横山大観銅像 平成16年1月12日

横山大観 よこやま・たいかん

明治元年9月18日(1868年11月2日)〜昭和33年(1958年)2月26日

茨城県水戸市 城東小学校脇でお会いしました。


旧姓酒井、名は秀麿。のちに母方の姓を継ぎました。
東京美術学校卒。
岡倉天心、橋本雅邦がほうらに学ぶ。
京都市立美術工芸学校教諭をへて、東京美術学校助教授となりました。
明治31年(1898年)校長である岡倉天心を排斥する東京美術学校騒動で辞職し日本美術院の創立に参加しました。
菱田春草とともに朦朧もうろう体の画法を試みて日本画の改革を行ないました。
1903年にインド、1904〜5年にヨーロッパ各地を巡遊しました。
翌年、茨城県五浦いづらで研鑚を積み、大正3年(1914年)日本美術院を再興。
画壇に大きな影響力を持ち続け、昭和12年(1937年)第1回文化勲章を受賞しました。


生誕之地


横山大観生誕地
(茨城県水戸市・城東小学校)


銅像(石像?)と「生誕地」の碑が建っています。



(平成16年1月12日)

横山大観先生生誕の地

明治、大正、昭和の三代にわたって、不滅の光芒こうぼうを放った日本画壇の巨星横山大観先生は、わが国近代化の曙を告げた明治元年(1868)の9月18日、ここ三ノ町(城東2丁目8番)に呱々ここの声をあげました。
生家の酒井家は藩祖頼房公以来、代々水戸藩に仕え、学問を重んじる家風でした。
祖父の酒井義煕よしひろ武田耕雲斎らと水戸の十七騎とよばれ、蘭学を学び、すぐれた地図学者、紀行文作者で、父の捨彦もまた明治中期に数々の貴重な日本地図を残しています。
この父祖の血と遺風をうけた先生は幼名を秀蔵、秀松といい、のちに秀麿、成人して親戚の横山家を継いだ。
大観の雅号は東京美術学校(東京芸大)助教授に就任した28歳の時からです。
芸術は人間だ、人間を磨けと、後進を導いた大観先生は、常に水戸人の気概をもって、在野精神を貫き、近代日本画の先駆的役割を果たされました。
昭和12年、初の文化勲章、昭和29年には名誉県民第1号に推されました。
昭和33年2月26日死去。
この生誕地碑は生誕110年、没後20年を記念して市民有志により昭和53年に建立されたものです。

水戸市教育委員会

(説明板より)

晩年の横山大観 (説明板より)


【横山大観】

横山大観は明治元年(1868)9月18日、水戸藩士酒井捨彦の長男として三ノ町(現・城東2丁目8番)に生まれた。
現在、水戸市立城東小学校西側裏門に隣り合う一角(城東2丁目7番地、旧町名川崎町)に「横山大観生誕の地」記念碑が建っているので、碑の建つあたりが生地と思われがちであるが、正確には、この記念碑の西側、城東郵便局そばの信号のある十字路を局から見て右に折れた向かい側の角地(現・城東2丁目8番)が生地として特定されている。

幕末より始まった旧水戸藩の天狗と諸生の内紛は明治時代になっても収まらず、釈放された天狗党が勢力を盛り返して各地で天誅と称して諸生派の人々に対して殺戮を繰り返しており、人々から恐れられていた。
父・捨彦(1847〜1907)は諸生派にくみしていたため、三ノ町を荒らし回っていた天狗党が屋敷に押しかけてきた。
家族の者たちが「天狗が来た!」とばかり裏庭の竹やぶ中に逃げ込み難を避けていた時に、母・寿恵(1853年生まれ)は産気づき、そこで大観を出産したのだという。

父・捨彦は祖父と同様、地図作成に優れ、明治時代中期の数々の貴重な日本地図を残している。
明治5年、茨城県職員租税課附属三等雇となり、明治6年に新治県職員となる。
その後、明治8年、地図技能を生かして、茨城県庁の区画改正係を務めた。
明治10年、茨城県吏員を退職し、明治11年5月21日、酒井家は一家を挙げて上京し、内務省勧農局に職を得る。

