横井小楠

横井小楠像 平成12年5月6日

横井小楠 よこい・しょうなん

文化6年8月13日(1809年9月22日)〜明治2年1月5日(1869年2月15日)

熊本市 小楠公園でお会いしました。


横井小楠は文化6年(1809年)に肥後藩士の次男として熊本城下に生まれました。
天保8年(1837年)、29歳で時習館(藩校)の居寮長(=塾長)に抜擢されます。
2年後の天保10年に江戸遊学を命じられ、水戸藩士の藤田東湖と面会して意見を闘わせたりしましたが、酒の席での失敗により熊本へ呼び戻されてしまいました。
熊本では、研究会を主宰し、文章や字句の解釈だけの肥後の儒学に対し、現実に根ざした学問のあり方を示しました。これが実学党と呼ばれるものの起こりです。
嘉永5年(1852年)44歳の時、越前藩の求めに応じ「学校問答書」という建白書を書きました。この教育論には吉田松陰も感心し、長州藩にも推薦しようとしたといいます。
吉田松陰は嘉永6年に小楠に会いに熊本に来ています。
安政2年(1855年)沼山津に転居し、住まいを「四時軒」[しじけん]と称し塾を開き、主張するところは攘夷論から開国論へ移っていきました。
文久2年(1862年)54歳の時、幕府の政事総裁の松平慶永(春嶽)の指示で江戸に出仕し春嶽の相談役を勤め、公武合体運動を推進し、雄藩連合を構想しました。
この年の12月、肥後江戸留守居役らと酒宴中に刺客に襲われ、同僚を見捨てて逃げたというので翌年に肥後藩から藩士としての資格を剥奪され、一平民となりました。
儒学に立脚しつつ、幕末の内政、外交政策を捉え直し、革新的な思想を唱えて、当時の有識者に大きな思想的影響を与えました。
元治元年(1864年)には勝海舟の命により坂本龍馬が訪ねてきています。
明治元年(1868年)、60歳の時に明治新政府は小楠を参与という位で京都に呼び出しました。
しかし、翌明治2年、朝廷より帰宅中に保守派の刺客に襲われ命を落としてしまいました。61歳でした。
小南は京都南禅寺天授庵に埋葬されました。


横井小楠記念館

横井小楠記念館
熊本市沼山津にあります。
小楠の旧居「四時軒」の敷地内にあります。
「四時軒」は市指定有形文化財です。
休館日:月曜日・祝祭日の翌日・年末年始
入館料:高校生以上200円 小中学生100円
(平成12年現在)

横井小楠記念館内部

記念館の中でもお会いしました。

小楠公園内の横井小楠の墓


小楠公園
には「横井小楠の墓」があります。
このお墓に遺髪が納められている髪塚です。
この公園は記念館から徒歩で約20分ぐらいのところにあります。



(平成12年5月6日)


 平成23年2月7日

熊本県熊本市・高橋公園でお会いしました。






横井小楠と維新群像
(熊本県熊本市・熊本城前・高橋公園)




(平成23年2月7日)

横井小楠をめぐる維新群像

横井小楠 諱いみなは時存ときあり 通称平四郎、幕末維新期の大思想家。
横井家は細川藩士家禄150石の家で、小楠は文化6年(1809)熊本城下の内坪井で生れた。
藩校時習館に学び居寮長に推されて数年、江戸遊学を命ぜられて天下の俊秀と交わり活眼を開く。
帰国後実学を主唱し、中級武士と惣庄屋層の支持を得る。
越前侯松平春嶽しゅんがくに聘せられて福井藩にその経綸を実現し、後春嶽の幕府総裁職就任に当ってはその顧問として幕政改革に貢献、その間に勝海舟と相識り、坂本龍馬にも影響を与えた。
文久3年帰国を命ぜられ士席を除かれて隠栖すること5年、明治元年経世の才を買われて新政府の参与に出仕、抱負の実現を図ったが、翌2年正月京の町で志半ばで凶刃に倒れた。
明治3年熊本藩は実学派の改革を実現し、藩知事細川護久もりひさ 大参事同護美もりよしの下に、藩士山田・嘉悦・内藤等及び惣庄屋層の徳富、竹崎・長野等による肥後の維新の到来を見た。

この群像は横井小楠の生誕190年、没後130年(1999年)を記念して翌2000年3月建立された

(碑文より)

