平成21年11月5日

米内光政 よない・みつまさ

明治13年(1880年)3月2日〜昭和23年(1948年)4月20日

岩手県盛岡市・盛岡八幡宮でお会いしました。


海軍大学校卒。
第一次大戦中は、ロシアに駐在し、シベリア出兵時にはウラジオストック派遣軍司令部付。
昭和11年(1936年)連合艦隊司令長官兼第一艦隊司令長官。
その2ヶ月後に林内閣の海相となる。
続く第一次近衛内閣、平沼両内閣でも留任し、山本五十六次官、井上成美軍務局長と共に日独防共協定強化交渉に反対し、海上封鎖と爆撃による日中戦争の解決を主張した。
昭和15年(1940年)湯浅倉平内大臣の推薦で内閣総理大臣となったが、ナチス・ドイツの戦勝と新体制運動により短命に終わる。
日米開戦には重臣の一人として反対。
昭和19年(1944年)7月、小磯内閣の時に現役に復帰して海相に就任。
鈴木貫太郎内閣でも留任し、戦争終結に尽力した。


米内光政像



米内光政像

(岩手県盛岡市・盛岡八幡宮)

昭和35年10月建之
米内光政氏銅像建設会


(平成21年11月5日)

碑文

米内光政氏は盛岡の人
若くして海軍に入り進んで大将・大臣に至り又内閣総理大臣となる
昭和20年8月太平洋戦争の終結に際し、米内海軍大臣が一貫不動 平和の 聖断を奉じて克く我が国土と生民をその壊滅寸前に護ったことは、永く日本国民の忘れてはならぬところである
逝去13年至誠沈勇のこの人今も世にあらばの感を新たにしつつこの文を撰ふ

昭和35年10月
後進 小泉信三

盛岡八幡宮



盛岡八幡宮
(岩手県盛岡市八幡町13−1)





(平成21年11月4日)

御由緒

康平5年(1062)前九年の役に際し、陸奥鎮守府将軍源頼義・義家父子が、奥州安倍一族(貞任・宗任)平定のため、山城国男山八幡大神を不来方の丘陵の地(現盛岡城跡公園)に御勧進、必勝武運を祈願したのが創祀と伝えられ、後世鳩森八幡社と奉称した。
その後、源頼朝公の義経追討に関わる奥州平定に際し、南部の荘(山梨県)より参陣した初代南部光行公は大いに軍功をたて、糠部五郡を拝領し三戸に居城、八幡大明神を祀った。(現八戸市鎮座の櫛引八幡宮)
南部氏は清和源氏の末裔で、先祖代々八幡大神を氏神と仰ぎ崇敬の念篤く、南部26代信直公が起こした不来方城築城に際し、既に鎮座していた鳩森八幡社をそのまま城内に祀り、領内鎮護の神と斎祀ったのである。
しかし、そのために一般庶民の参詣はできなかった。
寛文11年(1671)2月、第29代重信公は、志家の地(現在地)に、新八幡宮造営の工を起し、延宝8年(1680)完成、翌9年8月14日より3日間盛大なる新八幡宮鎮祭の重儀が行なわれた。
爾来、新八幡宮は上は藩主、下は一般庶民の限りない崇敬を集めて、地方の大社の威厳を風靡してきたのである。
明治維新になり、盛岡城はその主を失い陸軍省の所管となり、御本社の鳩森八幡社は遂に祭祀執行の途が無くなり、明治5年(1872)10月、御霊代を新八幡宮に鎮座されるに至った。
明治9年(1876)7月、明治天皇の東北御巡幸に際し、産馬御奨励の思召しにより神域の流鏑馬馬場において南部駒天覧の栄に輝き、社務所奥座敷で御小憩になり、新緑につつまれた神域を御観賞された。
現在は、平成の大御代を記念して、平成9年(1997)12月丹塗り極彩色彫刻が施された新大社殿が竣工されて境内が一新し、新たな盛岡の顔として四季の景観に映える堂々たる風格を漂わせ、県下第一の大社として崇敬を集めている。

(リーフレットより)


【2・26事件】

横須賀鎮守府の動きは素早かった。
前年の昭和10年12月、新司令長官の米内光政、新参謀長の井上成美しげよしのコンビは、あらかじめこのような事態を想定して、特別陸戦隊(1個大隊)を編成して訓練を行うなどの対応策を練っていた。
登庁した米内は、事件を起こした陸軍の部隊を即座に「反乱軍」と言い放ち、阿金一夫副官に長官訓示の原稿を手渡した。
ただちにその原稿は印刷されて、将校らに示された。
司令長官の毅然とした態度で鎮守府の足並みはそろった。

