に精を出した人物である。
当時、大和国(奈良県)には傑出した大勢力がなく、郡山衆のような土豪が党を結び、あるいは反目して蜂の巣を突いたような乱戦を繰り広げていた。
そのため、順興は死に臨んで、自分とよく似た盲目の琵琶語りの木阿弥もくあみを替え玉に仕立て、3年間、喪を秘するようにと遺言した。
この遺言は守られて、3年後に木阿弥は元の地位に戻ったが、「もとの木阿弥」という表現は、これによって生まれたといわれる。

順慶は長じてのち、信貴山しぎさん城主の松永久秀と激しく対立するようになった。
順慶が織田信長に臣従したのに対し、久秀は信長に楯突いたことから、久秀は天正5年(1577年)10月、信長によって攻め滅ぼされる。
このため順慶は、棚ぼた式に大和一国の管理を任されるという幸運に恵まれ、天正8年には信長から正式に大和20万石の大名に任命された。
この時、信長は一城を残して本拠とし、大和国内の他の諸城は全て破却せよと順慶に命じた。
結局、順慶は郡山城を選んで、代々の居城である筒井城を取壊し、郡山城の大々的な修築に乗り出す。
この大修築には、明智光秀が積極的に助力したという。

郡山城の石垣は、粗雑な「野面のづら積み」で、順慶が徴発したとされる石造品には、平安京羅城らじょう門の礎石・五輪塔・石地蔵などがある。
石地蔵のなかには、石垣の表面にちょうど逆さに嵌め込まれているのがあり、これはいま「逆さ地蔵」と呼ばれて信仰の対象になっている。

次の城主の豊臣秀長は秀吉の異父弟で、天正13年、大和・和泉いずみ(大阪府)・紀伊(和歌山県)の3ヵ国百万石の太守たいしゅに任じられ、郡山城を本城とした。
それだけに、郡山城の修築にかけた意気込みは凄まじく、例えば国中の労務者を動員して紀伊根来寺の大門を解体し、それを運んで城門としたり、春日大社の神域・水屋みずや川から大石を切り出したり、付近の大寺院に命じて五輪塔・石地蔵・庭石から礎石にいたるまで供出を命じるといった具合である。
順慶は修築の際に天守を築いたが、それを秀長が取壊し、その後なぜか郡山城に天守は再建されなかった。

権門・社寺に対しては容赦なかった秀長も、城下の住人にとっては、ありがたい城主だったようだ。
秀長は、奈良の町での商売を禁止して、城下に商人を集住させ、地租を免除するなど、郡山を奈良に代わる大和随一の豪華な町に仕立てようと努めたからである。
秀長は入部から6年目の天正19年に病没したが、領民は長く秀長の徳を慕い、その墓に50年ごとに集まって法要を営んできた。

郡山城の修築は秀長の代にも完成せず、結局、次の城主・増田長盛ましたながもりが総仕上げの任にあたった。
今も市内の各所に残る外堀は、文禄4年(1595年)に長盛がその総仕上げとして城下町の外郭に設けた総延長5.5キロの総堀普請の跡である。

その後、郡山城主は長盛が関ヶ原の合戦で西軍に加担して敗れ、高野山に蟄居ちっきょした後、水野・松平・本多・柳沢氏と替わった。
今、大和郡山の特産となっている金魚の養殖は、柳沢氏の家臣・横田又兵衛が指導したことに始まるという。

(参考:百瀬明治 著 『日本名城秘話』 徳間文庫 1995年1月初刷)

(令和2年7月11日 追記)


