海軍飛行予科練習生(予科練)


予科練の碑 平成18年2月10日

予科練の碑



『豫科練之碑』

(茨城県稲敷郡阿見町・陸上自衛隊武器学校)
旧・土浦海軍航空隊跡
旧・予科練跡



(平成18年2月10日)

碑文

予科練とは海軍飛行予科練習生即ち海軍少年航空兵の称である。
俊秀なる大空の戦士は英才の早期教育に俟つとの観点に立ちこの制度が創設された。
時に昭和5年6月、所は横須賀海軍航空隊内であったが昭和14年3月ここ霞ヶ浦の湖畔に移った。
太平洋に風雲急を告げ搭乗員の急増を要するに及び全国に19の練習航空隊の設置を見るに至った。
三沢、土浦、清水、滋賀、宝塚、西宮、三重、奈良、高野山、倉敷、岩国、美保、小松、松山、宇和島、浦戸、小富士、福岡、鹿児島がこれである。
昭和12年8月14日、中国本土に孤立する我が居留民団を救助するため暗夜の荒天を衝いて敢行した渡洋爆撃にその初陣を飾って以来、予科練を巣立った若人たちは幾多の偉勲を重ね、太平洋戦争に於ては名実ともに我が航空戦力の中核となり、陸上基地から或は航空母艦から或は潜水艦から飛び立ち相携えて無敵の空威を発揮したが、戦局利あらず敵の我が本土に迫るや、全員特別攻撃隊員となって一機一艦必殺の体当たりを決行し、名をも命をも惜しまず何のためらいもなくただ救国の一念に献身し未曾有の国難に殉じて実に卒業生の8割が散華したのである。
創設以来終戦まで予科練の歴史は僅か15年に過ぎないが、祖国の繁栄と同胞の安泰を希う幾万の少年たちが全国から志願し選ばれてここに学びよく鉄石の訓練に耐え、祖国の将来に一片の疑心をも抱かず桜花よりも更に潔く美しく散って、無限の未来を秘めた生涯を祖国防衛のために捧げてくれたという崇高な事実を銘記し、英魂の万古に安らかならんことを祈ってここに予科練の碑を建つ。

昭和41年5月27日
海軍飛行予科練習生出身生存者一同
撰文 海軍教授 倉町秋次

予科練の碑と雄翔園

予科練の碑は、支那事変から太平洋戦争にかけて散華した、予科練出身の英霊18564柱の慰霊を目途として予科練生存者等の寄金により、昭和41年5月建立されました。
碑の廻りの雄翔園は、水漬く屍の英霊が先輩、後輩供に肩を組んで、太平洋から日本の将来と平和を見守るように廻りには日本列島を形作っております。
太平洋の芝生は桜の花弁を、芝生廻りの敷石は錨を、芝生の中の七ツの石は七ツ釦と七ツの海を形象して作られております。
尚、池の廻りの石等は、日本全国から集められたものです。

(説明板より)

雄翔館



雄翔館(予科練記念館)
(茨城県稲敷郡阿見町・陸上自衛隊武器学校)





(平成18年2月10日)

雄翔館(予科練記念館)

雄翔館は、太平洋戦争において、卒業生の8割が、日本の勝利を信じ、潔く花よりも美しく散っていった海軍飛行予科練習生の生活や、英霊の遺書、遺品等を永く保存して、その遺徳を後世に伝えるために、昭和43年予科練生存者等によって建立されました。
建物は航空母艦を形象して作られ、屋上への通路は艦橋を、屋上は飛行甲板を現しております。
同館は昭和43年高松宮殿下同妃殿下をお迎えして開館され、以来毎日大勢のご見学の方々に深い感銘と感動を与えております。

(説明板より)

訪問記
入館料は無料。館内の写真・ビデオ等の撮影は禁止です。
多くの遺影・遺書・遺品の他に、以下のようなものが展示されていました。

乙飛一期軍神遠藤中佐の夜戦月光の破片
初代予科練習部長海軍中将市丸利之助書の掛軸
大西瀧次郎中将の勲一等旭日大授章
局戦雷電のプロペラの一部
零戦のプロペラの一部(パラオから寄贈)
震洋5型のスクリュー
戦艦陸奥の舷窓
予科練ラグビー着
彗星艦爆計器盤の時計(静岡県大井川河口不時着機のもの)
航空記録簿・電話交信略語表・自差分解表
航法計算盤・航空時計・自差測定用コンパス
主要海軍航空機の模型
震洋特攻艇(1型・1型改1・5型)の模型
一等潜水艦乙型イ19の模型
防空駆逐艦秋月の模型
特攻艇蛟竜の模型
桜花11型の模型