(参考:松田十刻 著 『斎藤實伝 「ニ・二六事件」で暗殺された提督の真実』 元就出版社 2008年第1刷)

(平成29年2月8日 追記)


【米内内閣】

阿部内閣(昭和14年8月成立)が、すぐに陸軍の支持を失って倒れてしまったとき、天皇は湯浅内府と相談されて、今度は米内はどうかと言われた。
湯浅は、近衛文麿公や木戸幸一ともよく相談しないで、米内海軍大将に大命を降した。
そこで、近衛公も木戸もおもしろく思わなかった。
この二人の重臣に私心があったことは察せられる。

米内は、さきに末次大将を近衛が参議に推薦した時、予備役にしてしまったので、自分も文官である総理になったので、淡白な性格か、現役を退いてしまった。
これも米内の失敗である。
ところが、陸軍側は米内内閣に大いに反感を抱き、近衛も木戸も、陰から米内内閣の倒壊を謀った。

米内内閣の陸軍大臣は、今度は陸軍三長官会議で決めないで、天皇みずから侍従武官の畑俊六を呼ばれ、「汝は武将として海軍の米内内閣に協力するか」と質された。
畑ははっきりと、「協力します」と答えた。
それにもかかわらず、畑陸相は閑院宮参謀総長の綸旨りんじを受け、弱虫なのか、あっさりと辞めてしまった。
畑は天皇の御信任を裏切ったのみならず、天皇との約束を踏みにじったのである。
また、統帥部の閑院宮が、陸軍省の人事に口を出すのもけしからんことである。

畑が辞めた時、天皇は湯浅内府の後任・木戸幸一に、「朕は米内内閣に対する信任をやめてはいないと米内に伝えておけ」と言われた。
それなのに、木戸内府は、陛下のおことづけを米内に伝えず、1日握りつぶした。
このため、あっさりしている米内は、陛下が依然として自分を御信任されていることを知らず、総辞職してしまった。
この木戸の陰険なやり方は、大不忠といわなければならない。(朝日新聞社『太平洋戦争への道』)

(参考:岡田益吉 著 『危ない昭和史(下巻)〜事件臨場記者の遺言〜』 光人社 昭和56年4月 第1刷)

令和元年5月8日 追記)


【小沢治三郎を抜擢】 

沖縄戦が終盤にさしかかった昭和20年5月、米内海相は、軍令・作戦両部の最高首脳の更迭を行なった。
このとき米内は、並みいる先任者を飛び越えて、小沢治三郎を海軍総隊兼連合艦隊司令長官に抜擢した。
これまで先任後任にとらわれず、適材適所で人選した海軍大臣の例はない。
同時に米内は、小沢が全軍を指揮しやすいように、先任の各艦隊司令長官を実施部隊からはずして軍事参議官に転出させたり、大本営直轄の独立した方面艦隊にするなど大幅な異動を断行した。
米内ならではの思い切った機構改革である。
連合艦隊の最高指揮官は大将でなくてはならない。
米内は小沢を大将に昇格させようとしたが、小沢はこれをきっぱりと断っている。
最後まで昇進せず、中将のままの連合艦隊司令長官は、あとにも先にも小沢がただ一人である。

この頃の戦局は、挽回不能の情勢にあった。
ここで求められる連合艦隊司令長官の資質は、艦隊の老練な実務者で作戦指導に優れ、部下からの信頼も厚く勇断に富んだ人物でなければならない。
しかも終戦になったさい、海軍の混乱を抑えることのできる人物でなければならない。
米内は小沢しかいないと見込んでいた。
そして見込み通りとなった。

(参考:佐藤和正 著 『連合艦隊戦訓48』 光人社NF文庫 1996年5月発行)

(平成29年7月28日 追記)


【陸相が翻意を求める】

米内海軍大将が小磯国昭、鈴木貫太郎両内閣に入閣したのは、早期終戦論者だったからである。
米内が初めて終戦工作に乗り出したのは、鈴木内閣成立後まもなく、最高戦争指導会議に幹事等を入れないで、構成員六巨頭(鈴木貫太郎、東郷茂徳、米内光政、阿南惟幾、梅津美治郎、及川古志郎)のみで、昭和20年5月11日から3日間、極秘の会合をしたときで、その席上、東郷外相の反対を押しのけて、ソ連利用案を力説した。
(1)ソ連の参戦防止、(2)ソ連の好意的態度の誘致、(3)ソ連を仲介とする終戦工作の3項目を提議した。
これなら、陸軍も北方の不安が除かれるので、反対できないと考えたからである。
しかし、阿南陸相は、この第3項には、やはり反対したので、米内は第3項を保留してしまった。
陸軍を必要以上に刺激するのを避けようとしたのである。

