吉田稔麿 よしだ・としまろ

天保12年(1841年)〜元治元年(1864年)


吉田稔麿誕生の地



吉田稔麿誕生の地

(山口県萩市)




(平成15年7月26日)

吉田稔麿誕生の地

吉田稔麿は、1841(天保12)年、足軽の長男としてこの地に生まれた。
松下村塾に入門し、高杉晋作らとともに松下門下の四天王してんのうといわれた。
松陰の死後、尊皇攘夷運動に参加し、屠勇とゆう隊(有志の部隊)を組織した。
1864(元治元)年、京都三条の池田屋旅館で他藩の志士と会談中、新撰組に襲われ負傷し、24歳の若さで死去した。

萩市
(説明板より)


松下村塾の四天王

高杉晋作、久坂玄瑞、入江九一、吉田稔磨

行動

万延元年(1860) 10月 兵庫警備の御番手として勤務中、突然脱藩して江戸に向かう。
松里勇と名乗り幕臣・妻木田宮つまき・たみやに仕える。
文久2年(1862) 5月 妻木家を去り京都に上る。
7月 藩主に自首して藩に帰参する。
11月 長州藩の命により江戸に入る。
妻木の協力を得て長州藩に対する幕府の嫌疑を晴らすための周旋をする。
元治元年(1864) 2月 江戸を発ち帰国の途につく。
5月 藩命で幕府宛の嘆願書を預かり再度江戸へ向かう途中、京都に入る。
将軍・家茂が大坂へやってくるとの情報により江戸行きを中止。
京都に滞在して形勢を窺う。
6月 古高捕縛の善後策協議のため池田屋に集まったところを新撰組に襲われる。
包囲を突破して一旦藩邸に帰ったが、再び飛び出して斬られた。
(藩邸が門を閉ざしたため自害したという説もある)

(平成17年1月29日記)


池田屋騒動之地


「維新史蹟 池田屋騒動之地」の碑

(京都市中京区三条通木屋町西入る)





池田屋騒動址

元治元年(1864)6月5日、四条小橋の古高俊太郎を捕らえ厳しく取り調べた結果、倒幕派がクーデターを起こす計画を知った新選組は、旅篭「池田屋」で密議中の長州、土佐、肥後の尊王攘夷派の志士約20名を近藤勇率いる新選組10名が襲撃し、多くの死傷者を出した。
この事件で倒幕が1年遅れたといわれるほど、尊穣派は大きな痛手を被りました。

三条小橋商店街振興組合

(説明板より)

パチンコ屋さんの前にある碑



碑はパチンコ屋さんのところに建っていました。





(平成16年4月2日)

吉田稔麿の墓



吉田稔麿の墓
(京都市・京都霊山護国神社)





(平成19年3月17日)

池田屋事変

浪士狩りと称し洛中の取り締まりを行っていた新撰組は元治元年(1864年)6月5日早朝、武田観柳斎らにより桝屋喜右衛門と名乗る古高俊太郎を捕らえ、壬生屯所へ連行。
土方歳三による激しい拷問により志士密会と大謀議を自白。
同日夜半、池田屋にて会談中の尊王攘夷派志士たちを新撰組・近藤勇、沖田総司、永倉新八、藤堂平助らが襲撃。
これにより宮部鼎蔵、吉田稔麿、松田重助ら優れた人材が闘死もしくは捕縛され失われた。
また、この事変が期となり長州藩が挙兵、上洛。
禁門の変が起こる。

吉田稔麿 辞世の句
「むすびても又むすびても黒髪のみだれそめにし世をいかにせむ」
長州藩邸から池田屋へ向かう途中に詠まれた。

京都霊山護国神社

(説明板より)


松下村塾  



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