芳沢謙吉像

芳沢謙吉 よしざわ・けんきち

明治7年(1874年)1月24日〜昭和40年(1965年)1月5日

新潟県上越市 芳沢公園でお会いしました。


明治7年(1874年)高田市大字堀之内の素封家の家に生まれ、明治32年7月に東京大学文科を卒業後、外交官試験に合格、約60年間の外交官生活のスタートをきりました。
大正14年(1925年)駐華大使在職中にソ連のカラハン公使との間に日ソ基本条約を締結、ロシア革命後のソ連との国交正常化を実現しました。
昭和5年(1930年)駐仏大使兼国際連盟日本代表理事となり、満州事変後の国際連盟外交を担当しました。
1932年に犬養毅内閣の外務大臣に就任しました。
(芳沢謙吉は犬養毅の娘婿です)
第二次大戦後、公職追放となりますが、解除後の1952年に初代の駐中華民国(台湾)大使となりました。
昭和40年(1965年)、91歳で亡くなりました。


芳沢謙吉記念公園

芳沢記念公園
昭和33年に生誕の宅地を改造してつくられました。
公園内の記念館は廃屋状態でした。
外務大臣まで勤めた人の記念公園とは思えないほど荒れていました。
(平成13年現在)


【北京駐在公使】

昭和3年(1928年)五月末の一夕、北京駐在公使芳沢謙吉は、本国の指令に従って、張作霖を訪ねた。
北京を血の海にしたくない。
ここは国民軍が来る前に奉天に引き揚げるべきだと勧告した。
だが張作霖は国民軍と一戦交えると主張し簡単には応じない。
張作霖が、日々悪化する戦況をようやく悟ったのは6月1日だった。
負けず嫌いの張作霖は、宮中の居仁堂に各国公使を茶会に招き、その席でいきなり北京退去の挨拶を述べたのである。

(参考:加藤康男 著 『謎解き「張作霖爆殺事件」』 PHP新書 2011年5月第一版第一刷)

(平成27年3月7日追記)




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