山家公頼 やんべ・きみより

天正7年(1579年)〜元和6年6月30日(1620年7月29日)


山家公頼の邸宅跡



山家公頼の邸宅跡
(愛媛県宇和島市1−4−3・和霊神社)





(平成19年11月6日)

市指定 史跡
山家公頼やんべきんよりの邸宅跡

ここは、和霊神社祭神山家清兵衛公頼の屋敷跡である。
公頼は仙台藩主伊達政宗から藩祖秀宗に付けられ、総奉行として藩の創設につとめた。
しかし、入部当時の借金の返済として政宗に10万石のうち3万石を割くなどの問題から、元和6年(1620)6月30日夜、反対派に襲われ、その子3人とともに命をおとした。
のち屋敷は藩の倉庫となり、明治初年には丸之内和霊神社の小祠が設けられ、明治31年には伊達家が敷地を寄進し、同41年に宇和島城内の日吉ひえ神社の本殿を移築した。
また、本殿の裏の古井戸には、四男美濃の死にまつわる伝説がある。

昭和43年1月9日指定
宇和島市教育委員会

(説明板より)


山家清兵衛一家殺害事件

丸之内の和霊神社の社地は、宇和島藩10万石初代藩主伊達秀宗の家老職総奉行、山家清兵衛公頼の邸宅跡である。
山家清兵衛は、疲弊した藩の財政を立て直し、藩主を補佐して、忠誠を尽くした人で、領民からも敬慕されていたという。

公頼の祖先は、出羽国山本庄山家村出身で、山形城主・最上家の臣であった。
永禄7年(1564年)、最上義守の娘が米沢城主・伊達輝宗(伊達正宗の父)に嫁いだ時、公頼の父・公俊きんとしは付き人として伊達家の家臣となり、禄50貫をあてがわれた。
公頼は、天正7年(1579年)、米沢で生まれたと考えられる。
仙台藩にあっては、知行割の算用頭や気仙けせん・東山両郡の伝馬判算用差引などを勤めた。

伊達正宗の子・秀宗が豊臣秀吉の猶子ゆうしとなると、やがて公頼はその側近の付き人となる。
慶長19年(1614年)12月、伊達秀宗が宇和島藩主になると、翌元和元年1月、公頼は藤堂氏から板島丸串城(現・宇和島城)を受け継ぎ、知行1000石の総奉行となった。
長男・喜兵衛を仙台藩に残し、母・夫人・二男・三男らを連れて宇和島に来た。
公頼は家臣団編成や知行割など宇和島藩の草創に尽力した。

伊達秀宗は入部当時、父・伊達政宗から多額の借金をした。
元和4年(1618年)、その返済を巡って藩の意見が対立。
結論は清兵衛の献策によって、10万石のうち3万石を政宗の隠居料として分割することになった。
翌元和5年には、幕命による大坂城石垣修築工事に、侍大将・桜田玄蕃と共に従事した。
この間、公頼に対する反対派が生まれる。

元和6年(1620年)6月30日の夜、伊達秀宗の意による武士数十名が山家邸を襲い、上意なりとして清兵衛をはじめ、二男、三男など山家一族、娘婿・塩谷内匠えんやたくみ父子までも殺害し、四男の美濃(9歳)をも井戸に投げ入れて殺害したとも、また誤って投げ入れ致死させたとも伝えられる。
この時、公頼は42歳。
この事件の真相は明らかではないが、仙台4代藩主・伊達綱村の宇和島藩2代藩主・伊達宗利宛の書状に「棄て及承候候ハ、秀宗公山家清兵衛と申者御成敗」とあり、清兵衛殺害が秀宗の命によったことは明らかである。

凶変の後、邸宅は取り払われ、藩の倉庫敷地となっていたが、明治初年の版籍奉還により国有地となった。
その頃、この地に小祠を建て、丸之内和霊神社と称したが、明治31年(1898年)、この地を伊達家が払下げを受け、そのうちの一部を同神社に寄進した。
本殿裏の1.2m方形の石造りの井戸は、四男美濃が投げ入れられたところという。