予科練の制度

昭和5年、海軍飛行予科練習生制度が発足した当初は、高等小学校修了以上の者で、満14歳以上20歳未満で学力・体力ともに優秀な少年を飛行兵として採用し、きびしい教育訓練課程を経て海軍航空隊の中堅幹部に育てました。
昭和12年、更に航空戦力の急速な拡充のため搭乗員の大量養成が必要になり、従来の少年航空兵を乙種飛行予科練習生と称し、あらたに中学校(旧制)4学年1学期修了以上(後に3学年修了程度)の学力を有する志願者から採用する甲種飛行予科練習生制度を設け、合格者を短期間で養成しました。
年齢は満15歳以上20歳未満でした。
また、海軍部内の一般下士官兵の中から飛行科を志願し、選抜された者を丙種飛行予科練習生と呼びました。
更に、昭和18年から乙種予科練合格者のうち一定の資格のある者を乙種(特)飛行予科練習生と称して短期教育の上第一線に送り出しました。

予科練の活躍

1937年(昭和12年)7月7日、日本と中国が戦闘状態に入った。
海軍航空隊は同年8月15日、九州の大村基地を発進、折からの暴風雨をついて東支那海を飛び越え、中国の首都である南京の軍事施設を爆撃した。
当時、大編隊を組んで海を渡ることは世界航空史に例がなかった。
この渡洋爆撃に予科練出身者も参加し、予科練(少年航空兵)の声価を高めました。
1941年(昭和16年)12月8日、日本と連合国との間に戦争が始まった。
いわゆる太平洋戦争です。
ハワイの真珠湾攻撃に成功した日本は、またたくまに太平洋の広範な地域を占領したが、昭和17年(1942年)6月のミッドウェー海戦で大損害を受け、さらに同年8月アメリカ軍のガダルカナル島への攻撃から連合国の反撃が開始された。
アメリカ軍を中心とした連合軍は、豊富な物量を投じ、しだいに日本軍を圧迫してきた。
海軍航空隊は優勢な敵を阻止するために、必死必中の特別攻撃(特攻)で爆弾もろとも敵艦に体当たりをする作戦を敢行するにいたりました。
しかし、敵の攻撃は息もつかず、ついには日本の本土に接近してきた。
もはや空からの守りだけでは祖国を救う方法はない。
新しい特攻兵器が戦場に投入された。
人間魚雷・回天海竜・蛟竜、爆装モーターボート・震洋人間爆弾・桜花、爆薬を抱えて敵艦に体当たりするフロッグマン・伏竜など、そのいずれもが若い予科練を中核とするものであり、空と海上と海中一体となって戦ったのです。
1945年(昭和20年)8月15日、日本は降服した。
国土は荒廃していた。
焼土と化した都市、食うに糧なき国民、この混乱状態の中から生き残った者たちは、予科練魂を発揮して立ち上がりました。
荒れ果てた国土を復興しよう、それが戦死した戦友たちに報いる道でもある、と決意したのです。
歳月は流れた。
日本は今、立派に再建されています。
どうかこの精神を若いみなさんが引き継いで、世界平和のため、日本のため活躍して下さることをお願いします。

高松宮妃殿下御歌
霞ヶ浦に立ちて海軍飛行予科練習生を偲びてよめる

海はらに
はたおほそらに
散華せし
きみら声なく
いく春やへし

海原会とは

昭和53年(1978年)10月、生存予科練同窓に加え、ご遺族および一般の方でご理解ご協力いただける方々のご参加を得て、予科練出身戦没者の慰霊・顕彰と、社会への奉仕等を通じて、わが国の益々の繁栄と世界の平和に貢献すべく、公益法人として設立されたのが『財団法人海原会』であります。
海原会では、さらに社会福祉事業として、未来を背負う青少年の健全育成事業や戦争犠牲者(遺族)への支援も行っております。

(以上、海原会発行『豫科練』のリーフレットより)


医務課の建物



医務科の建物
(茨城県稲敷郡阿見町・陸上自衛隊武器学校)





(平成18年2月10日)
医務課の建物



医務科の建物
(茨城県稲敷郡阿見町・陸上自衛隊武器学校)





(平成18年2月10日)