ついで、5月30日、恒例の重臣会議があった席上で、米内は「根本問題について議論してはどうか」と発言し、暗に終戦問題を持ち出した。

第87議会は、6月7日から13日まで開かれたが、米内はこれに極力反対した。
米内の考えは、きわめて根深いと同時に、政治的技巧なく、直線的で、いまさら議会でもないというにあった。

同時に、鈴木首相の腹がわからないので、辞意すると言い出した。
「内閣には迷惑はかけない」と言っていたが、米内海相が辞めては、鈴木内閣は崩壊する危険性があり、終戦工作もなにも一切がフイになる。
この時、不思議なことに、阿南陸相が左近司国務大臣を通じて、米内の翻意を求めている。
和平論者の米内が中途で辞めるというのに、抗戦論者の阿南が留め役に回っている。
これは阿南の心境を如実に語るもので、政府も軍も形を崩しては、終戦も講和もできない、という阿南の冷静な判断によるものと信じなくてはならない。

米内が最後まで、あけっぴろげに無条件降伏を主張したのは、陸軍と違って、海軍にはすでに戦力なく、ロンドン会議以来、強硬派といわれた艦隊派も、軍艦というものがまるでないのだから、これらに対する顧慮はいらなかったのである。
しかし、軍人として米内が終戦を堂々と主張したのは、まったく超人的な勇気があったからで、内実は生命を捨ててかかったというほかはない。

(参考:岡田益吉 著 『危ない昭和史(下巻)〜事件臨場記者の遺言〜』 光人社 昭和56年4月 第1刷)

令和元年5月8日 追記)


【臨終】

昭和23年4月20日、米内光政は目黒区富士見台の自宅で68歳1ヵ月の生涯を終えた。
軽い脳溢血に肺炎を併発したのが直接の死因だったが、慢性の腎炎があり、帯状疱疹、神経痛、中耳炎などがあって、どこもかしこも悪かった。
臨終に立ち会った緒方竹虎は、つぎのように述べている。
「偶然に米内邸に居あわせて、巨木の倒るるを目の当たりにした。それこそ肝脳を国にささげ尽くしたという印象を深うさせるものであった。苦悩の跡はなく、いわゆる大往生であるが、あの初めて海軍大臣に就任した頃の、豊頬の見る影もなきはもちろん、眼窩はくぼみ皮膚は枯れ、人並み外れて逞しい骨組みのみが、徒に目立って見えた。そして枕頭に黙?しながら、何時までも頭を上げようとしない母堂の姿の、如何に悼ましくも尊く見えたことか。・・・・」
4月24日、自宅で仏式の葬儀と告別式が行われた。
葬儀委員長は、山梨勝之進大将がつとめ、大勢の参列者があった。
戒名は「天徳院殿仁海 光政大居士」とつけられ、遺骨は郷里の盛岡市円光寺境内の米内家の墓に納められた。

(参考:神川武利 著『米内光政〜海軍魂を貫いた無私・廉潔の提督〜』 PHP文庫 2001年 第1版第1刷)

(令和元年7月1日 追記)


米内光政の墓



米内光政の墓
(岩手県盛岡市・円光寺)





(平成21年11月4日)

米内光政

米内光政は、明治13年3月、父受政、母とみの長男として、盛岡市下小路(愛宕町)に生まれた。
盛岡中学校を経て海軍兵学校に入り、以来、累進して、昭和11年、連合艦隊司令長官、翌12年2月、林内閣の海軍大臣、同年4月、海軍大将に任ぜられた。
つづいて、第一次近衛内閣、平沼内閣にも留任し、昭和15年1月内閣総理大臣になった。
同年7月、内閣総辞職後も、小磯、鈴木内閣の海相となって終戦を迎え、さらに、帝国海軍の終焉まで、その職にとどまった。
性、重厚沈勇、恒つねに国家百年の計を慮おもんばかって、大局を誤らず、為に天皇の御信任きわめて篤く、特に終戦内閣の中心閣僚として善処勇断、よく祖国の壊滅を未然に護った偉業は、日本国民の永く銘記するところであろう。
体躯雄大、豊頬白皙ほうきょうはくせきの偉丈夫であった。
昭和23年4月20日逝せい去、享きょう年69歳。

(説明板より)

円光寺



円光寺
(岩手県盛岡市南大通3−11−49)





(平成21年11月4日)