郡山藩・郡山城・城下町関係略年譜
和暦 西暦 記事
平安末期   この頃「郡山」の名が現れる。
文明 7 1475 郡山中氏が郡山辰巳氏と戦い戦死する。
明応 2 1493 郡山衆向井氏、郡山に居城を築く。(カキ上ゲ城)
永正 2 1505 赤沢朝経が大和に侵入。
西脇衆が郡山城に籠城するも、2日後に落城する。
天正 2 1574 郡山衆「宮内殿」(小田切氏)が現在の郡山城本丸あたりに居城を築く。
天正 7 1579 筒井順慶、本拠地を筒井城から郡山城へ移す。
天正 8 1580 織田政権により大和国破城令が発布され、郡山城を除き他の城郭が破却される。
筒井順慶により郡山辰巳氏が成敗される。
天正 9 1581 明智光秀の監督を受け、郡山城の大規模築城工事が行われる。
天正12 1584 筒井順慶死去。
天正13 1585 筒井順慶の養子・筒井定次が伊賀へ国替えとなる。
豊臣秀長(豊臣秀吉の弟)が播磨国出石から大和ほか百万石で郡山に入部。
秀長の命令で根来寺の大門が移築され、郡山城大手門となる。
領内では郡山の他での商売を禁止する。
また、箱本制度という自治制度を作り、城下町の発展に力をつくす。
天正15 1587 奈良市中に郡山城改修資材として五郎太石20荷の供出が命じられる。
天正年間   本丸・毘沙門郭・法印郭・麒麟郭・緑郭・玄武郭などがこの頃に完成。
天正 9 1591 豊臣秀長死去。養子の秀保が家督を相続。
文禄 4 1595 豊臣秀保死去。豊臣秀長家断絶。
増田長盛(五奉行の一人)が20万石で郡山に入部。
慶長年間   この頃、外堀工事が完成する。
慶長 5 1600 関ヶ原の合戦で西軍(石田三成)に与した増田長盛が改易となる。
郡山城は一旦廃城となり、その材木などは伏見城再建に使用される。
郡山城は幕府の代官(大久保長安・山口直友)の支配地となる。
慶長19 1614 筒井定慶、徳川家康に1万石を与えられ郡山城を預かる。
元和 1 1615 大坂夏の陣で大坂方浪人・箸尾氏などの攻撃を受けて城下町が焼き払われる。
筒井定慶は東山内に逃亡。
三河刈屋城主・水野勝成(徳川家康の重臣)が6万石で郡山に入部する。
本丸御殿・三の丸などが復旧される。
元和 5 1619 水野勝成、備後福山に国替えとなる。
大坂から松平忠明(徳川家康の孫)が12万石で郡山に入部する。
郡山城の本格的な修復改修普請実施。
二の丸屋形を造営、鉄門・一庵丸門・桜門などが伏見城から移築される。
寛永16 1639 松平忠明、播磨姫路に国替えとなる。
姫路から本多政勝(本多忠勝の子孫)が19万石で郡山に入部する。

