(現:横浜市開港記念会館)
神奈川県横浜市中区本町1−6
平成15年12月14日
開港記念会館のあらまし
赤煉瓦の時計塔として親しまれているこの建物は、明治42年に横浜の開港50周年を記念して公募設計(コンペ方式)により建設され、大正6年6月に竣工しました。
大正12年の関東大震災では、外壁を残して屋根と内部を焼失、その後昭和2年に再建されましたが、銅製のドームは省略され、内装もやや簡略化されました。
戦時中の被災は免れたものの、終戦から昭和33年9月まで米軍の接収を受けました。
そして、市街地建築物の高層化が進むなか、老朽化のため保存か取り壊しかも岐路に立たされたこともありましたが、昭和53年に修理、さらに平成元年にはドームが復元されて建設当時の姿がよみがえりました。
時計塔は”ジャック”と呼ばれ、県庁本館の”キング”横浜税関の”クィーン”と並び、入港する船員からトランプの三塔として親しまれています。
館内には、宇野沢辰雄氏の製作によるといわれる開港当時を描いたステンドグラスや、和田英作画伯の色彩鳥瞰図などが展示されています。
平成元年9月には、時代をこえて保護保存されるため、国の重要文化財に指定されました。
平成11年11月から行われた補修工事では内装、外装の補修を行うとともに震災復旧当時の雰囲気を一部再現し、市民に親しまれる国の重要文化財として平成13年1月に再開館しました。
この地は、横浜の町政を司った横浜町会跡、岡倉天心生誕の地、また横浜商工会議所発祥の地で、それぞれの記念碑がたてられています。
(リーフレットより)
平成15年12月14日
(説明板より)
横浜市開港記念会館(国指定重要文化財)
指定年月日 平成元年9月2日
横浜市開港記念会館は開港50周年を記念して、大正3年(1914)9月に着工され、大正6年7月1日の開港記念日に「開港記念横浜会館」として開館しました。
建物は、大正12年の関東大震災によって一部が焼失したため、昭和2年と平成元年に復旧工事が行われ創建時の姿に復元されました。
建物の外壁は、腰石まで花崗岩積みで、1・2階は赤い化粧煉瓦と白い花崗岩を積み上げた辰野式フリークラシックスタイルで、古典主義を自由にアレンジしています。
東南隅には高塔(時計塔)、西南隅に八角ドーム、東北隅に角ドーム、さらに高塔を挟む位置にも角ドームを作り、屋根は寄棟造り・天然スレート葺で、越屋根は銅板葺としています。
また、建物内部の広間、中庭に面する窓にはステンドグラスが用いられるなど、大正期の建物として華やかで優れた意匠が施されています。
横浜市教育委員会文化財課
社団法人横浜国際観光協会
平成6年3月
(説明板より)
「史跡 横濱町會所跡」の碑 (平成15年12月14日) |
町会所 (説明板より)
町会所跡
この地に、明治7年(1874)4月に竣工した石造2階建て屋上に高塔のある建物は、横浜市政施行の明治22年まで横浜の町政を執った町会所でした。
「時計台」の愛称で親しまれ、横浜の名所となっていました。
明治23年横浜貿易商組合会館と改称し、その後横浜会館と改めましたが、明治39年12月類焼により焼失いたしました。
跡地に開港50年を記念して現在の建物が大正6年竣工いたしました。
また、この地は開港期より明治初年まで、岡倉天心の父勘右衛門が支配人をしていた石川屋(越前藩(福井県)の生糸売込店)があったところです。
(説明板より)
「岡倉天心生誕之地」の碑 (平成15年12月14日) |
訪問記
ここは、開港を記念した会館。内部には講堂や会議室などがありますが、資料館ではありません。
歴史的な建物ではありますが、あくまでも”会館”なのです。
内部はどうなっているのか気になって中に入ったところ、「観光客が見学に来るところではない」と言わんばかりに警備員らしき職員に迷惑顔で「部屋の内部には入らないように!」と言われてしまいました。
当日は、講演会などのイベントは開催されていなかったようなので、別に迷惑はかけてないと思うのですが。
イベントの準備で出入りしていたらしいグループの人たちに、警備員らしき職員が「あんたらが目印になるものを付けていないから、観光客が勝手に入って来るんだ!」と文句を言っていました。
これは、我々に対する明らかな嫌味ね・・・
それにしても、もう少し言い様があると思うのですが・・・・
リーフレットには「市民に親しまれる国の重要文化財として・・・」と書かれていますが、全然親しめませんでした。
建物の内部を覗こうとする人は、それなりの覚悟を持ってください。
(平成15年12月14日訪問)
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