公頼の死後、寛永9年(1633年)、桜田玄蕃が金剛山正眼院で圧死し、次々に関係者と目された人々が海難・落雷などで死んだ。
また慶安2年(1649年)の大地震、寛文6年(1666年)の大洪水、享保の大飢饉などの天災、二代藩主・伊達宗利の男子が夭逝ようせいしたことも公頼の御霊のたたりとされた。

(参考:宇和島文化協会発行 『宇和島の自然と文化(六訂版)』 平成11年)

(平成22年11月25日追記)


和霊神社神門




和霊神社神門
(愛媛県宇和島市和霊町1451番地)




(平成19年11月7日)
和霊神社拝殿




和霊神社拝殿
(愛媛県宇和島市和霊町1451番地)




(平成19年11月7日)

和霊神社由緒

和霊神社は宇和島藩祖伊達秀宗の家老山家清兵衛公頼公の御霊をお祀りし、四季全国各地からの賽客はらくえきとして跡を絶たず、7月13、4日の大祭にはその数20万余を算え、大衆の神として崇められています。
そもそも祭神清兵衛公は仙台伊達政宗の長子秀宗が、父の関ヶ原、大阪冬の陣の戦功によって、徳川家より宇和島藩に分封された際、父政宗が若輩秀宗の将来を案じて、自分の最も信頼する清兵衛公をその家老職に抜擢して随伴せしめられたのであります。
当時藩主は相次ぐ領主の悪政によって、疲労困憊し惨憺たる状態でありましたので、生来純忠篤実な清兵衛公は、よく藩主を補佐して藩費の節約を始め租税の軽減、産業の奨励、武備の充実等の政策を逐次推進された結果、民政は安定し、藩政は大いに刷新され、藩内挙げて新藩主を謳歌し、清兵衛公の徳望は生き神さまの如く仰がれたのであります。
しかしこの事は却って一部の藩士から妬まれ反感をかい、遂に元和6年6月29日の夜彼等一味の凶刃にたおれたのであります。
其の後清兵衛公を敬仰する藩主藩民は心から御霊をなごめまつらんと小祠を建てゝ崇敬の誠を捧げて居りましたが、承應2年6月24日山頼和霊神社として奉祀したのであります。
爾来霊験あらたかにして神威益々発展の一途をたどりました。
しかし不幸にも昭和20年7月28日米軍の大爆撃を受け、さしもの社殿全部を灰燼に帰しましたが、広大無辺の御神威のもと奉賛会の赤誠により逸はやく復興にかゝり、次々に社殿は建立され、今や旧に増す荘厳さといんしんを極めて居りますことは、洵に畏きかぎりであります。

和霊神社と坂本龍馬

文久2年(1862年)3月24日、坂本龍馬28歳のとき、高知市神田に鎮座する和霊神社に「花見に行く」といって参拝し、そのまま国抜け(脱藩)した。
この和霊神社は、才谷屋三代目「八郎兵衛直益」が宝暦12年(1762年)に伊豫・宇和島の和霊神社から分霊を勧請してできた屋敷神である。
神社は龍馬の生家「才谷屋」があった高知市上町1丁目から約3.5kmの距離に位置し、県道37号高知春野線を南に下り、高知銀行神田支店横の交差点を南に800m下って、鳥居を抜ける石段を50m程上がった山の右手にある。
毎年3月24日には地元の人々が脱藩祭を行っている。
平成14年3月。
宇和島に鎮座する和霊神社(当社)に「龍馬脱藩百四十年・和霊神社分霊創建年記念」の標柱が宇和島市史談会の手により境内地に建立された。

(リーフレットより)

日本一の石造りの鳥居




日本一の石造りの鳥居
(愛媛県宇和島市・和霊神社)




(平成19年11月7日)


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