2.神風特別攻撃隊の慰霊碑参拝

(マバラカット東飛行場跡・マバラカット西飛行場跡)


平成26年(2014年)6月28日(3日目)

今日は、栁本大隊の戦跡を巡る。
夕方には画家で郷土史家、神風特攻隊を顕彰してきた“デイソンさん”宅をお訪ねする予定。
”タケウチさん”に事前にアポを取っておいてもらった。
昨日は、私の予定を優先(館長との面談)したが、今日は“ヤナギモトさん”の為に盛りだくさんの予定を組んだのである。(笑)

ホテルをチェックアウトして市内のファストフードで朝食をとる。

まず最初に向かったのは、マバラカット東飛行場跡・・・・

 マバラカット東飛行場跡

我々は「陸軍」の関係者ですが・・・
神風特攻隊となると、やっぱり日本人なら慰霊をしてあげないとね・・・・
陸軍も海軍もなく・・・・


太平洋戦争における「神風」が離陸したマバラカット飛行場
太平洋戦争における「神風特別攻撃隊」が離陸した「マバラカット東飛行場の
西端」がこの地点であり、当時、パンパンガ州マバラカット町に駐屯の帝国
海軍第一航空艦隊第二〇一航空隊所属の搭乗員二十四名からなる特別攻撃隊を
、昭和十九年十月二十日第一航空艦隊司令長官大西瀧治郎中将発令にて編成、
関行男大尉を隊長とするこの隊は「神風(しんぷう)特別攻撃隊」と命名。

この神風特別攻撃隊を更に「敷島隊」「大和隊」「朝日隊」「山桜隊」の四隊
に分けられ、この最初の「神風」攻撃隊各隊は当初十三名の搭乗員によって
編成され、当日午前十時頃、当地に在るサントス家の前庭において大西中将
自身によって命名式が執り行われた。

翌、昭和十九年十月二十一日午前九時、関大尉率いる敷島隊はゼロ戦に二百
五十キロ爆弾を爆装、フィリピン東方海上に展開中と報告された米国艦船
群を目標に、この基地を飛び立つが目標の敵艦船は発見できず、マバラカット
飛行場基地に帰還せざるを得なかった敷島隊は、翌日から三日間連日、この基
地より敵艦索敵に離陸するが悪天候のため発見できずに終わった。しかし、つ
いに昭和十九年十月二十五日午前七時二十五分、再びマバラカット基地を離陸
した敷島隊は、同日午前十時五十二分、ついにレイテ島タクロバン沖にて目標
の敵艦船を捕捉、関大尉は最初に空母セイント・ローに体当たりを敢行し、後
続の長嶺(筆者注:永峰)飛長も同艦に突入し、これを撃沈した。

関大尉部下の隊員もサンガモン、スワニー、サンティー、ホワイト・プレイン
ズ、カリニン・ベイ、キットカン・ベイらの空母に大破の損害を与えた。この
攻撃にはセブとダバオからの「神風」攻撃隊も参加した。

この日の「神風特別攻撃隊」の戦果はマバラカット基地から敷島隊の直掩戦闘
機として攻撃に参加した西澤広義飛曹長によって確認・報告された。

関大尉の直卒の敷島隊員は中野磐雄一飛曹、谷暢夫一飛曹、永峰肇飛長、大黒繁
男上飛であった。彼らの緒戦の成功は、その後、フィリピン、台湾、沖縄、日
本本土の陸海軍搭乗員の多くが参加する「神風戦術」として広まっていった。

太平洋戦争中の日本の「神風」は全ての戦争歴史の中で最大の軍事目的の体当
たり組織である。外国の侵攻から日本本土を防衛する為に死に物狂いの手段で
あった。この地に訪れる参拝者の皆様に謹んでお願いします、全ての「神風」
と比米軍を中心とする連合軍戦没者に対して永遠に安らかにお眠りください、
そして、全世界の平和の為に祈りますと祈念して下さい。

(注記)

マバラカット観光局(MTO)神風平和祈念公園の建立を推進した理由は、神
風特別攻撃隊の栄光を称賛する為ではなく、その歴史的事実を通じて世界の人
々に平和と友好の尊さを訴える為であります。神風平和祈念廟が神風特別攻撃
隊のような不幸な出来事を二度と繰り返さないと誓う場所となる事を祈念する
ものです。

かつて、何の変哲も無く長閑なマバラカットの町が神風発祥の地として第二次
世界大戦中の太平洋における戦場で歴史を刻むと誰が想像したでしょう;

かつて、覇権を争う外国列強の不条理な戦争にマバラカットの住民が巻き込ま
れる事を誰が想像したでしょう;

かつて 、マバラカット住民とフィリピン全体を苦しめ束縛していたものから解
き離す重要な原因として、神風搭乗員の誕生と終焉があることを誰が想像した
でしょう;

かつて この神風慰霊碑が戦争の不条理さと恐怖を痛切に思い出させるだけでは
なく、地域の観光振興と歴史認識に貢献している事を誰が想像したでしょう;

