3.栁本大隊の戦跡を巡る

(「400高地」・「神風山」・「サパン・バトゥ」・「ホーリー・ファミリー・アカデミー」)


平成26年(2014年)6月28日(3日目)

さて、これからが本番である!(笑)
これから柳本大隊の戦跡を探して歩く・・・・
まずは、川を渡って対岸に行ってみる。
この川が当時「パンパンガ川」もしくは「バンバン川」と呼ばれていた川ではないかと思うが確信は無い・・・(大汗)
ネットの地図上では「サコビア川」となっているようだ・・・・

河川敷が灰色なのは、1991年に大噴火を起こしたピナツボ火山の火山灰である。
その昔、このあたりを走ったときは、厚く火山灰が積もっていて、スゴイ景色だったが、今は、ごく普通の河川敷に見える。

川の向うに見える丘あたりが栁本大隊の陣地があった場所だと思うのだが・・・
位置関係を確認するには、一度、離れたところから見ないとよくわからんのです。(汗)
これからまた引き返して、あの丘に向かうことにする。

我が戦車第2師団の機動歩兵第2連隊が満州からフィリピンに派遣されたのは昭和19年10月のこと。
この時の機動歩兵第2連隊第3大隊(栁本大隊)の編成は、大隊本部、第7、第8、第9中隊、第3機関銃小隊の合計530名である。
その後、第7中隊と第8中隊の約200名を連隊本部(連隊長の名を取り「高山支隊」と呼んでいた)に差し出し、代わりに独立戦車第8中隊(九七式中戦車8両と兵員130名)とマニラからの補充兵150名を指揮下に入れる。
昭和20年1月9日、米軍がフィリピンに上陸・・・
1月30日に栁本大隊は「南山」に陣を構える。

さて・・・この「南山」が、どこにあるのかが、よくわからない・・・(涙)
かなり開発されて近代化されているからなぁ~
70年前と全く変らないままでいてくれと頼むほうが無理か・・・
ここは川を基準にしてみるしかあるまい・・・
というわけで、「南山」の探索は諦めて川沿いにあった「400高地」を探しに向かう。

2月11日、「南山」の正面に戦車を伴った米軍が進出、大激戦となり山頂を占領されてしまう。
ここで栁本大隊長は、部下の第8中隊を督励し、自ら抜刀して突撃!
山頂を奪い返すが、この「南山」での戦闘では29名の戦死者を出した。
折角確保した「南山」だが、その4日後には命令により撤退・・・・「400高地」に向かう。

さて・・・その「400高地」は、どこだろうか?
多分、このあたりだろうと見当をつけて向かったのがゴルフ場・・・・(汗)

 ゴルフ場

このゴルフ場・・・・韓国資本のゴルフ場である。
勝手にクラブハウス内に入り・・・(大笑)
クラブハウスのテラスから川の向こう側を見る。

ここが「400高地」とするならば・・・・
右側の写真、向うに見える高地が当時「バンバン高地」と呼ばれた辺りになると思うが・・・
その向うの奥には機動歩兵第2連隊主力の高山支隊が陣取っていた。
そして、彼の地で、栁本大隊から転出した第7中隊が玉砕している。
右側の写真の中央あたりに見える小高い山が「赤山」と名付けられた山ならば、左側の写真の右端あたりにあるのが「黄山」と名付けられた場所となる。
そうなると、あの周辺には、空挺部隊の高屋支隊が陣取っていたことになる。
私がよく行く、クラーク博物館には、この高屋支隊の空挺隊員が使用していた分解式の小銃が展示されている。
パラシュート降下の時に邪魔にならないよう、2つに分解できる通称「テラ銃」と呼ばれた珍しい小銃である。

基準点を間違えて景色を見ると、戦跡の場所を間違えることになる。
栁本少佐がご存命の時に一緒に旅をしたら、正確な場所を教えていただけただろうが・・・
私が戦友会に入会する前に他界されたので、それは無理・・・・
交通事故に遭われていなかったらなぁ~
今もご存命なら、ここの写真をお見せして教えを請うことも出来たかもしれない・・・と思うと残念である。
結局は自分の勘に頼るしかない。(汗)