医務科跡

この建物は、昭和15年土浦海軍航空隊の改編に伴い、医療施設として建設されました
この施設には診察室、薬剤室、手術室、ボイラー室が、完備され、日夜厳しい訓練に励む予科練習生の健康管理、適性検査等に使用されました

(説明板より)

陸上自衛隊土浦駐屯地武器学校案内

駐屯地案内 平成18年2月10日


予科練について

『予科練』という制度は日本独特のもので、昭和5年6月1日に『海軍練習航空令』『海軍練習航空隊規則』が施行されたことで出来た制度である。
前年からの募集で、志願者は5,807名に及び、その中から79名が選出され横須賀海軍航空隊に入隊した。
これが最初の予科練であり、その資質は非常に高かった。
受験資格は高等小学校卒業以上の学力を持つ満15歳から17歳までの男子。
3ヶ年の予科練課程の中で、中学(旧制)卒業以上の普通教育を身につかせることが目的で、霞ヶ浦と横須賀の海軍航空隊が練習航空隊の指定を受けた。

昭和11年の第7期生から、予科練の修業期間が短縮され、3学年制を2学年制に変更となる。
昭和11年12月4日までは「予科練習生」と呼ばれており、12月5日から「飛行」の二文字が加わり「飛行予科練習生」と改称された。

昭和12年7月7日に、日中戦争が勃発。
海軍は第一次、第二次軍備補充計画が実施されると、航空兵力の増強が急務となった。
海軍には今まで予科練習生と、大正9年に開始された、下士官・兵から航空兵に志願した操縦、偵察練習生とがあったが、これだけでは海軍の航空兵力の要求を満たし得ない状況となった。
そこで、昭和12年、兵学校が採用する、中等学校(旧制)4年1学期修了程度の者を採用し、兵学校より学習時間を短縮して搭乗員を養成する「甲種飛行予科練習生」制度を設けた。
そのため、従来からあった飛行予科練習生は「乙種飛行予科練習生」と改称され、昭和14年からは乙種予科練は修業期間を従来どおりの3学期制に戻したのである。
しかし、この「乙種」という呼称には若干の抵抗があったらしい。
それは、当時の成績表などの表示が成績の良い方から「甲」「乙」「丙」と表記されていたので、本家ともいえる予科練が「乙」というのでは・・・・ということらしい。
しかし、予科練卒業後の昇級は甲種、乙種とも同様であった。

甲種・乙種予科練生は、卒業後は士官ではなく、特務士官となる。
特務士官は特務大尉までで、少佐に昇進するのは難しい。
そのため不満も多く、この不満を解消するため、昭和17年11月1日より、特務士官制度を廃止した。
更に、従来の一般兵科の下士官、兵から採用していた操縦、偵察練習生の名称を「丙種飛行予科練習生」としたが、戦局の悪化に伴い、一般兵科から募集することができなくなり、丙種予科練は昭和18年3月に中止された。
その代り、「乙種飛行予科練(特)」という予科練が同年4月1日に岩国海軍航空隊に新設された。
この第1期生は1,585名で、6ヶ月で予科練を卒業し、昭和19年1月には実用機操縦教程、4月30日には実戦部隊に配備されるというスピード教育であった。

(参考:『月刊 予科練 平成21年2月号』)

(平成21年6月12日追記)


予科練とは?

海軍航空機搭乗員の育成は、当初は、海軍兵学校出身の士官を充当したが、後に、海兵団で一定の教育を終了した者の中から選抜して搭乗員を養成する「操縦練習生・偵察練習生」の制度が発足した。
更に、横須賀海軍航空隊が追浜に「豫科練習部」を開隊。
昭和5年6月1日、5,807名中から79名が厳選されて、第1期生として2年6ヶ月の予科練教育が開始された。
競争率は実に73.5倍である。

操縦練習生・偵察練習生出身の搭乗員と共に、予科練習部出身の搭乗員は、昭和12年に勃発した「支那事変」で、世界初の「渡洋爆撃」に参戦して多大な戦果を挙げた。
この事が契機で、受験学力を中学4年終了とし、教育期間を約半分に短縮した制度を開発。
これを甲種予科練と称し、従前からの予科練習部を乙種予科練と改称して、予科練制度を統一した。
また、従前の操縦練習生(操練)・偵察練習生(偵練)を廃止。
新たに「丙種予科練」を昭和15年10月にスタートさせた。
また更に、昭和18年4月には、乙種予科練合格者の中から選抜して、「乙種(特)」なる制度をスタートさせ、教育期間も6ヶ月に短縮し、大量養成に踏み出した。