【重要場面に謎の挙動】

米内光政は、海軍部内では加藤友三郎提督以来の「不戦海軍」派としてロンドン海軍軍縮条約支持(条約派)の立場をとり、軍縮反対の艦隊派を抑えた。
また平沼内閣の海相のときは、次官・山本五十六と組んで陸軍の主張する日独伊三国同盟締結に反対した。
鈴木内閣では終戦処理に努力するなど、親米英派ないし平和派的色彩が濃かった人物とされる。
しかし、日本の和戦選択の重要な岐路に、かならずといってよいくらい、この人物の“かげ”が隠顕し、しかもこの人物の言動が結果的に日本を「真珠湾にいたる道」へと導く役割を果たしていた。

日中戦争のとき(第一次近衛内閣の海相のとき)、海軍が戦火を上海方面にまで拡大することを防げなかったのはどういうわけか。
海軍陸戦隊が上海で火ぶたを切ったとき、それまで中国北部の局地的なトラブルだった日中戦争は全中国的に拡大したのだ。
また、彼は、石原莞爾の日中和平の切り札としての近衛・蒋介石会談を、実質的にぶちこわした。
腰の重い近衛文麿が石原莞爾の提案にようやく乗ろうとしたとき、海軍の航空隊がいきなり渡洋爆撃(東シナ海を渡って首都南京を爆撃)したのである。
これが、近衛・蒋介石会談を計画した日中戦争不拡大(停戦)和平派の石原の構想を瓦解させる決め手となった。

次に、日中和平の最大のチャンスであった「トラウトマン工作」についての閣議の席で、外相の広田弘毅が意見を問われてなぜか“沈黙”しているとき、米内は、やにわに「ぼくは、和平成立の公算はゼロだと思う」と発言したのである。
日中戦争を起こした陸軍の、杉山陸相さえ、このチャンスに和平を、と願っていたのに、平和派の米内がなぜそれに水をさすような態度をとったのか。
大きな謎である。

三国同盟反対を本当に貫徹したいと考えていたなら、平沼内閣の次期、阿部内閣に、なぜ、山本五十六を海相として送らなかったのか。
米内は、陸上におけば山本は暗殺される危険があるとして、海上に(連合艦隊司令長官に)彼を逃れさせたという。
連合艦隊旗艦・長門の長官室にいるかぎり、その身は“安全”と考えたわけだ。
愛する部下をあえて死線に投ずるのが、指揮官であるはずだ。

山本五十六が真珠湾攻撃以降、周囲から神様扱いされ、すること、なすこと“派手”になりすぎ、だれかがブレーキをかけるべきだと周囲が考えていた時、ブレーキをかけられるただひとりの人としての米内は、自分でもそれを知っていたのに、あえてそれをしなかった。
そのあげくが、ミッドウェー以降の戦局となり、山本自身の死につながった。

東条内閣末期から、戦局挽回のため、陸・海軍を“統一”する案が出てきた。
これには陸軍も熱心だった。
そのとき小磯国昭内閣の新海相だった彼の「合流(陸海軍一体化)は中止せよ」という鶴の一声によって、陸海統一戦争指導部に対する海軍側の熱意は、一挙に崩れてしまったのである。
以来「米内には海軍のみがあり、国家なし」という評価が陸軍に生じたという。

小磯内閣のとき、中国から蒋介石の内命を受けたと称する繆斌ヒョウミンが和平工作に来日したことがあった。
これは石原莞爾の東亜連盟系の人々の努力の成果でもあった。
だが、米内は重光外相とともに、一顧だに与えなかった。
この問題のこじれが原因となって、小磯内閣は倒れた。

このように、日本の進路が、きわめて微妙かつ困難な時点にさしかかると、米内光政という“航海長”の“かげ”が浮かび出てくる。
そして、彼が舵手に示唆を与えるなり、コースをそのまま放置しておくなり、あついは、直接、舵輪だりんにタッチすることによって「日本丸」の航路は、結果的には破滅に向って加速することとなった。
戦時中、一部の人々から、彼が「フリーメーソン」の高位のメンバーだという噂が流れたことがあった。
もちろん、その真相は不明であるが、太平洋戦争をめぐる大きな謎のひとつというべきだろう。
終戦のさい自決した阿南あなみ陸相は、最後に「米内を斬れ」と言ったが、その謎めいたことばは、彼が米内の実態を知っていたからかもしれない。

(参考:佐治芳彦 著 『太平洋戦争の謎』 平成8年10月20日発行 日本文芸社)

(平成27年3月3日追記)




 トップページに戻る   銅像のリストに戻る

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送