その昔、祖父が戦っていた北部ルソンのサラクサク峠に登り、祖父の陣地跡を訪れた時に、陣地跡の写真を撮った。
で・・・それを、当時まだご存命だった佐藤中隊長にお見せして、「ここに機関銃陣地を置きませんでしたか?」と尋ねたところ、「よく知ってるねぇ~ここは機関銃陣地があった場所だよ」と言われたことがある。
現地の地形と米軍の進行方向から考えると、その場所に重機関銃を置けば米軍を制圧できると思ったのである。
あくまでも私の勘であるが、その勘がズバリ当った・・・
それから以降、私は自分の勘を頼ることにしている。(苦笑)

ということで・・・私の勘によれば・・・ここは「400高地」ということになる。(苦笑)

左の写真の奥、ゴルフコースの切れ目の向う辺りが「五ノ谷」と呼ばれた場所ではないかと思う。
写真では、ちょっとわかりづらいが、ゴルフコースの向うに川が流れていて、その川の向うに山々がある。
右の写真の左端から左の写真にかけて、ゴルフコースは一段高い位置にある。
コース造成の時に、かなり山が削られていると想定すると、あの奥は深い谷になっていたはず・・・
「五ノ谷」と名付けるにふさわしい地形だったのではなかろうか?
それを確認するには、あそこまで行かねばならない・・・
「私の読みが正しいかどうかを確認するには・・・ここでゴルフをするしかないですねぇ」(笑)
「で・・・ボールをわざと向うに打って、ボールを探す振りしてあのコースの端っこに行ってみる・・・というのはどうでしょ?」
“ヤナギモトさん”と二人で大笑い。

この「400高地」は「五ノ谷」から川を渡って向こう側の「赤山」「黄山」に向かう要衝の地である。
栁本大隊は、ここを40日間ほど占拠していたようである。
どういうわけかは知らないが、米軍はここへ直接陸上からの攻撃はかけてこなかった。
砲爆撃のみである。
3月25日、栁本大隊は「神風山」に移動する。

ここで、10分弱ほど景色を眺め、今度は、ここから少し西に向かう。
そこも韓国資本のゴルフ場になっていた・・・(唖然)
勝手にズカズカとクラブハウスに入っていったら「アンニョンハセヨォ~!」とフロントの人に挨拶された・・・(驚!)
あの・・・俺は日本人ですけど・・・(大汗)
どこへ行っても日本人より韓国人だと思われやすい私なので、仕方がないか・・・(苦笑)
我々が何をしに来たのかの説明は、ガイドの“タケウチさん”に任せて・・・・
またまた、“ヤナギモトさん”と二人で勝手にテラスに向かう。(大笑)

川が大きく曲がっているところが「五ノ谷」と呼ばれたところではないかと思う。
あくまでも推定だが・・・・
川岸の“半島”のように飛び出しているこちら側(西側)当りだと思うが、昭和20年9月15日の午後1時に山の中から降りてきた栁本大隊は、あのあたりで武装解除を受けている。
この時の生存者は大隊直属の将兵が17名、大隊に配属されていた独立戦車中隊の生き残りが13名、合計30名だった。
最大時の総兵力が650名だった栁本大隊(配属部隊を含む)は、終戦時にはたったの30名しか生き残らなかった・・・・
生還率は5%を切っている。
ちなみに私の祖父の部隊の場合は、配属部隊を含めて600名いたが、生き残ったのは祖父を含めて11名、生還率は2%を切っている。(汗)

川の向こう側に見える山々が「奥山」といわれる場所だと思うが・・・
これまた推定である。
なにせ、栁本大隊長が書き遺した手書きの地図では、大まか過ぎて距離も何もよくわからないのである。
加えて、海軍側の生還者が書き残した資料などの地図では山や地域の名称に違いが見える。
陸軍と海軍で、それぞれ自分達で日本名を付けて作戦行動を取っていたためだろう。
このため、陸軍と海軍の資料を突き合わせると混乱するばかり・・・(大汗)
向うに見える山々に“複郭陣地”が造られていたと思うが・・・・
川向こうの地域は、陸軍は高山支隊(機動歩兵第2連隊主力を基幹)と高屋支隊(空挺部隊である滑空歩兵第2連隊を基幹)が戦ったが、主に海軍の航空部隊の地上員で構成された各種部隊が戦った場所である。
海軍のほうまで調べているとキリがないので今回は目をつぶったが・・・・(苦笑)

