享保9年(1724年)〜寛政12年8月16日(1800年10月4日)
天文2年(1737年)稽古通詞。
寛保2年(1742年)小通詞。
寛延元年(1748年)大通詞となり、寛政2年(1790年)まで勤務。
出島のオランダ商館医から医術を学ぶ。
杉田玄白らとの交流が深く、『解体新書』に序文を寄せる。
家塾・成秀館には各地から入門者が集まった。
吉雄邸二階のオランダ風の座敷は有名。
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吉雄耕牛邸跡 (長崎県長崎市・長崎県警本部) (平成20年11月22日) |
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長崎県警本部(吉雄耕牛邸跡) (長崎県長崎市万才町4−8) (平成20年11月22日) |
吉雄耕牛邸跡
吉雄家は阿蘭陀通詞を勤めた家柄で、耕牛(1724〜1800)も実に53年間も阿蘭陀通詞を勤めた。
かたわらオランダ商館医、特にツュンベリーについて医学を学び、吉雄流外科を創始した。
その診断法には尿の検査なども取り入れているが、コーヒーにも注目、薬剤としても使用している。
杉田玄白等に懇望され、安永3年(1774)「解体新書」の序文を書くなど、その名は有名で、生涯の門人は1,000人にも及んだという。
この住宅の2階には阿蘭陀部屋と呼ばれるオランダ風の部屋があり、長崎を訪れる人達の憧れの的であった。
(説明板より)
【対ロシア問題】
対ロシア問題のおこりかけた18世紀後半、長崎には吉雄幸作(号は耕牛)、松村君紀(翠崖)、本木栄之進(仁太夫)のような学殖見識ともにすぐれた通詞たちがいた。
彼等はよく研究し、オランダ人にも尋ね、ほぼ世界の大勢に通じていたから、ロシアの東洋進出や、蝦夷地南下の状況にもあかるく、したがって日本の危機を痛切に感じた。
吉雄耕牛は、ヨーロッパ人、ロシア人が、蝦夷地を領有する危険を警告していた。
さらに、ロシアの中国への使節ロレンツ・ラングの紀行『支那聘使へいし記』をオランダ書から訳出している。
このほかに『ベシケレイビンキ・ハン・リュスランド』(『ロシア記』)という訳書もある。
これらのことから、吉雄がいかにロシアの東方経営を注視していたかがわかる。
(参考:中村新太郎 著 『日本人とロシア人』 1978年5月第1刷発行 大月書店)
(平成31年2月9日 追記)
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