予科練には終戦直前までに、24万1,779名の入隊者があった。
甲種(16期まで) 13万9,720名
乙種(24期まで)  8万7,482名
丙種(17期まで)     7,732名
乙(特)(10期まで    6,845名
合計 24万1,779名

このうち昭和19年以降は大量の採用で、入隊者数は全入隊者数の約73%、17万6,505名にのぼっている。
また、予科練出身者の戦没者は1万8,564名である。

予科練航空隊も、当初は追浜空(横須賀)のみだったが、昭和15年に霞ヶ浦航空隊水上機班を独立させ、専門の予科練航空隊(土浦航空隊)を開隊。
その後、昭和17年に三重空、続いて鹿児島空が開隊し、全国各地に教育航空隊が開隊され、最終的には10ヶ所の航空隊が開隊された。
この他に、実地教育航空隊を併せると21ヶ所余となる。

終戦直前になって海軍は、窮余の策として、形の上では海軍飛行予科練習生として採用して、最初から奈良天理教または高野山の宿坊を利用して整備の教育に、また、久里浜海軍通信学校・防府海軍通信学校または藤沢に、新設されたレーダーの為の電信校にと、また、機上整備員の不足から、串良・人吉等々に人員補充のために入隊させ、短期教育での電信・整備等の専門知識を教育して実戦部隊に送った。

敗戦を迎え、韓国にいた一部のものは、シベリアへ送られて終戦後3年余も異国での生活をした者もいた。

(参考:『月刊 予科練 平成20年11月号』)

(平成23年10月21日追記)


【予科練】

航空機はパイロットの腕により実力の発揮の仕方が違ってくるので、従来以上に若い勘の良い操縦士が必要となった。
そこで昭和5年(1930年)6月、海軍飛行予科練習生として79名が選ばれた。
満15〜16歳の少年である。
彼らはいきなり飛行機に乗るわけではなく、3年間の一般教養や体力づくりの後、操縦術を学ぶ。

予科練の養成は神奈川県の追浜にある横須賀航空隊で行われた。
追浜時代、入学率は80人に1人という狭き門だった。
現在の高校教育と同じ科目で、理数科はやや程度が高い。
軍事学は通信、砲術、陸戦、機関、信号、運用(ロープの縛り方とかボートの取り扱いなど)、水雷である。
3年の予科コースを終えると約2ヵ月間、軍艦に乗る。
いくらパイロットでも軍艦に乗ったことがないというのでは困るからだ。
昭和18年(1943年)6月、瀬戸内海の柱島沖で戦艦「陸奥」が事故で爆沈した時、153名の予科練が乗船中だった。
うち、139名もが死亡している。
艦務実習が終ると待望の本科へ進み、それぞれ操縦と偵察の術科訓練に入る。

誰しもが操縦を希望したが、身体検査の結果などで、偵察コースに回される者も少なくなかった。
偵察員の仕事は機上から敵艦を発見することではない。
海軍では偵察員は航法を担当する。
海の上では目印がないから、風向を考えつつ計算するのだ。
操縦士は偵察員の命ずるままに操縦桿を握るだけなのである。
だから偵察員というのは、爆撃機、攻撃機、飛行艇、輸送機など機種を問わずに乗らなければならない。

昭和12年、日華事変開始の年、海軍ではさらに航空要員を確保するため、やや程度の高い予科練を募集し始めた。
今までは小学校卒業後に入る高等小学校(2年制・年齢は現在の中学2年生に相当)卒業程度で受験できた。
しかし新コースは、中学4年(現・高校の1年生相当)の1学期修了以上でなければ受けられない。
つまり、はじめから2年近くも年上の少年を採用するのだ。
もっとも第13期からは、甲種の受験資格は中学3年修了以上に下げられている。

この新コースを甲種予科練と称し、従来の年少組を乙種予科練と呼んで区別した。
カリキュラムも乙種は2年6カ月だったが、甲種は1年6カ月だった。
甲種の場合、入隊した練習生は120名で1個分隊を編成、15名を1つの班として8つの班よりなっていた。
分隊長は少佐、または大尉、班長は下士官だった。