陸海軍共に航空機搭乗員(パイロット)は貴重な存在なので優先的にフィリピンを脱出した。
本土決戦にはパイロットが一人でも多く必要だったのである。
これは無理もない話である。
しかし、それとともに、軍の“高級将校”たちも、我先にと台湾に逃れた。
エリートと呼ばれる“優秀な人間”だから、こんなところで死ぬわけにはいかない。
何のために競争に打ち勝って、この地位までに登りつめたか・・・
こんなところでは死んだら損だというわけだろう。
「後方へ下がって指揮を取る」というもっともらしい理由を残して部下を置き去りにしてサッサと飛び立った・・・
残された整備員などの地上要員は、かわいそうである。
航空部隊の地上員は「地上戦」には不慣れである。
それがいくつかの“戦区”に別れて地上戦を戦い“消滅”していった・・・・
あの向うに見える山々はそういう場所なのである。

昭和20年4月9日、栁本大隊は「神風山」の陣地を撤収して移動することとなる。
ここが「神風山」だとすると・・・・
この目の前の川を渡り、左に折れて「馬の背」を通って「礼山」に向かったことになる。
「馬の背」と名付けているんだから“馬の背中”みたいな地形なのだろう・・・
ということは・・・あそこあたりではなかろうか?

「馬の背」と名付けられておかしくない景色である。
あそこが「馬の背」ではなかろうか?
そうだとすると・・・・
あそこを通って、再び川を渡り、こちら側に戻って、さらに西に向かい、「礼山」の陣地に入る。
で・・・・そこで自活生活・・・・
食糧不足のため、軍は集団自活を解除し、小グループでの自活行動を認めることとなる。
敵の攻撃より餓死と戦うことになったようである。
その「礼山」と呼ばれた山はどの辺りか・・・・

その方向を見てみるが、小高い山が邪魔で向うが見えない!(涙)
現在造成中である。
あの頂上に上れれば、向こう側が見渡せるだろうから、「礼山」の位置がわかるかも・・・・
しかし、現在、造成中の場所に勝手に立ち入ったらトラブルを引き起こしかねないので諦める。
何が建つのかは知らないが、完成したころ、あそこに上ってみたいものだ。
「神風山」では頂上に陣地を築いたと栁本大隊長は記録を残している。
となると・・・・頂上というのは、この造成中の山のことだろうか?

後ろを振り返ると・・・・この景色・・・・
遠くにクラークの平地が見える・・・・
ゴルフコース造成のため、かなり山が削られている。
ゴルフ場になる前の状態はどういう感じだったのだろうかと想像してみる。
ゴルフ場なんかに開発しやがって・・・と怒るのは簡単だが・・・
いや、ここがゴルフ場に開発されていなかったら、この場所に来る事は不可能だっただろう。
昔のまま、山のままだったら、とてもじゃないが登る事は無理だったに違いない。
そうなると、川向こうの景色も見られなかったわけで・・・
考え方を変えてみれば、ゴルフ場に開発してもらったおかげで足を踏み入れることが出来たといえる。
これは感謝すべきか?・・・・韓国企業に?(苦笑)

さて、そろそろ帰ろうか・・・という時にゴルフ場の責任者が名刺を持ってやって来た!(驚)
「先ほどは失礼しました。日本の方でしたか・・・」と言う。(笑)
次回は是非、ゴルフをやりに来て下さいという。
この会社は日本の九州にも2箇所ほどゴルフ場を経営しているので、是非、日本人にもここでプレーしてもらいたいと言う。
まぁ、あの横柄な韓国人が、一生懸命、私を相手に営業活動をするとは・・・ねぇ・・・(苦笑)
彼の英語は綺麗な英語で、また物腰もごくごく丁寧・・・・決して卑屈な態度ではない。
韓国人にもこういう人がいるんだねぇ~
いや、こういう人物だからこそ、フィリピンのこのゴルフ場を任されているのかもしれない。
意外にも好感の持てるマネージャーさんだった。
問題は・・・私のほうである・・・(泣)
まともな英語が話せず、応対できない・・・(大泣)
いやぁ~申し訳なし・・・・

彼の話では、ここはさらに開発を進めていて、最終的には一大リゾート地になる予定だそうだ。(唖然)

あらら・・・ここが計画通りに完成したら、もうここが“戦跡”だなんて誰もわからなくなるだろう。
仕方がないか・・・・

それにしても日本の企業は何をしているのだろう?
韓国は、まぁ、半分ハッタリだとしても、スケールの大きな事をここでやっているというのに・・・・
日本の企業は元気がないのか?
下請けいじめのほうで忙しいのか?(大汗)

