淀殿 よどどの

永禄12年(1569年)(?)〜慶長20年5月8日(1615年6月4日)


豊臣秀吉の側室。
豊臣秀頼の母。
近江国小谷城主浅井長政の娘。
母は織田信長の妹・小谷おだにの方。
名は茶々。
天正元年(1573年)小谷落城の際、母・妹とともに城を出、織田家の庇護を受ける。
天正10年(1582年)、柴田勝家と再婚した母に従い、越前国北庄へ移る。
翌年の北庄落城の際、妹二人と城を出て秀吉の庇護を受ける。
のち、山城国淀城に移り、秀吉の側室となる。
天正17年(1589年)、鶴松を生むが夭折。
文禄2年(1593年)、秀頼を生む。
秀吉の死後は、秀頼の後見として政治に関与し、徳川家康と対立。
大坂夏の陣で徳川氏に敗れ、元和元年(1615年)秀頼と共に大坂城で自害した。


鴫野神社



鴫野神社しぎのさん
(大阪市天王寺区・生國魂神社内)





(平成20年6月16日)

鴫野神社しぎのさん

淀君ゆかりの神社である。
鴫野神社はその昔「鴫野弁天さん」として大阪城東側に祀られていた。
この弁天社を大阪城の淀君が殊のほか篤く崇敬し、後には弁天社の隣に「淀姫社」として祀られたほどである。
爾来、女性の守護神まもりがみと仰がれ心願成就・縁えにし(縁結び・悪縁切り)の神様として霊験れいげんあらたかとの評判を呼び、お参りする人が群れをなしたと伝えられている。

(説明板より)

生國魂神社



生國魂神社
(大阪市天王寺区生玉町13−9)





(平成20年6月16日)

【淀殿(茶々)】

浅井三姉妹の長女・茶々がいつ秀吉の側室になったのかは定かではない。
最初の若君、鶴松を天正17年(1589)5月27日に出産していることから、遅くとも前年の6月までには側室になっていたと思われる。
秀吉は喜びのあまり御産所ごさんじょとして淀城を修築した。
以来、茶々は淀の方、淀殿と呼ばれる。
ところが、鶴松は3歳で病死。
秀吉の落胆は甚だしく、関白職を甥の秀次に譲り、太閤となる。
その2年後、幸運にも淀殿は2人目の子・拾ひろい(秀頼ひでより)を出産した。
今度こそ元気な若君に育てたい。
当時、上層階級の子弟は乳母うばが育てることが慣習であったが、淀殿は例外的に自分の母乳で秀頼を育てる。

秀頼出産の翌年、浅井長政の二十一回忌にあたり、淀殿は秀吉の許しを得て長政の菩提寺・養源院ようげんいんを京都に建立している。
また、自分に仕える侍女じじょは無論、秀頼付きの家臣や乳母も元浅井家と関わりのある人間を多く登用し、着々と世継ぎとして力を得ていった。
秀吉亡き後、秀吉の遺言を守って秀頼を養育し、豊臣家を存続させようと努力するが、豊臣の時代はすでに終りつつあった。

(参考:『歴史街道 2011年8月号』)

(平成25年11月12日 追記)


淀君並殉死者32名忠霊塔



淀君並殉死者32名忠霊塔

大阪城





(平成20年6月17日)

豊臣秀頼 淀殿ら自刃の地



豊臣秀頼 淀殿ら自刃の地
(大阪城・山里丸)





(平成20年6月17日)

碑文

慶長20年(1615)5月8日 大坂城主豊臣秀頼とその母淀殿をはじめとする主従約30名は 落城直後の大坂城内で自刃した
その場所については諸説あるが ここ山里曲輪の一角にあった矢倉の中とする説が有力である。

秀頼・淀殿ら自刃の地

慶長20年(=元和元年、1615)の大坂夏の陣では、旧暦の5月8日、徳川軍に追い詰められた豊臣秀頼とその母淀殿が、山里丸にあった櫓やぐらにひそみ、自害したと多くの記録が伝えている。
それにちなんで平成9年(1997)、現在の山里丸の一画に大阪市の手によりこの記念碑が建てられた。

(説明板より)


お艶が岩とお艶観音像



『お艶が岩』と『お艶観音像』

(群馬県前橋市敷島町・敷島公園)





(平成16年9月11日)

お艶が岩
伝説

この”お艶が岩”には、こんな話が伝えられています。
「お艶」とは、実は”淀君”だったということです。
淀君といえば豊臣秀吉の側室で、慶長20年(1615)大阪夏の陣に際し、わが子秀頼とともに大阪城の天主閣で炎の中、自刃したと伝えられています。
ところが、対岸にある元景寺に伝わる話によりますと、淀君は、大阪夏の陣に出陣した総社城主秋元長朝の陣に助けを求めてきました。
長朝は、淀君を篭に乗せ木曽路を通り総社に帰りました。
もちろん当時、淀君をかくまったとあっては、たいへんなことですから、”大橋の局御縁”と呼んでいました。
その後、幾星霜、この城でなに不自由なく過ごしていた淀君でしたが、過去の悲哀に耐えきれず、遂には世をはかなんで、この岩の上から利根の激流に身を投じたといいます。
この”御縁”が、語り継がれていくうちにいつしか”お艶”にかわり、だれいうとなく、この岩を”お艶が岩”と呼ぶようになったということです。
総社の元景寺には、”淀君の墓”といわれるお墓があり、淀君が使ったという、お篭も残っています。
なお、こゝにある「お艶観音像」は、敷島公園愛護会がお艶三百三十年忌に際して、昭和34年4月日展審査員山本雅彦氏に制作をゆだね建立したものです。

(説明碑文より)




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