吉田城 よしだじょう

愛知県豊橋市今橋町・豊橋公園内


吉田城隅櫓 平成14年9月15日

「豊橋市美術博物館・展示解説シートbS」より

吉田城の歴史
吉田城の歴史は、永正2年(1505)、牧野古白こはくにより、その前身の今橋城が築かれたことに始まります。
<明応5年(1496)説もあります>
戦国争乱の世の中で、東三河の要であった今橋城は、戦国武将が激しい攻防を操り返す中で、名も今橋から吉田と改められました。
永禄8年(1565)、徳川家康は今川氏の東三河最大拠点であった吉田城を攻略し、ここに酒井忠次をおきました。
天正18年(1590)、家康の関東移封によって池田輝政が15万2千石で入城し、城地の拡張と城下町の整備を行いましたが、慶長5年(1600)関ヶ原合戦の後、播州姫路に所替えとなりました。
幕藩期には東海道の要衝として、大河内松平など9家22代の譜代大名が在城しましたが、その石高はいずれも3〜8万石ほどで城地を確保しているだけが限度でした。
輝政によって拡張されたこの城も、財政的要因のため完全に整備されず、天守閣の建立を見ないまま明治に至りました。
現在の吉田城隅櫓すみやぐらは、故・城戸久氏(名古屋工業大学工学博士)の設計により、本丸鉄くろがね櫓跡に入道櫓を模して昭和29年に再建されたものです。


吉田城隅櫓



吉田城隅櫓

本丸鉄くろがね櫓の跡のところに建てられています。
鉄筋コンクリート造三層三重櫓式(地階付き)ですが、中には入れません。



(平成14年9月15日)

吉田城跡のある豊橋公園には石垣や空堀、土塁などがよく残されています。


「吉田城略史」

当吉田城は、はじめ今橋城と称し永正2年(1505)、牧野古白によって構築された。
以来、東三河の要衝として今川・武田・徳川ら戦国武将の攻防を経て、天正18年(1590)に池田照政が入封し、15万2千石の城地にふさわしい拡張と城下町の整備が行われた。
しかし照政は在城10年で播州姫路に移封され、のちに入封した大名は譜代ながら少禄のため照政によって大拡張された城地も未完成のまま明治に至った。
この城の縄張りは背後に豊川をひかえ本丸を中心に二の丸・三の丸を配置しそれで堀が同心円状にとりかこむ半円郭式の後うしろ堅固の城といわれるもので本丸は3,931平方メートル(1,189坪)二の丸は15,154平方メートル(4,584坪)三の丸は50,142平方メートル(15,168坪)腰郭は1,864平方メートル(564坪)堀土手敷は53,534平方メートル(16,194坪)総面積は124,625平方メートル(37,699坪)である。
現在見られる遺構は照政時代の旧態を残している。

※池田照政はのちに輝政

昭和51年
豊橋市

(説明板より)


豊橋市美術博物館
三の丸の東端にあり、吉田城関係の歴史資料も紹介しています。
常設展
考古資料:昔の人々の生活と文化
民俗資料:暮らしの道具・郷土玩具
司コレクション:陶磁器
歴史資料:大河内(松平)家と吉田城
美術資料:郷土の画家


休館日:毎週月曜・12月29日〜1月3日


(平成14年現在)


ミュージアム・ショップ

葵のふる里の歴史
中根 大 著  平成8年 「松平の里」観光協会発行  1,000円
大名行列図〜描かれた大名行列〜
1997年  豊橋市二川宿本陣資料館編集・発行  1,800円
吉田藩士屋敷図・吉田城本丸二之丸略絵図
平成10年  豊橋市美術博物館編集・発行
吉田城いまむかし〜吉田城址発掘出土品展〜
平成8年  豊橋市教育委員会編集・発行

豊橋市美術博物館は企画展(主に美術関係)の開催時に常設展が見られないことがあります。
例えば2002年4月〜2003年3月の場合、12ヶ月の間に常設展が見られるのは4月〜8月の約4ヶ月間しかありません。
企画展のために常設展の展示替えをするので見られないそうなのですが、この博物館の方は「常設」の意味をどのように考えておられるのか甚だ疑問です。
歴史ファンの方は遠方より来て泣く泣く帰る羽目になりますので、必ず事前に確認してから行ったほうがいいですよ。


 (関連商品のご紹介)


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