遠くに見えるのは「アラヤット山」である。
戦時中は抗日ゲリラの本拠地で、戦後はフィリピン共産ゲリラの本拠地だった山である。
今も本拠地になっているかどうかは・・・・知らない。(笑)
手前の平野部にクラークの国際空港が見える。
この空港には韓国から直行便が運行しているそうだが、日本からの直行便はない。
だから韓国企業、韓国人ゴルファーや観光客がやってくるわけで・・・
う~ん・・・日本は負けてるな・・・(汗)

この地点から平野部が一望できるから、陣を構えるにはもってこいの場所であることは間違いない。
ここから空港が一望できるということは、当時、米軍に占領された我が軍の航空基地も一望出来たということになるか・・・

時刻は午後1時半を過ぎた・・・・
私の勘と推測を説明しながらご案内した栁本大隊の足跡・・・・
“ヤナギモトさん”は生前のお父さんから全く話を聞いていなかったそうなので、何もわからないとのこと。
今回のご案内で少しでも喜んでもらえたなら幸いである。

ゴルフ場を辞し、これからアンヘレスの町に向かう・・・・

アンヘレスに向かう途中、「サパン・バトゥ」という場所を通過する。
“タケウチさん”の話では、この辺り一帯が「サパン・バトゥ」だそうである。

この「サパン・バトゥ」というところで日本軍の戦車部隊が米軍の攻撃を受けて全滅したと“ディソンさん”が以前話してくれた。
その場所は、どこかなと思ったのだが・・・・
この辺りなのか・・・
日本軍の戦車隊が壊滅的打撃を受けたというと、それは1月28日と29日の戦闘ではなかろうか?
28日に岩下戦車中隊(独立第8戦車中隊)がマルコット飛行場に進出した米軍に反撃を加え、岩下中隊長以下30名と戦車7両が返り討ちに遭い壊滅した。
29日にはストッチェンバーグに進出した米第129連隊に対し、戦車6~8両が反撃に出たが、4両が撃破された。
この両日の戦闘のいずれかが、ここ「サパン・バトゥ」で行われたと思うのだが・・・
私の知る限り、戦史には、「サパン・バトゥ」の名は出てこない。
が・・・“ディソンさん”の話では、そこで壊滅したという。
本人が破壊された戦車を見たというのだから、本当なんだろうなぁ~
この両日の戦闘で生き残ったのは35名、戦車は3両だったと私の手元の資料にはある。
栁本大隊指揮下の岩下戦車中隊はこの戦闘で実質、“玉砕”した。

「サパン・バトゥ」という場所は思ったより広い地域のようである。
どこで日本軍の戦車が撃破されたのかは、“ディソンさん”に案内していただかないとわからないのだが、健康上の理由で、外出は出来ないご様子・・・・
そこを何とか・・・というわけにはいかないから・・・ピンポイントで現場を確認するのは永遠に無理だろう。
今さら、そんな場所を確認したところで、どうにかなるものではないのだが・・・
多くの戦車兵の血が染み込んだその場所で出来れば慰霊をしたいものである。
次回、機会があったらもう少し詳しく調べてみるか・・・

アンヘレスの市内に入り、ショッピングモールのレストランで昼食をとる。
時刻は午後2時である!
夢中になりすぎて、お昼を食べるのが遅くなってしまった。(大汗)
もう腹ペコである。(苦笑)

 昼食

“ディソンさん”宅を訪問するには、まだ時間が早い・・・(汗)
そこで、その前に、栁本大隊が駐屯していた場所に“ヤナギモトさん”をご案内することにする。
向かったのは「ホーリー・ロザリー・パリッシュ・チャーチ・グランド」という教会である。
ここは以前に下見済みである。