秀松少年(大観)は、水戸上市五軒小学校から湯島小学校へ転校。
14歳で同校を卒業し、府中中学校に進んだ。
明治18年、市立東京英語学校へ入学。
五姓田義松門の渡辺文三郎に鉛筆画を学ぶ。
明治21年1月、母方の姻族、横山家を継ぎ、名を秀磨と改める。
士族の長男がなぜ養子に出されたかについては「酒井家に弟が生まれたら、横山家を継がせる」という約束が大観の生後間もなく、両家において取り決められていたという。
しかし、後継に悩む横山家が弟の成長を待ち切れず、長男の秀松をあえて養子としたのではないかという。
明治22年、東京美術学校1回生として入学。
明治27年、伊勢神宮奉賛団体「神苑会」の嘱託となり、古画の模写に従事。
翌年、京都市美術工芸学校の教諭となる。
「大観」という雅号は、この京都の生活の中で決めたといわれる。
大観はもともと禅宗の経典にある言葉で、禅宗の僧侶と飲み交わしていた時に浮かんだという。
師匠の岡倉天心に、この雅号を告げると「いい雅号ができましたね」と大変褒められたという。
明治29年5月、東京美術学校の助教授となり図案科を担当。
この年、美術学校騒動により、校長・岡倉天心と共に辞職。
日本美術院の創立に参画して正員となる。
この時、大観28歳。
明治36年、菱田春草とインドへ、翌37年には岡倉天心に同行してアメリカへ行く。
明治39年11月、五浦海岸に日本美術院の研究所を移転し、下村観山、菱田春草、木村武山の4人と共に家族ぐるみで移住する。
しかし、明治41年、失火のため五浦を去り、上野の不忍池畔の池之端茅町に居を構える。
大観40歳の時のことである。
大正3年、美術院を再興。
昭和6年、63歳の時、帝室技芸員となる。
昭和10年、帝国美術院の会員となり、12年、帝国芸術院と改組されると、引き続き会員となる。
この年に文化勲章が制定され、69歳にして日本画の部門から第1回文化勲章の栄誉を受ける。
昭和25年、老齢を理由に帝国芸術院会員を辞任。
昭和29年、茨城県名誉県民に板谷波山と共に推薦される。
晩年の大観は画題に多くの富士山を描いたが、昭和32年の『不二』が絶筆となる。

昭和33年2月26日12時51分、急性気管支炎のため、東京都台東区茅町の自宅で死去。
90歳。
正三位勲一等に叙せられる。
2月28日午後0時40分から東京築地の本願寺で日本美術院葬がしめやかに施行された。

(参考:坂田暁風著 『城東歴史散歩』 茨城新聞社出版局制作 平成13年発行)

(平成23年7月28日追記)


【横山大観】 

横山大観は、明治元年(1868年)に水戸藩士・酒井捨彦、須恵の長男として水戸市下市しもいち三ノ町(城東2丁目8番)に生まれた。
明治21年に遠縁の横山家を継いだ。
画号の大観を名乗るようになったのは明治28年からであある。

維新後の社会混乱の中、一家は県内を転々としたが、父が茨城県庁勤務となったことから水戸に戻り、大観は上市うわいち小学校(五軒小学校)に通ったが、明治11年、東京で地図製作専門の塾を経営する親戚の家に一家そろって身を寄せることになった。
大観は湯島小学校から東京府中学校(都立日比谷高校)へ進学。
さらに東京大学進学を目指して大学予備門を受験したが、受験内規に抵触して失格してしまった。
この時、東京美術学校(東京芸術大学)が開校されることを知り、父親の反対を押し切り、同校進学を目指した。

第1回入学生には下村観山をはじめ日本画の修行を積んだ者が多くいたが、未経験に等しい大観は、従来の私塾のように一流一派にとらわれることなく、狩野派や土佐派という各派の画技を、学校という美術教育機関において習得することができた。
さらに、東京美術学校の開校に準備段階から深く関与し、開校翌年に29歳という若さで校長となった岡倉天心とここで出会った。
岡倉天心は大観の生涯の師となる。