甲種は毎年4月と10月に入隊する。
乙種より2歳近く年上のため、進級のスピードが早かった。
他の一般志願兵が入隊と同時に二等水兵となるのと同じく二等飛行兵になる。
ここまでは同じだが、1ヶ月後に一等飛行兵、3ヶ月後に上等飛行兵、半年で飛行兵長に進級した。
兵長で予科練を卒業すると、本科で操縦訓練を受けているうちに二等飛行兵曹(陸軍の伍長に相当)となる。

甲・乙の両コースが横須賀航空隊の飛行予科練習部で行われた。
横須賀航空隊は、実験部隊として新鋭機のテストなども受け持っていたため手狭となったので、昭和14年(1939年)、甲・乙種とも予科練は茨城県の霞ヶ浦に引っ越した。
霞ヶ浦にはもともと水上偵察機の部隊があったが、3カ月ほど前に茨城県の鹿島に移っていたので、予科練はその跡地に移ったのである。
移転当時の練習生は甲種の2期生、3期生を含めて約1300名程度。
乙種は1期生から10期生まで(昭和5年〜12年)が横須賀で教育されたことになる。

西城八十の作詞、古関裕而作曲の『荒鷲の唄』に歌われる七つボタンの短い制服は昭和17年末から採用されたもので、冬は紺色、夏は純白だった。

霞ヶ浦に引っ越してからしばらくは、練習機を取り扱う霞ヶ浦航空隊の中の飛行予科練習部であったが、昭和15年、予科練は独立して土浦航空隊と改名した。
太平洋戦争に入るとパイロットの不足から、さらに短期養成の必要が生じた。
そこで、昭和18年、特乙飛行予科練習生の制度が設けられた。
これは乙種に合格した者のうちから、17歳以上の者を選び出し6カ月という短期で教育しようというものである。
また丙種予科練というものもあった。
これは普通の水兵、機関兵、主計兵、衛生兵などのうち、飛行機への転科の希望者を選び、インスタント教育で卒業させるものである。

太平洋戦争の戦況が窮迫し始めた昭和18年、予科練の教育はインスタント式で早く卒業させることに主眼がおかれた。
英語、漢文、ヨーロッパの地理と歴史は廃止された。
数学、物理、化学も飛行任務に直結する内容のみに絞られた。
乙種の教育も16期生以降はさらに短縮され、2年2カ月となった。
末期の20期生などは1年11カ月という速成ぶりである。

予科練出身者は早くから第一線に出ていたので、階級は下でも兵学校卒業の指揮官(小隊長、中隊長)よりも操縦の腕は良かった。
ましてや昭和19年以降、大学を卒業したというだけで予備士官に昇進した学徒出陣組よりも潮っ気は多い。

戦死者が急増するにつれ、パイロットの絶対数が足りなくなり、「土浦に続け!」とばかり、昭和19年に入ると、予科教育専門の航空隊が続々と各地に誕生した。

予科練教育の航空隊(増設の分)
隊名 開隊日 所在地
 岩国航空隊  昭和14年11月  山口県
 三重航空隊  昭和17年8月  三重県
 鹿児島航空隊  昭和18年4月  鹿児島県
 美保航空隊  昭和18年10月  鳥取県
 松山航空隊  昭和18年10月  愛媛県
 福岡航空隊  昭和19年6月  福岡県
 滋賀航空隊  昭和19年8月  琵琶湖畔
 三沢航空隊  昭和19年9月  青森県
 清水航空隊  昭和19年9月  静岡県
 小松航空隊  昭和19年9月  石川県
 小富士航空隊  昭和19年10月  福岡県
 倉敷航空隊  昭和19年11月  岡山県
 浦戸航空隊  昭和19年11月  高知県
 宝塚航空隊  昭和20年3月  兵庫県
 奈良航空隊  昭和20年3月  奈良県
 西宮航空隊  昭和20年3月  兵庫県
 高野山航空隊  昭和20年3月  和歌山県
 宇和島航空隊  昭和20年3月  愛媛県

定員はまちまちだが、例えば三重航空隊は9000名、福岡が5000名、西宮が1500名という具合だった。

昭和19年10月、フィリピンで神風特攻隊が出現した。
指揮官は兵学校出や予備学生だったが、列機の多くは予科練出身だった。
この方面では、甲種6期〜12期(昭和15年〜18年入隊)が多く、乙種は9期〜11期(昭和12年〜14年入隊)が多い。
昭和20年4月、九州南部の各基地から沖縄への航空特攻では、乙種12期〜18期が多く散華している。
特攻隊戦死者のうち予科練出身者は約1300名、その階級は一等飛行兵曹(陸軍の軍曹に相当)か二等飛行兵曹で、年齢は18歳〜20歳くらいである。
なかには昭和2年生まれ(満17歳)の特攻隊員もいた。