 教会

歴史のある古い教会である。
このすぐ隣りにあるのが「ホリー・ファミリー・アカデミー」という学校・・・・
ここに栁本大隊本部があった。

 学校

栁本大隊が、ここに駐屯したのは昭和20年1月10日頃のことではないかと思う。
米軍がリンガエン湾に上陸した翌日あたりである。
ここに連隊本部と主力を置き、一部の兵力を「マガラン」という場所に配置した。
1月23日早朝、進撃する米軍と「マガラン」に配置された第8中隊の間で戦闘が開始された。
大隊本部は応援に急行、さらに「コンセプション」という場所まで追撃する。
「サンイシドロ」という場所で小休止中、別の方面から進撃してきた米軍の攻撃を受け交戦し、この時に4名の兵士が戦死した。
栁本大隊は、やむなくアンヘレスのこの場所に撤収する。
1月25日、栁本大隊長は斬り込み夜襲を計画し、この教会の鐘楼に各中隊長を集め、鐘楼から周囲の景色を見ながら夜襲の進路等の指示をしている。
う~ん・・・右と左・・・どっちの鐘楼に登ったんだろう・・・(笑)

これらの戦史を“ヤナギモトさん”に説明する。
「へぇ~よく知ってますねぇ~」・・・と半分呆れられたが・・・(苦笑)
実の息子より他人の私の方がお父さんの行動を知っているって、どういうことよ・・・ということかな?(大汗)

「あの鐘楼に登ってみたいですよねぇ~。お父さんがどんな景色を見たのか・・・見てみたいもんですよね?」
ということで・・・教会の中に入ってみる。(笑)

 教会の内部

教会の中では結婚式が執り行われていた!
あら・・・ちょっとマズイかも・・・(汗)
退散する!(大笑)

1月27日の夜半、栁本大隊は夜襲のためアンヘレスの北にある「偽飛行場」まで進出する。
その「偽飛行場」が、どこにあるのかは知らない。(汗)
そこまで進出したが、当初の計画よりかなり時間がかかってしまったようで・・・・・
このまま進んでも敵陣に辿り着くころには日が昇ってしまうと判断し、夜襲を断念する。
鐘楼から見た目的地は、見た目より遠かったのかな?(苦笑)
夜襲を断念して反転する途中、当初、斬り込みをかける予定ではなかった別の敵砲兵陣地を見つけた。
よって、これを背後から襲撃して敵陣の中を突破するという荒っぽいことをしたようである。
この時に戦死者36名を出しているというから、かなりの激戦だったに違いない。
栁本大隊は、敵陣を襲ったあと「ストッチャンバーグ」に入る。
「ストッチェンバーグ」は現在、クラーク博物館のある辺りである。

 学校の前の道

栁本大隊本部が置かれた、この教会と学校の前の道は幹線道路となっている。
当時も、これほど道幅が広かったかどうかは知らないが、やはり幹線道路だったようである。
その道の教会とは反対側に、ちょっと古めかしい建物が・・・
“タケウチさん”の話では、“ディソンさん”の博物館だという。
ん?どういうことかな?

 ディソンさんの博物館?

“ディソンさんの博物館”と呼ばれている建物のエントランスは現在工事中だった。

 警察署?

その隣りは、最近出来たのだろうか・・・警察署?(交番かな?)

ちょっとその“ディソンさんの博物館”と呼ばれている建物の中に入ってみる。(笑)
受付の人と話をしてみたら、どうも画家である“ディソンさん”の絵が展示されているのだとか。
ちょっと覗いてみたい気もしたが、時間に余裕がないので今回はやめておく。(涙)
雰囲気では、どうも郷土資料館のような気がするが・・・
受付の青年に、このアンヘレスの歴史、特に戦時中のことについて書かれているような資料がないか尋ねてみたら、そういうものはないと言う。
が・・・1冊だけ、そういう本があると持ってきたのが、なんと、“ディソンさん”の著書だった!(驚)
しかし、もう絶版になっていて、ここに1冊あるだけなので売るわけにはいかないという。
まぁ~そうでしょうねぇ~・・・う~ん、残念だ・・・(汗)
これから“ディソンさん”に会いに行くんだと話したら、受付の青年が驚いていた。(大笑)
そこへ、“ヤナギモトさん”が入って来たので、彼は栁本大隊長の息子さんで、栁本大隊は目の前の教会に本部を置いていたのだが、当時のことに関して何か知らないかと尋ねてみた。
が・・・「日本軍がここにいたのですか!」と驚くばかり・・・(大汗)
あらら・・・まぁ仕方がないか・・・私より若いんだし・・・・戦時中の事なんか知らないよね・・・(汗)
尋ねた私がマヌケだった・・・(大汗)

時刻は午後3時45分・・・・そろそろ“ディソンさん”のお宅に向かう時間である。


  


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