明治26年に東京美術学校を第一期生として卒業した大観は、その後、京都や奈良の古社寺に赴き、集中的に古美術品の模写に従事。
同29年に母校の助教授として迎えられ、教壇に立つことになる。
また一方で、日本絵画協会絵画共進会に毎回、「無我」「聴法ちょうほう」などの話題作を発表し、新進画家として注目を集めた。
しかし、明治31年の東京美術学校騒動に際し、非職を命じられた校長・天心に殉じて、橋本雅邦がほう、下村観山、菱田春草ひしだしゅんそうらと共に辞職し、同年、天心を中心とする日本美術院の創設に加わった。

日本美術院の主要活動は展覧会の開催であり、創立展に大観が出品した意欲作「屈原くつげん」は、当時の岡倉天心の苦境を想起させるものであり、様々な反響を呼んだ。
大観は天心の教えでもある、明治という時代に相応しい新日本画創造に励んだ。
なかでも、日本画の特質である輪郭線を全く用いず、色の濃淡によって表現する無線描法による作品は、西洋画にある光や空気を日本画で表現できないかという岡倉天心の示唆によるものである。
余白を残さず色を塗り重ねるため、画面は混濁した色に覆われ、暗くボンヤリしたことから、「朦朧体もうろうたい」という蔑称べっしょうで呼ばれ、支援の美術愛好家からも非難排斥された。
明治36年、苦境に陥った大観と春草は、天心の勧めでインドに渡る。
さらに明治37年には天心に同行して渡米し、各地で展覧会を開催して成功を収め、帰途にヨーロッパ各地を巡遊して世界の美術を目の当たりにして翌年の8月に帰国した。

日本美術院の経営難は続き、明治39年に規則を改め、絵画部を茨城県北端の大津村五浦(北茨城市)に移す。
大観、観山、春草、木村武山の4人は、天心の命に従い家族を伴って同地に移住した。
大観らは太平洋を臨む断崖に建つ美術院研究所で研鑽に励み、明治42年の第3回文展に大観が出品した「流燈りゅうとう」は、清らかな美しさを湛たたえた作品で、朦朧派の汚名を一挙に払拭ふっしょくするものであった。

しかし大正2年(1913年)の天心の死を大きな転機とし、大観は観山らと共に、翌3年に日本美術院を谷中に再興した。
以後、大観は再興美術院の中心として、第40回再興院展まで欠かさず出品を続けた。
この間、大正12年から隔年ごとに水戸市で開催された日本画の公募展にも毎回、水戸を訪れて審査に当たった。
昭和6年(1931年)に帝室技芸員となり、同12年には第1回文化勲章を受章した。
常に日本画の改革を目指し、昭和期には美術界のみならず社会的にも大きな影響を持ったが、昭和33年2月26日、台東区池之端の自宅において没した。

代表作には五浦時代の「流燈」をはじめ、伝統的画題を新解釈した「瀟湘八景しょうしょうはっけい」(第6回文展)、40メートルにも及ぶ長巻に水のドラマを描いた「生々流転せいせいるてん」(第10回再興院展)などがある。
昭和期には富士を多く描いたことで知られる。

(参考:水戸市教育委員会発行 『水戸の先人たち』 平成22年3月発行)

(平成29年7月9日 追記)


横山大観旧別荘


横山大観旧別荘
茨城県北茨城市大津町
(現:五浦観光ホテル別館大観荘・特別室)





(平成15年8月2日)

横山大観旧別荘

当館に隣接する大観記念館は特別室としてご利用いただいております。
室内には大観画伯が愛用した当時の道具類も展示し、ご希望に応じて公開をいたしております。

(五浦観光ホテル別館大観荘のリーフレットより)

特別室の玄関

旧別荘の玄関を入ると正面に小さな銅像と各種資料や記念品などが展示されていました。

旧別荘 当時の写真(展示写真より)

特別室


特別室内部


向こうの部屋(布団がチラリと見えている部屋)がアトリエ跡です。
このお部屋に泊めていただきました。



(平成15年8月2日)

横山大観記念館



横山大観記念館
(東京都台東区池之端)





(平成15年5月25日)