それゆえ、1998年10月のクラーク・フィールド、マバラカット“世界平和の都
市”宣言は人種や国籍の区別なく地球上の全人類の恒久平和を守り、そして永
続させるための継続的な努力です。

マバラカット観光局長
ガイ・“インドラ”・ヒルベロ

(説明板より)

この地を訪問するのは4回目である。
初めて訪れたのは、平成13年だったと思うが、そのころは、まだ、この慰霊碑は建設途中だった。
次に訪れたのは平成15年(2003年)の5月で、この時に慰霊場の鳥居が完成していた。
翌年、また訪問したら、今度は門扉が取り付けられていた・・・
そして、あっという間に10年が経ち・・・今回で4回目!
え?・・・・いつの間に10年も経っちゃったんだろう?(汗)

慰霊碑の説明板の文章は全面的に書き直されて、新しい文面になっている!
慰霊碑の周辺も、大きく変わってしまっていた。

慰霊碑の前の道は、こんなに綺麗な道路ではなかったし・・・
家なんか建ってたっけ?(苦笑)

マバラカット東飛行場跡
平成16年5月7日当時 今回、同じ場所から撮る

ここなどは、11年前は、ただの草原・・・・
もしかしたらサトウキビ畑だったかもしれないが・・・
何もない場所だったのに、道路が走っている!!(驚)
この“草原”が当時の東飛行場跡だろうと思い、ここから写真を撮った。
が・・・全くその当時の面影が無くなっている・・・・
いやぁ~10年も経つと、こういうことになるんだぁ~

時刻は午前11時15分・・・・
次は、マバラカット西飛行場跡の慰霊碑に向かう。

マバラカット西飛行場

ここにも何度も来たことがある。
最後に来たのは・・・2年前だったかな?

第二次世界大戦における最初の「神風特別攻撃隊」が離陸した「マバラカット西飛行場の西端」がこの地点で
あり、当時、パンパンガ州マバラカット町に駐屯の帝国海軍第一航空艦隊第二〇一航空隊所属のパイロッ
ト二十四名からなる特別攻撃隊を、昭和十九年十月二十日第一航空艦隊司令長官大西滝治郎中将発令にて編成
、関行男大尉を隊長とするこの隊は「神風(しんぷう)特別攻撃隊」と命名。

この神風特別攻撃隊を更に「敷島隊」「大和隊」「朝日隊」「山桜隊」の四隊に分けられ、この最初の「神風
」攻撃隊各隊は当初十三名のパイロットによって編成され、当日午後三時頃、当地に在るサントス家の前庭に
おいて大西中将自身によって任命式が執り行われた。

(筆者注:ここに上記文章が重複して刻まれているので、記載は省略)

翌、昭和十九年十月二十一日午前九時、関大尉率いる敷島隊はゼロ戦に二百五十キロ爆弾を爆装、フィリ
ッピン東方海上に展開中と報告された米国艦船群を目標に、この基地を飛び立つが目標の敵艦船は発見できず
、マバラカット東飛行場に帰還せざるを得なかった敷島隊は、翌日から三日間連日、この基地より敵艦索敵に
離陸するが悪天候のため発見できずに終わった。しかし、ついに昭和十九年十月二十五日午前七時二十五分、
再び同基地を離陸した敷島隊は、同日午前十時五十二分、ついにレイテ島タクロバン沖いにて目標の敵艦船を
捕捉、関大尉は最初に空母セイント・ローに体当たりを敢行し、後続の長嶺飛長も同艦に突入し、これを
撃沈した。

関大尉部下の隊員もサンガモン、スワニー、サンティー、ホワイト・プレインズ、カリニン・ベイ、キットカ
ン・ベイらの空母に大破の損害を与えた。この攻撃にはセブとダバオからの「神風」攻撃隊も参加した。

関大尉直卒の敷島隊員は中野磐雄一飛曹、谷暢夫一飛曹、永峰肇飛長、大黒繁男上飛であった。彼らの緒戦
の成功は、その後、フィリッピン、台湾、沖縄、日本本土の陸海軍パイロットの多くが参加する「神風戦術」
として広まっていった。

この飛行場から最後の「神風」出撃は昭和二十年一月六日午後四時四十五分に離陸し、レイテ湾上にいた米軍
上陸部隊艦船に対しての攻撃は中野勇三中尉率いる五機のゼロ戦で、部下の攻撃隊員は一小隊に後藤喜一上飛
曹、谷内善之上 (筆者注:この人の名が下に重複して刻まれている)

谷内善之上飛曹、二小隊に中尾邦為中尉、千原昌彦上飛曹であった。他にアンヘレスとエチャエグからの
「神風」もこの攻撃に参加。空母ロングは撃沈、大破した米国艦船はニュー・メキシコ、カリフォルニア、ル
イスビル、ミネアポリス、コロンビア、アレン・エム・サムナー、■ルケ、オブライエン、サウサード、そし
て、ブルックス、ウオークであった。