政勝は「鬼内記」などと呼ばれた名君。
武芸を奨励、家格を重んじ、家風に合わない藩士には暇を出すという徹底した方針。
寛文10 1670 大火災発生、武家屋敷24軒、民家200軒が焼失。
寛文11 1671 本多政勝が江戸で死去。
政勝の跡目をめぐって『郡山九六騒動』が起きる。
延宝 7 1679 本多政長が死去する。
養子・本多忠国は3万石を加増され陸奥福島に国替えとなる。
徳川氏の一族・藤井松平氏出身の松平信之が8万石で郡山に入部する。
この頃、大破していた本丸屋形などが撤去される。
延宝 8 1680 大火災発生、民家670軒焼失。
罹災者に郡山藩より救米200石が与えられる。
貞享 2 1685 松平信之が老中に任じられ下総古河に国替えとなる。
宇都宮から12万石で本多忠平が郡山に入部する。
元禄12 1699 大火災発生、寺院をはじめ民家920軒が焼失。
救米1000石あまりが放出される。
元禄15 1702 本多忠直、父・忠常の遺領を相続するが1万石を減じられ11万石となる。
享保 3 1718 享保の飢饉始まる。城下町に2000人あまりの飢民があふれる。
忠直の跡を継いだ本多忠村がわずか13歳で死去。
弟の忠烈が相続するが、幼少のため旧領のうち5万石の領地のみ認められる。
享保 8 1723 領地高半減により、家中の半数に暇を出す。
本多忠烈、江戸にて8歳で死去。本多家断絶する。
享保 9 1724 柳沢保里が甲府より15万石で郡山に入部する。
民政に力を入れ、城下町整備に努め、寺子屋も奨励する。
延享 2 1745 柳沢保里、死去。
柳沢伊信(後の信鴻)が跡を継ぎ柳沢郡山藩第2代藩主となる。
安永 2 1773 伊信が隠居し、安信(後の保光)が家督を相続し第3代藩主となる。
安永 3 1774 大火災発生、雑穀町などが焼ける。
安永 6 1777 城下で米騒動が起こる。
天明 4 1784 この頃、凶作が続き、城下の飢民に施行米が度々下される。
天明 7 1787 大飢饉となり、城下でも打ち壊し騒動が起きる。
寛政 3 1791 大風雨により武家屋敷78軒、民家100軒が倒壊する。
文化 8 1811 保光が隠居し、保泰が家督を相続し第4代藩主となる。
天保 9 1838 保泰死去。保興が家督を相続し第5代藩主となる。
嘉永 1 1848 保興が隠居。保申が家督を相続し第6代藩主となる。
嘉永 7 1854 大地震発生、100軒あまりの家屋が倒壊、150人あまりが死亡する。
安政 5 1858 郡山城二の丸屋形が失火により焼失。
明治 2 1869 版籍奉還。柳沢保申は郡山藩知事となる。
明治 4 1871 廃藩置県により郡山藩廃止。新たに郡山県が設置される。
明治 6 1873 郡山城、入札にかけられ解体される。

(郡山城史跡・柳沢文庫保存会発行『郡山城と城下町』を参考に調製)

【郡山】
郡山は統一政権の全国支配にとって重要な土地であり、とりわけ軍事上重視されていた。
郡山には、京都・奈良・大坂などを守ために、出馬して陣頭指揮を執る藩主とこれを支える多数の武士で構成される家臣団が必要とされた。
こうした理由から、江戸時代の郡山には譜代藩が置かれ、城と城下町が存在したのである。
【郡山藩】
郡山藩は、基本的には京都大名火消しと奈良の防衛を勤めることを主たる任務・役割としていた。
京都大名火消しの重要な任務は、藩主在国中1年間は他藩と1ヶ月交代で京都壬生にある藩邸に300人前後の藩士らが常駐して月番を勤めることと、天皇の避難時にはこれに随行し、その警固を行うこと。
また、奈良の防衛の任務の中には一乗院門跡の警固も含まれていた。
そのほかに江戸城大手門番・桜田門番、朝鮮通信使饗応役などの役割を幕府から命じられて勤めていた。
このような多くの重要な役割を担うため、郡山藩には、譜代大名の中でも名門と呼ばれる大名家が配置された。

郡山城史跡・柳沢文庫保存会発行『柳沢文庫07年度春季企画展示解説資料・江戸時代の郡山と奈良』より抜粋)

柳沢歴代藩主

*藩祖
柳沢吉保よしやす(柳沢・川越藩初代藩主 柳沢・甲府初代藩主)
貞享2年(1685)、小納戸役上席こなんどやくじょうせき(将軍の秘書課長のようなもの)になり、「従五位下出羽守じゅごいのげでわのかみ」となる。
元禄元年(1688)、側用人そばようにんになり、1万石を加増され、諸侯(大名)の仲間入りをする。
元禄7年(1694)、7万石あまりを与えられ、川越城主(川越藩主)となり、官職は「侍従」となる。
元禄10年(1698)、東叡山根本中堂造営の功により、官職が「近衛少将」となる。
この頃、側用人でありながら、大老格となり、席次も老中の上になる。
元禄14年(1701)、将軍綱吉から「吉」の一字と松平姓を拝領。
ここで「保明やすあきら」から「吉保よしやす」という名前になり、名乗りは「松平美濃守吉保」となる。
宝永元年(1704)長年の忠勤を認められ、15万石を与えられ甲府城主となる。
宝暦6年(1709)、長年仕えていた将軍綱吉が死去。
その後、再三隠居を願い出るが慰留されなかなか認めてもらえずにいたが、ようやく認められ、駒込こまごめ下屋敷(六義園りくぎえん)に隠居する。
その後、吉保は「保山ほざん」という号を名乗るようになる。