大観の色紙「満月」



伊賀上野城の天守閣絵天井にある大観の色紙『満月』


三重県上野市・伊賀上野城



(平成16年2月8日)

横山大観頌碑



横山大観頌碑
(茨城県水戸市千波町・県民文化センター前)





(平成18年8月3日)
肖像レリーフ



肖像レリーフ







(平成18年8月3日)

碑文(表)

日本画の究極は気韻生動に帰着す―茨城が生んだ日本画の巨匠横山大観先生は 絶えず新しい画風を追及し在野精神を貫き 近代日本美術史上に不滅の光を放った
先生は明治元年水戸に生れ東京美術学校の第1回生 母校に勤めたが師天心に殉じて下野し日本美術院の創設に参加 明治39年同院五浦移転に伴い 観山 春草 武山らと移住し 天心の理想とした東洋美術の近代化と 新日本画の創造に尽した
師亡きあと崩壊寸前の日本美術院を再興させ 常に日本画壇の第一線に立ち「生々流転」をはじめ幾多の名作を遺した
昭和12年第1回文化勲章受章 29年名誉県民推挙 33年90歳の生涯を閉じた
水戸人の気概をもって豪胆に生きた巨匠の人と作品は私たちに深い感銘を与える

頌碑揮毫 茨城県知事 竹内 藤男
頌詞撰文 茨城県美術博物館協議会委員長 川角豊太郎

碑文(裏)

本頌碑は 近代日本美術界の巨星であった横山大観先生の生誕110年 没後20年を記念して 新いばらきタイムス社が創刊25周年記念企画事業として提唱 これに賛同して発起人 建立委員 美術家 美術愛好者をはじめ各界の人々の協力と篤志により大観先生ゆかりの本地に建立 あわせて生誕地碑も水戸市立城東小学校(旧三ノ町)に建立した
明治 大正 昭和の三代にわたって画壇に偉大な足跡をのこした大観先生の業績を顕彰するこの2つの碑が 郷土の先人の偉業を讃え 郷土の芸術 文化遺産を継承発展させるモニュメントとして 時代をこえて 人々の心に生き続けることを願うものである

1978年6月吉日
横山大観頌碑建立委員会委員長 川角豊太郎
新いばらきタイムス社社長 鈴木正樹
(※発起人・建立委員は略)

肖像レリーフ製作 日展評議委員 小森邦夫
頌碑建立協力施工 岩瀬町友部1751(有)川俣石材工業 代表 川俣正雄


横山大観の墓



横山大観の墓
(東京都台東区谷中・谷中霊園)





(平成19年12月28日)

大観先生横山君墓誌

明治大正昭和の三代に亘り作品を以て業績を以て甚大の貢献し美術界に遂けて現代を後世に重からしめたるもの大観横山君■なす
君本名は秀麿明治元年水戸に生る
東京美術学校第一回卒業生として世に出て一たび母校の助教授に擧けられしも学校長岡倉天心の野に下って日本美術院を設立するに當り参加して之を扶け天心歿後は更に其の癈頽を再興し主力を傾けて経営に任じ運營に當る前後六十有餘年
内には傳統精神を基礎に新日本画の大成に功を収め外には國粋美術の海外宣作に是れ努む
若し夫れ國家有事の秋に際し至誠を捧げて致せる壮擧に至っては二三にして足らず百世を曠うするものあり仰いて範とすべし
一代の画蹟は蓋し新境開發の連續にして創制力の旺盛驚嘆すべきものあり随って其の手法表現も初中後時に應じて異なること著しと雖も一貫する所は日本精神の發揚にして恒に烈々たる気魄の漲る■観るに好んで祖國の象徴として冨士山を圖す
日本藝術院會員に推され帝室技藝員も拝し文化勲章を受く
昭和33年2月26日歿す
世壽91
正三位勲一等に叙し旭日大綬章を贈らる
最後の病床に臥し命の迫れるを知るや日本美術院の機構を改めて財團法人となし以て後進に資す
安田靫彦 斎藤隆三 前田青邨 大智勝観 平櫛田中 理事をして後を承く

財團法人日本美術院理事 文学博士 斎藤隆三 撰




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