昭和20年になると、もうガソリンがなくなり飛行訓練さえできない。
そこで特攻艇「震洋」の搭乗員として、乙19期、特乙5期など500名もが震洋隊員に移って、九州・川棚で震洋艇の訓練を受けた。
また人間魚雷「回天」にも甲種13期出身者が加わり、18歳〜19歳で散華している。
本土決戦用にカタパルトから打ち出す人間爆弾「桜花」43型も造られ、この搭乗員は甲種14期のうち、浦戸・美保航空隊にいた者が選ばれ、長野県野辺山でグライダー訓練を始めていた。

(参考:『別冊歴史読本 零戦と日本航空戦史』 新人物往来社 1996年11月発行)

(令和元年11月27日 追記)


十八期の碑


『十八期の碑』
(京都市東山区・霊山観音)

特に記載はなかったのですが、多分、乙種第18期だと思います。



(平成16年4月2日)

副碑(碑文)

太平洋戦争に於て405名の同期生は海軍少年飛行兵として紺碧の大空に散華し未曾有の国難に殉したり
散るべくして散る機を得ざりし吾等は英魂の萬古に安らかならんことを祈念してこゝに18期の碑を建つ

昭和40年3月28日
第十八期海軍飛行予科練習生
生存者一同

説明板

こんぺきの空は果てしなく碧い
その空の彼方に散りし 戦友よ
安らかに眠り給え

昭和17年5月1日、全国から志願した若者1475名が土浦海軍航空隊に入隊し、所定の訓練を終えてそれぞれの任地へ飛び立って行ったが、太平洋戦争は多くの少年達の命を惜しみなく奪って行った。
そして戦後405名の戦没者の霊を慰めんと生存同期生が此の地で供養を続けて8年目、”18期は一つ”と念願し全同期生が一堂に集える場所として茲に18期の碑を建てるに至った。
この碑の前に立つ時、幾多の苦難を共にした想い出を亡き戦友と語り合い乍ら同期の桜を咲かせるであろう。

昭和40年3月28日
予科練一八会


入隊50周年記念の碑
『入隊50周年記念』の碑

(島根県松江市・松江護国神社

予科練島根19期会
平成4年4月4日

記念植樹の碑だと思われます。


(平成16年11月20日)

鹿児島県出身戦没者慰霊碑



海軍甲種予科練習生(甲飛生)
      鹿児島県出身戦没者慰霊碑

(鹿児島県鹿児島市・鹿児島県護国神社




(平成19年3月30日)

海軍甲種予科練習生(甲飛生) 鹿児島県出身戦没者慰霊碑

碑文

「先に行く。後は頼むぞ。」の言葉を残し、純真無垢な笑顔で決然と出撃したまま、二度と還ることのなかった君達を今でも覚えている。

日中戦争(1937年)から太平洋戦争(1945年)にかけて、海軍航空機幹部搭乗員を短期間に養成するため、全国の旧制中等学校より志願者を厳選し、優秀な若者たちが、甲飛生となった。
第1期生から第16期生まで、横須賀・土浦・鹿児島など各地の航空隊に入隊、操縦員・偵察員として猛訓練を受けた若者たちは、海鷲魂を培い、空に飛び、海原を駆け、海に潜り、あるいは特攻隊員となって、祖国安泰のために自らの尊い命を捧げることとなった。
あの悲惨な戦争を二度と繰り返してはならない。
残る桜となった生存甲飛生並びに遺族は、賛同者の御協力を得て、甲飛生の歴史の伝承と世界恒久の平和を願い、本県出身戦没者240余名の安らかな眠りを祈念して、ここに慰霊碑を建立する。

平成7年(1995年)11月1日
鹿児島県生存甲飛生
       遺族一同

碑の解説

主碑全体は、卵型を半分にした形で、その半分は地中に埋まっていると想定した。
卵型は、生命の誕生と回帰、調和と安定、そして永遠の平和を表している。
桜色の御影石は、桜の花のように散った若き戦友たちを意味し、白色の御影石は、亡くなった戦友たちを両手で抱きかかえるように霊を弔う生存甲飛生を意味している。
桜色には若くして逝った彼らの若い命と勇気、優しさを込め、白色には死の尊厳を思う純粋な気持ちと永遠に不変である戦友たちの結びつきを込めた。
また、祖国のために「空」という地名のない場所で、戦い、傷つき、命を落とし、あるいは生きのびて涙し見上げた空を恒久的に見上げるよう、桜色御影石の前面を空に向けることとした。

c 鹿児島県甲飛会+YT


あゝ予科練の碑



『あゝ予科練』の碑

(和歌山県和歌山市・和歌山県護国神社





(平成19年4月13日)