*初代藩主
柳沢吉里よしさと(柳沢・甲府藩第2代藩主 柳沢・郡山藩初代藩主)
幼名は吉暉、後に安貞やすさだと名を改めるが、若年時代には「柳沢兵部やなぎさわひょうぶ」を名乗ることが多かった。
元禄12年(1699)、「従四位下越前守」となる。
元禄14年(1701)、将軍綱吉から「吉」の一字と松平姓を拝領し、「松平伊勢守吉里」を名乗る。
元禄15年(1702)、「侍従」となる。
宝永6年(1709)、父の隠居を受けて、柳沢・甲府第2代藩主となり、「甲斐守」を名乗る。
享保9年(1724)、将軍吉宗の命で、甲府から大和郡山に国替えとなる。

*第2代藩主
柳沢伊信これのぶ
幼名は久菊ひさぎく、後に義稠よしちか、信卿のぶさと、伊信これのぶと名を改める。
元文3年(1738)、「従四位下美濃守」となる。
貞享2年(1745)、父・吉里の隠居の跡を受けて柳沢・郡山藩第2代藩主となる。
藩主在世中は伊信の名で通している。
安永2年(1773)、家督を保光やすみつに譲って隠居し、名前を信鴻のぶときと改め、名乗りも「左兵衛督さひょうえのかみ」とする。
隠居後は、駒込下屋敷(六義園に暮らす。
藩主時代から文芸、ことに俳諧に熱心で、「月村米翁がっそんべいおう」「月村米徳べいとく」「蘇明山人そめいさんじん」「紫子庵ししあん」などの多くの俳号を持つ。
晩年、剃髪後は「香山きょうざん」と号す。

*第3代藩主
柳沢保光やすみつ
初めは安信やすのぶ、後に保明やすあきら、保光やすみつと名を改める。
明和4年(1767)将軍に初めて謁見、「従五位下造酒正じゅごいのげみきのかみ」の官職を与えられる。
明和5年(1768)、「甲斐守」。
安永2年(1773)、家督を相続し、柳沢・郡山藩第3代藩主となる。
藩主時代は、最初は保明、晩年に保光という名前で通す。
安永8年(1779)、「従四位下じゅしいのげ」。
保光は多芸多才の人で、和歌の名手として知られている。
父・信鴻の血を受けて俳諧も好んでしており、俳号としては、若年時代の「青峨せいが」、壮年時代の「八楽庵米徳はちらくあんべいとく」が有名。
また茶人としては「極楽庵主ごくらくあんしゅ」という一風変わった号を好んで用いている。
文化8年(1811)隠居剃髪後に「堯山ぎょうざん」と号す。

*第4代藩主
柳沢保泰やすひろ
幼名を信近のぶちか、後に光雄みつかつ、保泰と名を改める。
享和元年(1801)、「従五位下美濃守」となる。
文化8年(1811)、父・保光の隠居の跡を受けて柳沢・郡山藩第4代藩主となり、「甲斐守」と称する。
藩主時代は保泰という名で通す。
保泰は文芸より武道の鍛錬に力を入れたが、武芸・文芸の振興にも心をくだき、手許金てもときん(藩主の身の回りの費用を出すお金)から藩士たちの学費を出すことを惜しまなかったいわれている。

*第5代藩主
柳沢保興やすおき
天保9年(1838)父の死去の跡を受けて柳沢・郡山藩第5代藩主となり、「甲斐守」を称す。
俳諧を嗜み「学山がくざん」などの号を用いる。
34歳で没す。