昭和二十年一月八日の暁、この飛行場から最後の飛行機が離陸した。「神風」の機密書類と人員を乗せた最後
の二機の飛行機が脱出する為、この飛行場から低空飛行で台湾へと飛び立った。他の全ての地上要員は地上戦
闘員として、米陸軍部隊の攻撃からクラーク平原の全施設防衛の為、最後の一兵まで戦うべく残地された。昭
和二十年一月二十六日、マバラカット西飛行場は終に米国の手に落ちた。

第二次世界大戦の終わりまでに、「神風」、陸上、海上、海中すべての特攻は合計三百二十二隻の米軍船を撃
沈または大破の損害を与え、米海軍水兵一万三千三百名を戦死させ、三万六千名に重大な戦傷を与えた。一万
三千二十二名の特攻隊員の内、四千六百名が「神風」として体当たり攻撃で戦死した。

第二次世界大戦中の日本の「神風」は全ての戦争歴史の中で最大の軍事目的の体当たり組織である。外国の侵
攻から日本本土を防衛する為に死に物狂いの手段であった。この地に訪れる参拝者の皆様に謹んでお願いしま
す、全ての「神風」と連合軍戦没者に対して永遠に安らかにお眠りください、そして、全世界の平和の為にい
のりますと祈念して下さい。

歴史研究家 ダニエル・エッチ・ディソン
アンヘレス市 ビリア・グロリア在住
 (銘板・碑文より)

この碑文の前半は、東飛行場にある碑文と、ほぼ同じである。
内容や文章の如何はともかくとして、同じ文章が重複して書かれていたり、おかしなところで行変えや空白があったり、何ヵ所も誤字があったり・・・
一体これはどういうわけだろう?(汗)
日本語で書かれているから、この銘板作成には日本人が関わっていたと想像するが・・・・
完成した銘板のチェックはしなかったのだろうか?(唖然)

ちょうどこの時、上空を飛行機の編隊が飛んできた!!
ここに来るまでに、ヘリコプターの編隊やジェット機の編隊が上空を飛んでいた。
近くで「航空ショー」でもやっているのか?・・・・と思っていたのだが・・・・
なんと、いいタイミングでレシプロ(プロペラ機)の編隊が飛んできたのである!

多分、軍の初等練習機ではあるまいか?
おお!このプロペラ・エンジンの爆音!!
ジェット・エンジンとは全く違う、この心地いい爆音!!(大喜)
その昔、多くの日本陸海軍の兵士たちが、この音を聞いたに違いない・・・
出撃!出撃!
この慰霊碑の前で、まさか爆音を聞くことになろうとは・・・大興奮である!
で・・・大戦末期には、この爆音は「悪魔の爆音」に変ったに違いない・・・
米軍の空襲である!
敵襲!敵襲!

ふと気がついたら、この音を聞いて喜んでいるのは私だけである。(大汗)
“ヤナギモトさん”も“タケウチさん”も全く興味はないらしい・・・
キョトンとしている・・・・
え?わからないかなぁ~・・・感動しちゃうでしょ?・・・あれ?感動しない?(汗)

この慰霊碑のすぐ隣りの小高い丘にトンネルが掘られている。
「戦闘指揮所」と言われているバンカー・・・つまり横穴壕である。
昔、一度だけ内部に入ったことがあったが・・・・
あっ!・・・ペンライトを持ってくるのを忘れた・・・・(大汗)
でも、一応、行ける所まで行ってみようかということで入ってみる。

一緒に入ったドライバー君が、天井から落ちた巣を見つけた。
中に雛がいた・・・コウモリの赤ちゃんだろうか?
彼は、この巣を自宅に持ち帰って、雛を自分で育てたい・・・と言う。(唖然)
彼は動物を育てるのが大好きだそうだが、でも、どうやって育てるの?(汗)
いや、いや、このまま、ここに置いておいた方がいいんじゃないのぉ~?
ということで・・・諦めさせる。

以前、ここに入ったときは、この壕は、奥のほうで“L字”に曲がっていて、奥はかなり広くなっていた。
が・・・どうも、その後、かなり天井などが崩壊している様子なので、これ以上奥に入るのはやめる。

以前、ここを訪れた時に、やたらと射撃音が聞こえた。
この丘のすぐ隣りに射撃場が出来ていて、射撃をしている音だった。
で・・・・今回、そこを覗いてみることにした。(笑)

 CLARK EAGLE
 RANGE & GUN CLUB 

射撃場に行ってみたが、人の気配が無い・・・・(唖然)
潰れているのか?
あれ?・・・

時刻は間もなくお昼になる・・・・
怪しい人間と思われるのも嫌なので・・・さっさと立ち去ることにした。(笑)
久し振りに射撃をしたかったが・・・残念・・・・

次に向かったのは・・・・“レジャー施設”(笑)

Clark El Kabayo Western Town

一応・・・西部劇の町を模しているらしいのですが・・・(苦笑)
誰もいない・・・・(唖然)
やってるのか、潰れているのか・・・・さっぱりわからん・・・
ここで乗馬が出来るそうだが・・・
馬小屋に馬はいるみたいだけど・・・人間がおらんのです!(大汗)
久し振りに乗馬をしてみたかったが・・・・これまた残念・・・・


  


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