横井小楠と維新群像

大義を四海に布かんのみ
横井小楠は文化6年(1809)、熊本城下・内坪井(今の熊本中央女子高内)に藩士横井時直の二男として生まれました。
小楠は米初代大統領ワシントンへの敬愛の念ひとかたならぬものがありましたが、この同じ年に16代リンカーンも生まれています。
幼少時代の小楠はかなりの腕白で生傷が絶えなかったといわれます。
しかし一方で学問に励み、藩のエリートが学ぶ時習館に入学しました。
ここでも頭角を現し、やがて居寮長となって後輩を指導する地位に就きます。
ところが、小楠は学べば学ぶほど飽きたらないものを覚えるようになりました。
それは時習館の教えは学問のための学問に終わっているのではないかという疑問です。
小楠が考える学問の本領とは「学政一致」、すなわち現実の政治や経済に生かしてこそであり、要は理屈より実践をという主張です。
このため小楠やその同志たちは「実学党」と呼ばれます。
これに対して時習館出身者で占める藩の主流派「学校党」は「横井平四郎さんな実学めさる。学に虚実があるものか」と皮肉ります。
しかし、小楠の唱える「実学」は単に実際の利益や実用だけを追いかけるものではありませんでした。
国を富まし、民に力をつけ、立派な国づくりを実現するための方策でした。
そのことは甥の左平太・太平を渡米させた際の送別の漢詩「何ぞ富国に止まらん 何ぞ強兵に止まらん 大義を四海に布かんのみ」にもよく表されています。

受け継がれた肥後の維新
小楠の名声は遠く越前福井藩主・松平春嶽公の耳に届き、賓師として迎えられます。
小楠指導による福井の藩政改革は大成功を収めました。
さらには幕府政事総裁職となった春嶽公を助けて幕政改革にも手腕を発揮します。
徳川体制を大きく支えた参勤交代制が緩められたのも小楠の勧めによるものでした。
ところで小楠はお酒が好きでした。
「横井の舌剣」といわれた鋭い弁舌は酒が入ると一層冴えるあまり「酒失事件」を引き起こし、また刺客に襲われた際に丸腰で逃げたことが「士道忘却」と非難され、表舞台から遠ざけられてしまいます。
その背景に小楠を嫌う学校党との根深い対立があったことは見逃せません。
小楠は熊本郊外沼山津の四時軒で閑居することになります。
しかし、時代はいよいよ風雲急を告げ、小楠のすぐれた政治識見がますます求められました。
四時軒には来訪者が絶えず、勝海舟の使いも含めて坂本龍馬は三度も訪れています。
小楠が提言した幕政改革プラン「国是七条」の第一には「大将軍上洛して列世の無礼を謝せよ」(将軍みずから京都に行き、代々の無礼を天皇にあやまりなさい)が挙げられていましたが、時代の歯車は急転回、大政奉還から王政復古の大号令へと動きました。
維新政府は新生日本の舵取り役に小楠を勅命をもって招きます。
ようやく小楠に正当な評価が与えられ、出番が回ってきたのです。
しかし、悲運は最後までついて回りました。
元号が明治と改まったばかりの翌2年正月、刺客に襲われ非業の死を遂げました。
小楠の遺志を受け継いだのが細川護久公でした。
外国人教師による古城医学校、熊本洋学校を開校するなど、熊本の近代化を大いに進めました。

(小冊子『くまもと維新の群像』より)






「横井小楠先生生誕の地」標柱

(熊本県熊本市・熊本中央高等学校)

標柱は敷地内にあるので、よく見えませんでした。



(平成23年2月7日)




横井小楠生誕の地
(熊本県熊本市中央区内坪井町4−8・熊本中央高等学校)





(平成23年2月7日)





小楠堂跡(横井小楠相撲町旧居跡)
(熊本県熊本市中央区下通1−10)





(平成23年2月7日)




小楠堂跡(横井小楠相撲町旧居跡)
(熊本県熊本市中央区下通1−10)





(平成23年2月7日)

小楠堂跡(横井小楠相撲町旧居跡)

弘化3年(1846)から安政2年(1855)までの横井家の住居跡。
兄時明が組頭に任命されたのを機に水道町から移転し小楠も居宅兼教室を建造したが、弘化4年には家塾を新築して小楠堂と名づけ、20余名の門下生を寄宿させた。
しかし、兄が亡くなって小楠が家督を継ぐに及んで在宅を願い沼山津に転居した。

(説明標柱より)




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