*第6代藩主
柳沢保申やすのぶ
幼名は保徳やすのり
嘉永元年(1848)父・保興の死により、わずか3歳で家督を相続。
「甲斐守」を称し、名も保申と変える。
藩主となった時代は幕末の混乱、明治維新という大変な時代でしたが、家臣たちの補佐を得て良く乗り切って廃藩の時を迎える。
藩主在世中は藩校改革などに力を尽す。
廃藩後は、藩知事あるいは一私人として郡山の地場産業や学校教育の振興に尽力し、近代郡山の礎を築き上げる。
人生の理念などを記した書を多く残している。


外堀



外堀
(堀ノ側池)





(平成19年4月11日)
桜御門跡




桜御門跡






(平成19年4月11日)
柳御門跡




柳御門跡






(平成19年4月11日)
鉄御門跡




鉄御門跡






(平成19年4月11日)
大和郡山城 大和郡山城
お城の直ぐ脇(柳郭があった場所)を近鉄線が通っています。

郡山城外濠跡



郡山城外濠跡

濠名 常念寺裏濠




(平成19年4月11日)

外堀

天正8年(1580)筒井順慶の縄張りに始まる郡山城築城は、天正13年(1585)に入部した豊臣秀長の時代に本格的に進められた。
文禄4年(1595)豊臣秀吉の五奉行の一人である増田長盛が20万石で入部し文禄5年から外堀の普請を開始した。
秀長のころにはすべての家臣が城下に侍屋敷を構える時代ではなかったが、この頃には約1万人の家臣が城下に集中し、武家屋敷も多くなり、城下町で商工業が著しく発達するなど、外堀で城下全体を囲む必要が生じてきたのである。
安土桃山時代の城下町にはこうした惣構の傾向が強い。
外堀は、東側では秋篠川の流路を東に向けて佐保川と直結させ(奈良口の川違え)、旧流路を堀に利用した。
南・西側は丘陵の断崖や溜池を巧みに利用し、北側は谷地に沿う堀をめぐらした。
総延長は50町13間(約5.5キロ)に及んだ。
外堀の大部分は素掘りで、内堀や中堀のように石垣を積むことはなかった。
掘削した土を堀の内側に盛り上げて土塁(土居)をつくった。
土塁の高さは、1間半(2.7メートル)から高いところでは2間半(4.5メートル)もあった。
外堀の完成で郡山城の規模が定まり、防御施設が整ったのである。
こうして近世郡山城の基礎が完成したのである。
内堀、中堀、外堀が同心円状にめぐり、城郭中心部は内堀と中堀で囲み、その北・西・南側に武家屋敷地を配し、東側に町割を実施した城下町を配し、城下全体を外堀で囲んだのである。
また、城外へ通じる主要街道と外堀の交点には九条町大門、鍛治町大門、高田町大門、柳町大門の4門を設け出入りを監視するなど城下の維持と安定のための策を採ったのである。
近現代に至り外堀や土塁も徐々に失われてきたが、今日の郡山の町並みや道路網・水路網もこの近世の骨格を維持している。
また、21世紀の都市計画にも外堀などの歴史的遺産が生かされつつある。

(説明石碑・碑文より)

外堀緑地 北門




外堀緑地 北門






(平成19年4月11日)

外堀緑地 北門

享保9年(1724)3月11日に柳澤甲斐守吉里が甲府から郡山に国替えされました。
このころ箱本はこもとが藩に提出した文書もんじょには郡山城下には57ヶ所もの木戸きど(番所)があったことが記されています。
木戸は町境の道に設けられ通行人の監視を目的として設置されました。
その構造は太い2本の柱の上に横木をわたした「冠木門かぶきもん」と呼ばれる様式でした。
この外堀緑地の北門は外堀緑地整備事業の基本テーマである「城下町郡山にマッチした施設整備」の一環としてこの「木戸」をイメージして建築したものです。
防災機能を兼ね備えた緑地であり緊急車輌等の通行にも配慮しており柱の寸法や全体の様式は日本建築の冠木門の木割りに基づいております。

大和郡山市

(説明板より)


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