碑文

予科練とは海軍飛行予科練習生即ち少年飛行兵の称なり
航空機搭乗員として英才の早期養成をめざし昭和5年この制度発足以来大東亜戰争終結迄學業半ばの少年が七ツ釦は桜に錨とと志し
   卓越せる技倆
   旺盛なる攻撃精神
   崇高なる犠牲的精神
を基に日夜猛訓練に耐え大空に巣立てり
支那事変には海鷲として渡洋爆撃の初陣以来開戦劈頭ハワイマレー沖航空戦にその威名を世界に轟かせ我が航空戦力の中核となるも戦局利あらず敵本土に迫るや悠久の大義に滅せんと自らを爆弾に変え身をも命も惜しまず特攻機と共に未曾有の國難に殉じたり
祖国永遠の平和と安泰を祈り散るべくして散り得ざりし我等予科練出身者は英魂の萬古に安らかならん事を祈念しつつこの碑を建立し大空に眠れる御霊に捧ぐ

昭和44年11月3日
予科練和歌山県人会


予科練鎮魂之碑



雄飛 豫科練鎮魂之碑
(愛媛県松山市・愛媛県護国神社





(平成19年11月9日)

碑文

豫科練雄飛それは、昭和5年日本海軍が航空兵力増強の期待を担って少年航空兵としての海軍豫科練習生制度を創設し弱冠15歳前後の紅顔無垢の少年達79名を第1期生として横須賀海軍航空隊に入隊させ呱々の声をあげたに始まる。
爾来昭和20年8月の聖断下る日まで十年余の短い歴史に過ぎないが第24期生まで実に7萬1千名を数える。
この間若人達は祖国を護らんと堅き決意を抱き飛行機搭乗員を志し飛行豫科練習生として続々入隊鉄石の猛訓練によく耐え搭乗員としての基礎を養い期待通りの成果をあげ大空に巣立っていった。
昭和12年支那事変勃発するや豫科練出身搭乗員は初陣の誉に浴しあの輝かしき渡洋爆撃行に列し活躍花を咲かせた。
太平洋戦争においては、世界に誇る海の荒鷲としてハワイに、マレー沖に緒戦を飾り文字通り海軍航空隊の中核として熾烈な航空戦に従事し伝統の中に豫科練魂を築き上げ身を捨てて顧みない崇高な精神を鍛えあげた。
戦い酣兄等は空の果てるところ海原遥か長躯翼を捷って祖国存亡の激戦に立ち向い、南太平洋、中部太平洋、遠くは印度洋に酷寒のアリューシャンに展開し常に第一線搭乗員として力の限り戦い、勇戦激闘赫々の武勲をたて武功を誇った。
戦雲急を告ぐる決戦のとき兄等は全員特攻を決意し何の代償も求めずひたすら祖国の繁栄を念じつつ莞爾として悠久の大義に殉じた。
星霜すでに四十有余年瞑目すれば紅顔の英姿颯爽と今なお眼底に鮮やかなリ、愛媛県出身110柱在天の御霊よ希くば吾等が微哀を汲みて此処青松の神域に安らかに眠り給わんことを念じ碑を建立する。


貴様と俺と翼の碑



予科練
貴様と俺と翼の碑

大阪護国神社




(平成20年6月15日)

甲種飛行予科練習生 貴様と俺と翼の碑
昭和57年12月吉日建立
関西甲飛会


鎮魂之碑



海軍甲種飛行豫科練習生
鎮魂之碑
(大分県大分市・大分県護国神社




(平成20年11月18日)

