平成19年11月10日

矢野七三郎 やの・しちさぶろう

安政2年(1855年)〜明治22年(1889年)

愛媛県今治市・今治城でお会いしました。


矢野七三郎像



矢野七三郎像
(愛媛県今治市・今治城)





(平成19年11月10日)

今治綿業の父 矢野七三郎について

矢野七三郎は安政2(1855)年越智郡宮脇村(現在の大西町大字宮脇)に父節太母美喜の長男として生まれた幼名は通正という
少年時代地域の学識者として名高かった山本五左衛門の薫陶くんとうを受け温厚篤実おんこうとくじつにしてしかも進取の気象にに富んだ人柄を形成した
青年期に入ると父親を援たすけて家業の海運業や酒の醸造業に努め事業家として幅広い経済知識を身につけた
明治12(1879)年に四国最初のキリスト教会が今治の恵比須町に創立されたがそれを機会に七三郎はキリスト教に入信し新しい西欧思想を身につけた同志社大学の創始者新島襄や文豪徳富蘆花と知り合ったのもこの頃である
とりわけ宣教師横井時雄とは親交が深く七三郎が事業家の素養を培つちかったのはこの横井時雄と伯父の柳瀬義冨に負う所が大きい
青年実業家矢野七三郎が最初に瞠目どうもくしたのは西洋における産業文明の発達であって当時衰退していた織布(家庭内職による小幅白木綿)を近代化し尚かつ企業化することであった
同志数名と共に紀州を始め先進企業地を見て研究し艱難辛苦かんなんしんくの末これを企業化することに成功した
明治19(1886)年七三郎は伯父柳瀬義富の援助を得て興業舎を設立し伊予ネルの生産を開始した
多忙な日常業務のかたわら彼は後進の育成にも力を注いだためこの今治地方には多数の織布工場が出現し今日の綿織物タオル染色縫製等繊維産業の基礎を築いた
しかるに未来に向かって扉を押し開いたこの若者を天は惜しげもなく天上に召しかえしたのである
すなわち明治22(1889)年12月24日の深夜自宅で就寝中に突如凶賊きょうぞくに襲われ不運にも白刃はくじんの犠牲となった
享年きょうねんは35歳惜しんでも余りある青年実業家の夭折ようせつであった
    今治産業の黎明期れいめいきを築いた矢野七三郎
    彼の偉大なる業績は永遠に不滅である
台座にある「首倡功」の意味は「首て功を倡となう」と読み偉大なる創始者に贈られる尊敬の言葉である

(副碑・碑文より)


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