山内一豊像 平成16年11月28日

山内一豊 やまうち・かずとよ

天文15年(1546年)~慶長10年9月20日(1605年11月1日)

静岡県掛川市・掛川城天守閣内でお会いしました。


土佐国高知藩初代藩主。
父は尾張国黒田城主・山内盛豊。
岩倉織田氏を経て織田信長に仕える。
金崎かねがさきの戦い、姉川の戦いなどで功をあげ、豊臣秀吉の家臣となり、近江・播磨などに領地を得る。
近江国長浜城主を経て、天正18年(1590年)、遠江国掛川(5万石)を与えられ、豊臣秀次の与力となる。
関ヶ原の戦いの功により土佐一国(20万2600石)を与えられる。
長宗我部氏遺臣の浦戸一揆を鎮圧し、高知城下町を建設して領国経営に努力した。


山内一豊屋敷跡
山内伊右ェ門一豊屋敷跡

(滋賀県長浜市)

道路と道路の間の分離帯に石碑が建っています。

後に長浜城主となった山内一豊が、秀吉公の城主時代に住んでいたと伝えられる。
(碑文より)


(平成18年4月8日)
一豊と千代のモニュメント



一豊と千代のモニュメント

(滋賀県長浜市)





(平成18年4月8日)

伊右衛門屋敷と山内一豊

明治6年(1873)の「長浜町地籍ちせき図」によると、当地の周辺は、字名あざなを「伊右ェ門いえもん屋敷」と呼んでいました。
また、延宝えんぽう3年((1675)9月15日付け「長浜古城跡御検地帳」でも、「伊右衛門屋敷」という地名が載り、この字名は江戸初期からある地名であることが分かります。
「伊右衛門」は、豊臣秀吉の家臣であった山内一豊(1545~1605)の通称なので、ここは秀吉が長浜城主だった時代に、その屋敷があった場所と伝えられてきました。
山内一豊は、その妻・千代の「内助の功」により名馬を購入し、土佐国高知城主20万石の大名に出世したことで有名です。
彼は、天正13年(1585)から5年間、長浜城主もつとめています。
このモニュメントは、一豊とその妻・千代が仲睦なかむつまじく「夫婦円満」に「立身出世」していった事に因ちなみ一豊と千代の夫婦像をイメージして建立しております。

(説明板より)


長浜城歴史博物館



長浜城

(滋賀県長浜市公園町)





(平成18年4月8日)

掛川城



掛川城

(静岡県掛川市)




(平成16年11月28日)

山内一豊と千代 婚礼の地



山内一豊と千代 婚礼の地
(岐阜県岐阜市・岐阜公園)





(平成19年4月3日)

山内一豊と千代 婚礼の地

永禄10年(1569年)9月18日
織田信長が岐阜に本拠を移した時、下級武士である山内一豊も岐阜に移りました
岐阜城下に居を構えた一豊は、時をおかず千代を迎え、新婚生活を始めました
婚礼の日
「一国の主になる夢を二人で叶えましょう」
「生涯私だけを愛してください」
と誓いを交わし、その後一豊は長浜・掛川・土佐の国主へと出世していきました

(碑文より)

千代と長良川

長良川上流に位置する郡上八幡では、千代は初代郡上八幡城主の娘といわれています
水のまち郡上で育った千代は、幼少時に父親を亡くし、母親と共に各地を流転しました
やがて一豊との縁が結ばれ、岐阜長良川の地に嫁いできました
ひと雫から渓流へ
滔々たる流れから大海へ
千代の足跡を辿れば、まさに長良川そのものといえます
千代の心奥深くで輝き続けた、美しく優しく時に厳しい長良川
一豊にそそいだ千代の愛
それは長良川から授かった、清流のひと雫だったのかもしれません

(碑文より)

千代の鏡と一豊の出世

千代が一豊に嫁ぐ際、「夫の大事に初めて之を使うように」と言い含められ、鏡箱に金10枚を忍ばせ持参した
貧しい暮らしながらも、千代は決して、その隠し金を使わなかった
ある日、市に出された名馬に、一豊は釘付けになる
値は誰も手が出ない金10枚
千代は隠し金を一豊に差し出し、ついに一豊は名馬を手に入れる
信長家臣が競う馬揃えの晴れ舞台
信長から名馬とその心構えを讃えられ、一豊は出世を掴む事になる

(説明板より)


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