碑文

由布鶴見の秀峰を望み、紺碧の別府湾を眼下に見はるかす、ここ松栄山のいただきに、大分県出身甲飛戦没者190余柱のみたまは、今静かに眠る。
甲飛、すなわち海軍甲種飛行予科練習生制度は、日中戦争のさなか、航空機幹部搭乗員養成の急務により誕生した。
昭和12年9月1日、全国の中等学校から厳選された250名が、第1期生として、横須賀海軍航空隊に入隊した。
以後太平洋戦争の激化に伴い、最終の16期生まで、計13万9720名もの少年たちが、救国の至情に燃え、各地の航空隊の門をくぐったのである。
そのほとんどは、学窓からペンを捨てた10代半ばの花もつぼみの若桜であった。
しかし、戦局の悪化により、犠牲者は続出した。
大空の果て海原の底に花と散った甲飛のみたまは、実に6778柱にものぼる。
度重なる空爆に非業の死を遂げた友、特攻隊員として敢然と死地に赴いた友も数知れない。
その中のひとりは次の歌を残して散華した。
   吾死なば 後につづきて とこしへに
               御国護れよ 四方の人々
この碑は全国に先駆けて、本県出身甲飛戦没者の慰霊のため建立したものである。
平和日本の礎となられたみたまの崇高な遺徳をしのぶとともに甲飛8年の真実の歴史を後世に伝承するよすがとしたい。
この神域の南にある16本の同期の桜と合わせて私たちはみたまの平安を心こめて祈念するものである。

平成4年9月27日
大分県生存甲飛生 遺族一同

建碑の由来

太平洋戦争が終結して早くも四十七星霜、殉国の至情に燃えて戦い、多くの若桜が散った甲飛の歴史は、今や平和と繁栄の陰で、風化の一途をたどっている。
大分県甲飛会では、県出身戦没者の遺徳をしのび、1年おきにここ護国神社の神前で、慰霊祭を取り行ってきた。
しかし、自らの手で亡き友の慰霊碑を建立すること、これが長年の悲願であった。
生存甲飛生のひとり、鈴木克美氏は、かねてから独力で遺影の収集に当り、さきほど大半の整備を終えた。
これを機に、一挙に碑建立の気運が高まった。
平成3年9月、県甲飛会総会で建立のすべてを役員会に一任、執行部は、直ちに用地取得へ向け始動した。
幾多の曲折の末、同年末の護国神社総代会の決議により、この絶佳の地の提供を受けたのである。
翌年2月建設委員会発足、企画募金等、本格的な活動を展開した。
平成4年6月7日起工式挙行、9月吉日全工事完了、そして今日の除幕式を迎えたのである。
終わりに、御遺族、生存甲飛生はもとより、神社当局をはじめ友好諸団体、支援者、施工者、並びに多額の御芳志を寄せられた方々に対し、深甚の謝意を表するものである。

平成4年9月27日
大分県甲飛出身戦没者鎮魂之碑建設委員会
会長 阿部正一

(副碑・碑文より)


鎮魂の櫻

長崎縣出身
海軍甲種飛行豫科練習生戦没者
鎮魂の櫻

平成17年12月8日
長崎縣甲飛会
(長崎県佐世保市・佐世保東山海軍墓地



(平成20年11月23日)

碑文

日本海軍甲種飛行豫科練習生制度は昭和12年に發足し同年9月入隊の第1期生より昭和20年入隊の第16期生までその総数は約14万名である
昭和12年 日中戦争勃発以来昭和20年太平洋戦争終結までの戦闘に於いて勝敗の帰趨を決したのは航空戦力であった
海軍はこの大戦に備え航空機搭乗員の増強を計ったが中でも即戦力として早期養成に努めたのが甲種飛行豫科練習生であった
祖国の風雲急を告げ愛国の血潮に燃えた若人達は祖国防衛の為 甲飛を志願し父母と別れ故郷を去り戦場へ向い善戦敢闘した
しかし物量に優る米軍と悪戦苦闘の末 大空に散華し遂には空へ海へ特攻という還れざる征途へ就いた
その戦没者数は6千8百名に達し長崎縣出身者も多数その鬼籍に記されている
本縣出身甲飛生存者は戦後長崎縣甲飛会を結成し戦没者の慰霊追悼を続けたが戦後60年を迎えこの地に鎮魂の櫻を植樹し赤誠を後世に傳え御霊の御冥福を祈念するものである


佐賀県出身甲飛戦没者慰霊の碑



佐賀県出身甲飛戦没者慰霊之碑
(佐賀県佐賀市・佐賀県護国神社





(平成20年11月24日)




熊本県甲飛会

海軍甲種飛行予科練習生
慰霊の櫻
平成十四年十一月一日
熊本県護国神社



(平成23年2月8日)





奉献 灯籠 
元海軍乙種飛行予科練習生雄飛会山梨県人会
山梨県護国神社




(平成25年9月10日)

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